41話
その日は終業時刻を待たずに早めに仕事を終わらせるよう課長から指示された私は、一旦家に戻った。
パーティーに合う服に着替えてから再び出かけなきゃいけないけれど、パーティーに出席するなんて機会、これまでだって滅多になかったから何を着ればいいのかと頭が痛い。
とりあえずスーツでいいと秘書課の女の子からの伝言を貰っていたけれど、それでもどんなスーツがいいんだろうと悩む。
通勤用のスーツじゃ華やかさもないけれど、会社のイベントに違いないパーティーに華美に装い過ぎるのもどうかと……。
弥生ちゃんみたいに決断力と自信が欲しいな。
彼女みたいに見た目華やかなら何を着ても似合ってしまう。
せめて社長賞発表の翌日にパーティーを催してくれればいいものを、当日早速あるなんて困るよ……。
髪型だってどうしよう。美容院に行く時間すらない。
会社から家までの帰り道を足早に歩きながら、悩みに悩んでため息ばかり。
家に着いた時にはその焦りと悩みが露骨に表情に出ていたんだろう。
『あら、とうとう瀬尾さんに捨てられたのかい?』
私の顔を見た瞬間におばあちゃんは苦笑しながらそう言った。
冗談じゃない。
むっとした私に、おばあちゃんは首を傾げながら、
『そうじゃなければ何をそんなに悩む事があるんだい?一番大きな悩み以外は悩みじゃないんだよ』
私の肩をポンと叩くおばあちゃんの目尻のしわが、『ばかだね』とも伝えていた。
年の割には見た目も気持ちも若いおばあちゃんだけど、見慣れないしわに気づいてどきっとした。
私が年を重ねた時間と同じだけ、おばあちゃんだって毎日を生きていて、目じりにしわもできるし白髪だって増える。……私よりもきれいなアッシュブラウンに染められている髪の艶は、いつも変わらないけれど。
おばあちゃんだって、年を重ねている。
それでも、そう見せない強さと努力が彼女にはあって、今のおばあちゃんなんだ。
何事にも動じないけれど、それは動じないのではなくて動じない自分を演じているのかもしれない。
孫である私を育てる使命を背負って、悩まなかったわけはないし苦労だってかなりあったはず。
そんな私の家族であるおばあちゃんを誇りに思える。そして、私の悩みがちっぽけ過ぎておかしくなる。
「早くに仕事が終わったんだね。夕飯だってまだこれから準備しようと思ってたんだけどね」
「うん。準備がまだならちょうど良かったんだけど」
「……何かあるのかい?あ、瀬尾さんと会う?泊まってくれてもいいよ。おばあちゃんの事は気にしないでいいからね」
くすりと笑って、おばあちゃんはリビングのソファに腰掛けると、編みかけのレースを手にした。
真っ白なレースで編まれていく模様は花柄で、私の結婚式の時の手袋にしたいと張り切っている。
朝見た時よりも模様が大きくなっているのに気付いて、どれだけ頑張って編んでくれてるんだろうかと胸がいっぱいになる。
結婚式の日取りすら決定していないし、夏弥のご両親への挨拶も済んでいないのに、気が早すぎる。
「あのね、これからおばあちゃんもAホテルに一緒に来て欲しいんだけど」
社長賞のお祝いのパーティーに家族を同伴していいのなら、絶対におばあちゃんを連れていこうと、会社にいる時からずっと考えていた。これまで唯一の家族として私を育ててくれたおばあちゃんに、私の人生で最初で最後かもしれない華やかな場所に来てもらいたかった。
「……Aホテル?」
驚いたように私に視線を向けて、編み物の手を止めたおばあちゃんの低い声。
「そうだけど、Aホテルがどうかしたの?」
「え、いや、なんでもないよ。……あんな高級ホテルに行こうなんて、身の丈に合ってないしどうなのかいって思ってね」
早口でそう告げると、思い出したように手元の編み針を動かし始めたおばあちゃん。どことなく落ち着きがないと感じるのは気のせいだろうか。
普段から私の目をしっかりと見て気持ちを伝えてくれるおばあちゃんなのに、表情を隠すように顔をそむけた。
「あの、私社長賞を貰うことになって、そのお祝いのパーティーが、あ、立食で軽い催しらしいけど……。
で、家族も連れて行っていいらしいから、おばあちゃんも来て欲しいの」
おばあちゃんの表情を探るようにゆっくりと話したけれど、相変わらず手元のレースしか見ない。
私の声が聞こえたのかどうか不安になったけれど、やたら引き締まった口元を見れば、ちゃんと声は届いているんだろうとわかる。
何度か小さく息を吐いて、それでも何かに悩んでいるように首をかしげて。
編み物に気持ちを集中させようと必死にも見える。
「おばあちゃん……?」
近寄って、真正面から顔を見ると、緊張感と不安が見えた。
なんだか小さく見えるおばあちゃんを目の当たりにして、しばらく何も言えずに戸惑っていると。
「行った方が、いいんだろうね……その方が、もしも……いや、そんな事はまずないか。それでも……」
なにやら独り言のような言葉が聞こえてきた。私がわからない幾つもの言葉に混乱したまま、じっとおばあちゃんを見つめるしかできない。
悩みを抱えないおばあちゃんが何かに悩んでいる。
それはとてつもなく大きな悩みに違いない。
「花緒の晴れ姿を、私も見るよ……」
「本当……?」
どこか悩んでいるようなおばあちゃんの表情に不安を感じながらも、それを問うてはいけないような、そんな拒否感がおばあちゃんの瞳から感じられて、私は黙って頷いた。
そして、それから一時間後。
おばあちゃんが用意してくれたシフォンのワンピースに着替えた私と和服姿が似合うおばあちゃんは、タクシーに乗ってAホテルに向かっていた。
車中の空気はどこか張りつめていた。




