8話
赤い華。
瀬尾さんが咲かせた幾つもの華によって、静かな波紋が社内に広がった。
朝、更衣室で向けられた視線によって始まった居心地の悪さは、結局終業時間まで続いた。
昼食をとるために行った食堂や、会議の為に他部署へ顔を出した時。
それどころか自分の席について仕事をしている時でさえ、周囲からの視線は絶えず私に向けられていた。
そんなに私の首筋のキスマークが気になるのかな。
大して目立つ存在でもなく、淡々と仕事に励むだけの私なのに、単なるキスマークだけで、どうしてここまで注目を浴びるのか、考えると更に居心地が悪くて。
早く帰りたい。
ただそう思いながら仕事をしていた。いつもにも増してひたすら一生懸命に。
気持ちを仕事に集中させた、そんな中で気づいた事がある。
私に向けられている視線は確かにわずらわしくて、放っておいて欲しい。私がキスマークをつけていようが、誰にも迷惑はかけていないのに、どうしてそんなに注目するんだ。
と面倒な思いを抱えながらも、私に向けられる視線には、悪意がないと、気づいた。
探るように向ける視線や、心配そうに瞳をこらす人、嬉しげに微笑みを浮かべながら私に表情を崩す人。
仕事の合間に、ちらちらと向ける私の視線がとらえるのは、全てが好意的なものばかりだ。
……どうしてだろう。
好奇心に満ちながら、無遠慮な問いが落とされる事も覚悟していたけれど、決してそんな状況は生まれなくて、遠目から私をうかがっている、そんな周囲の視線ばかりを感じた。一日中。
そんな周囲に違和感を覚えて、終業後に弥生を食事に連れ出した。
毎日残業で深夜まで働いている私だけれど、さすがに普段と違う空気の中で仕事をするには限界がある。
定時内でどうにか仕事を切り上げて、帰る事にした。
「みんな、優しそうに笑ってるの、おかしくない?」
会社の近くにあるお店でパスタを食べながら、弥生に聞いてみる。
今日一日感じていた違和感、その正体を知りたい。
「優しいことが、おかしいの?」
くすくすと笑う弥生は、手元にあるワインを飲み干して、ボトルから新しく注いでいる。
弥生の満足げな表情は、ワインを前にするといつも浮かべるものだ。
本当においしそうに食べて飲んでいる。
悩みばかりのわたしから見れば、本当にうらやましい。
「優しくされる事は、もちろんうれしいよ。でも、私のキスマークの事、気づいてるはずなのに、好奇心よりも、なんていうか、ほっとしたっていうか、穏やかっていうか。
妙に嬉しそうな感じもあって、おかしいなって感じ」
思い返すように、ゆっくりと弥生に話しながら、私も少しだけワインを口にする。
私も弥生もどちらかというと白でさっぱりとしたワインを好む。どんな料理に合うかなんて考えずにいつもそうだ。食の好みも似ていて、行きたいお店で意見が分かれることも少ない。
本当、貴重な親友。私に対して、厳しいことでさえズバズバと言葉を投げてくれる彼女には、裏表もなくて信じられる温かさが感じられるせいか、私の気持ちも緩む。
「ほっとしたっていう気持ちは、私もわかるかな。
花緒があのどうしようもない男に傷つけられて落ち込んでる様子、みんな知ってるしね。
だからといって、色恋の事なんて、当人同士が決めて進むしかないから、誰もが黙ってたんだよ。
うちの会社ってそういう事あるでしょ?
仕事でもさ、個人レベルで解決できる問題には周りがタッチする事少ないし。
花緒が傷ついてるのは承知で、それでも口も出さずに花緒が次の恋に進むのをみんな待ってったっていうか、願ってたっていうか。だから、次の恋を楽しんでるって見せつけるキスマークを見て、みんな安心したんだよ。反対に、あの男には『ざまーみろ』だね」
ふふん、と笑う弥生ちゃんの言葉、どれもが私には驚き以外には感じられない。
ただでさえ悠介が私の出生の事を社内に触れ回った事に衝撃を受けているのに、社内の人たちの思いまで知らされて、どう受け止めていいのか。難しい。
悠介と別れた原因は、結婚の話を進めようとしたと同時に表に大きく出た私の出生の事。
父が誰だかわからないという、事。
悠介は、それまで私の事を大切に愛してくれて、将来もこのままずっとそうだと思っていた。
けれど、出生の事を話した途端顔色も変わり、徐々に距離ができ、最後には悠介の両親から私との結婚は認めないと冷たく言い渡された。
その過去を含めて、悠介は私との別れを社内に広めた。
きっと、自分の決断が正しいと認めてもらいたい自己防衛。
私生児である私との結婚を取りやめる事は正しいと、そう知らしめたいゆえの行動だ。
「あの男、今度結婚するでしょ?みんな口にはしないけど、花緒を苦しめてる張本人なのに、どうしてあんたが幸せになるんだって、悔しいんだよ。なんで花緒が先に幸せにならないんだって、そう思ってるんだよ。……だから、花緒がキスマークつけて、恋人いますよーって宣言してるのが嬉しいの。了解?」
「了解、って言われても……。弥生のいう事、よく理解できないし、まさか嘘って感じだし。
それに、恋人じゃ……ないから」
「え?」
「恋人なんて、いない。このキスマークだって成り行きでつけられただけだし、瀬尾さんの事、良く知らないから。恋人じゃない」
「えっと、その……瀬尾さんて……もしかして」
瀬尾さんを思い出しながら、その途端に感じる胸の痛みを押しやって、苦笑した。
キスマークはつけられたし抱きしめられた。キスもされたけど、それだけの人だ。
きっと、おばあちゃんとの付き合いの延長で私を気に入ってるんだと思う。特に私だからどうっていう特別な感情はないに違いない。……抱きしめられたときの体温を思い出すと、年甲斐もなくきゅんとするのは気のせいだ。長い間恋人がいなかった私の肌が、勝手にときめいただけにちがいない。
「瀬尾さんは、女の人にもてそうだし、私には太刀打ちできる人じゃないよ、無理無理」
まるで自分に言い聞かせるようにそう呟いて顔を弥生ちゃんに向けた。
すると、何かに驚いて私の背後を凝視する弥生ちゃんがいた。
「弥生ちゃん?」
小さく声をかけると、何かにやりと笑った気がした。そして、
「瀬尾さんて、背が高くて格好いい人?スーツが似合って恋人は何人もいそうな感じ?」
「あ、うん、そんな感じ」
弥生ちゃんの質問の意味がわからないままに、そう答える。恋人が何人もっていう事を認めるのは自分でも切ないけど、実際そんな感じの人だ。あまりにも格好いい人だから、おかしくない。
「ふーん。それなら花緒は渡せないね。次に花緒が付き合う人は誠実で花緒だけを愛してくれる人じゃなきゃね。私が許さない」
「……弥生ちゃん?」
少し厳しい口調になった弥生ちゃんに違和感を覚えた私は、そのまま彼女を見つめていた。
どこか冷たい表情に変わっていく彼女の視線の先は、なぜか私の頭上にあって。
なんだろう。何を見てるんだろう。
ふと振り返った私の視線がとらえたのは。
あからさまに不機嫌な感情を顔に出している……。
「瀬尾さん、どうして……?」
私の座っている椅子の背に軽く手を乗せて、まるで私をにらむような、瀬尾さんがいた。