7話
本当の恋人同士のように激しくキスを交わしても、瀬尾さんに飛び込む事はできない。
そんな私の気持ちを一切受け入れる様子もなく、何度も私の首筋に痛みを残した瀬尾さんは、
「とりあえず、今日は送っていくけど。これで終わりじゃない」
逃がさないとでもいうような強い瞳と声で私に言い落とした。
そして、再び私の手を引いて家までの道を歩き始めた。
今起きた事がまるで夢のようで、でも、唇に残されている瀬尾さんの柔らかさや熱は、現実だと教えてくれていて。
ふらふらとした足元でどうにか歩いていた。
時々私に視線を向ける瀬尾さんは、今まで見た中で一番優しく見えて、更に私の気持ちを揺らす。
本当に、私の事を好きだと勘違いしそうになって、そのたびに私は気持ちを引き締める。
そんな事ない。
きっと、瀬尾さんに、今恋人がいないから勘違いしてるだけ。私を好きだと勘違いしているだけだ。
もしも本当に好きだとしても、私が抱えている現実を知れば、すぐにその思いは冷めるに違いない。
その瞬間が怖くて、飛び込めない。
* * *
翌日、会社で制服に着替えていると、周りからの視線がやたらと気になった。
直接声をかけてくる人はいないけれど、ちらりちらりと視線が向けられているのはわかる。
普段から、誰とでも心を開いて明るく付き合っているわけではない私に、個人的な事を聞いてくる同僚は少ない。
みんな、私を気にしながらもそれだけで、色々想像しているに違いない。
私の首筋にはっきりと咲いている赤い華を見ながら。
私に赤い華が咲いていても、大して周りに影響はないだろうと、軽く考えていたけれど、甘かった。
更衣室から自分の部署に向かう途中、同期の弥生につかまった。
「ちょっと来てよ」
会議室に連れ込まれた私は、途端に弥生からの視線にさらされた。
じっと首筋を見て、小さく笑ってる弥生。どこか意地の悪い笑顔はいつもだけど、何だか今日は悪魔ぶりが強い。
「へえ、噂は本当だったんだね。花緒がキスマークつけて会社に来たって話、結構広まってるよ」
「は?まさか、私の事ぐらいで、こんな朝早くから噂になんてならないでしょ」
驚く私を予想していたのか、弥生はふふんと笑って。
「それがそうでもないんだな。朝エレベーターで一緒になった人達が驚いて、次に更衣室で一緒になった人達が確認して。花緒に恋人ができたって話は既に今日の話題第一位だね。で、結局真相はどうなの?」
「第一位って言われても、え?なんで?私の事なんて、特に話題になんてならないでしょ」
「なるなる。恋人に捨てられてから一切男の噂がなかった傷心の美女に新しい恋人なんて、いい暇つぶしの話題になるよ」
他人事だと思ってだろうけど、あっけらかんとそう言う弥生に、ほんの少しイラっとくる。
暇つぶしなんて言われていい気分じゃないし。それに、
「恋人に捨てられたなんて、かなり前のことなんだよ?今じゃそんな話題、出る事ないのに」
私が別れてから何年も経つのに、どうして今更そんな事がぶり返されるんだろう。
思い当るのは、あいつの結婚が決まったから?って事だけど。
「今更昔話をしても仕方ないけど、もう私にとっては過去の事だし、彼は結婚決まってるんだよ。
その事を持ち出して私のことを噂話のネタにするなんて、やめて欲しい」
ちょっときつい口調で思わず言ってしまった。
普段あまり自分の感情を素直に出さない私の様子に、一瞬だけど弥生の顔が歪んだ。
嫌悪というよりも、驚きによっての表情に見える。
私と違って快活で表情豊かな弥生だから、その場その場の心情は、顔を見ればすぐにわかる。
「ごめん。きつく言い過ぎたね。でも、もう昔の事だし思い出していい気分になるものでもないから。
悠介の事は言わないで」
小さく息を吐いて、穏やかに言った。
『悠介』と私が声に出すことすら滅多にないせいか、それだけで私がそれをどれだけ強く望んでいるのかを、弥生はわかってくれるはず。
「花緒が昔の事にまだ傷ついてるのはよくわかったけど。でもね、きっと花緒が思ってる状況と周りが思ってるそれって違うと思う」
「違うって?」
「花緒が彼と別れたのは、自分の生い立ちのせいで彼のせいじゃないって思ってるかもしれないけど。
社内の人間、誰一人そんな事思ってないよ。逆に、林さんの事を冷めた目で見てる」
私に言い聞かせるような弥生の真剣な瞳に気持ちはぐっと持っていかれる。
腕を組んで、何かをじっくりと考えるように首をかしげると、弥生の瞳はさらに真剣な色を帯びる。
「花緒にとっては出したくない話題だろうけど……ごめん、言わせてね。
花緒が私生児だって事を理由に別れて、そしてその理由があたかも正当だというように社内で吹聴した林さんの事を、良く思う人なんていないよ」
「社内で……吹聴?」
弥生から聞かされたその言葉に、体が縛られる。まるで、自分ひとりが何も知らずに安穏と過ごしてきたんじゃないかと、とても大切なことを隠されていたんじゃないかと、その事だけに思いはめぐる。
私が私生児だっていうこと、親友の弥生は知っているし、それは私自身が告げた事。
だからといって、話す前と後で私と弥生との関係がどうこうなるっていうことはなかったけれど。
そして、恋人という関係だった悠介とは結婚の話も出るようになった。
私の出生の事を、話さないわけにはいかず、彼にも話した。そして、私と彼との縁は途切れた。
一人で抱えるには大きすぎる悲しさを得るだけで、悠介との愛情は何事もなかったかのように、終わった。
その二人だけ。社内でその事を話したのは弥生と悠介だけで、あとは入社の時に人事関係の書類に記入した内容で察する人はいても、だからといってその事は秘密扱いにされているはず。個人情報の取り扱いが厳しい今、出回るとも思えない。
「林さんはね、花緒と別れた事で自分が悪者にならないように、花緒が私生児だって、だから結婚はできないからってまるで自分は被害者のように触れ回ってたのよ。本当、殴ってやりたい」
自分で言いながら、だんだん気持ちが高ぶる弥生の様子を茫然と見ていると、何をどう答えていいのかわからなくなる。
悠介と別れた後に、私の知らないところでそんな展開。
「信じられない……」
ただでさえ、秘密にしている現実が、社内に出回っていると聞かされて。
立っていられなくなった私は、近くにあった椅子をひいて、倒れこむように座った。
心臓が、激しくうっている。その音しか聞こえなかった。