40話
始業してすぐの休憩室には、予想通り誰もいなかった。
私だってこの時間にここに来るなんて事滅多にない。
ふうっと小さく息を吐いて、部屋の片隅に置かれているソファに腰かけた。
携帯で夏弥の名前を呼び出して、『えいっ』っと心で弾みをつけたあと発信した。
3度目のコール音が終わったと同時に夏弥の声が聞こえて、一気に緊張した私。思わず言葉も詰まってしまう。
『花緒?どうした?今会社じゃないのか』
ほんの1時間ほど前に別れたばかりの私からの電話に少し驚いているような夏弥の声が、耳に心地よく響く。どこか心配げな声に申し訳なく感じた。
「うん、会社なんだけど、ちょっと相談があって」
『ん?相談って何だ?いつから一緒に住むとかならいつでもいいぞ、もちろん今晩からでも。
それとも新婚旅行はどこに行くかっていう相談か?国内でも海外でも、俺は花緒がいればどこでもいいから花緒の好きにしてくれ』
「……」
思わず黙り込んでしまうくらいに予想外の甘い言葉が耳元で溶けていく。
夏弥って、こんなにも私に優しすぎて甘やかせてくれる男だったな、なんて改めて実感した。
夏弥の気持ちの重さには慣れたつもりでいたけれど、照れて顔を覆ってしまいたくなるくらいに私に一生懸命なところ、軽く考えてたかも。
今も、冗談で言ってるってわかっていても……慣れてなくてどきどきする。
『おーい、花緒?どうした?』
ぼんやりとしている私に夏弥の声が届いてはっとした。
そうだ、早く今晩の事を聞かなくちゃ。
「あ、ごめんなさい。あのね、今晩なんだけど、何も予定がなければ一緒に行って欲しい所があるんだけど」
『今晩?あー、何時からだ?』
「えっと、19時にうちの会社の近くのAホテルなんだけど……忙しい?」
『いや、今日は仕事休みだから忙しくはないんだけど、……ちょっと遅れていいなら大丈夫だ』
「そっか、無理しなくても大丈夫。ちょっとした会社の食事会だから一緒にどうかなと思っただけで」
何か予定があるのか、考え込みながらの夏弥の返事が気になって、慌ててそう言った。
『無理じゃないし、無理でも行くから。で、会社関係のイベント?何かあるのか?』
「うん、その。社長賞を祝う食事会っていうか、立食パーティーみたいなものなんだけど。
家族を同伴してもいいって聞いたから夏弥も一緒に来て欲しいなって思って」
『社長賞?』
「うん。私が参加したプロジェクトが社長賞をもらうことになったからそのお祝いなの」
『凄いな。社長賞なんて、俺でもまだ二度しかもらってないぞ。って言っても会社が違うし価値も違うな。花緒みたいな研究職がもらう社長賞なんてかなりの功績だろ?』
驚きと嬉しさを隠さない夏弥の言葉に照れてしまうけれど、これまで二度も社長賞をもらっているなんてさらっという夏弥の方がすごい。
仕事ぶりを直に見たことはないけれど、感じていた通り仕事はできる人なんだ。
何に対しても厳しい目線のおばあちゃんでさえ信頼している夏弥だから、やっぱりって納得。
『で、その立食パーティーに俺が行ってもいいのか?』
「うん……えっと、その。こ、こ、婚約者として……だめかな?」
『こ、こ、婚約者って、照れてるのか?』
くすくす笑う声が響いて、私の体は一瞬で赤くなったと思う。婚約者なんてすらすらと照れる事なく口にできる言葉じゃないんだし、結婚の約束をしてからだって浅いんだから、口ごもるのは当たり前だと思うんだけど。そう心であたふたしても、電話越しでは私の感情の起伏を伝えるのは不可能で、ただ無言のまま。
『婚約者、ってちゃんとすらすら言えるように頑張ってくれよ。ま、すぐに籍入れるから婚約者から夫に変わるのも時間の問題だけどな。で、花緒は妻?嫁?かみさん?どう呼ばれたい?』
「……」
私の顔はぐんと熱を帯びて、赤くなっているに違いない。
どうしてこうも私がどぎまぎ慌てて、無言になってしまうくらいに照れる言葉を次々と言えるんだろ。
電話越しじゃなくて、目の前で言われたら気を失ってるかも。
「あ、夏弥?」
どうにか気持ちを落ち着けて、ようやく呟いたのはたったそれだけ。
『ん?夕方寄りたいところがあるから少し遅れるけど、ちゃんと行くよ。花緒と一緒に社長賞受賞をお祝いしたいしな』
「うん……じゃ、詳しい事はメールしておくから。……待ってる」
『花緒?』
「え?」
『俺的には、嫁さんってのがいいんだけど』
「なっ……」
最後の最後まで、私の気持ちを落ち着かせてくれない男だ……。
『嫁さん』って、そんなの、嬉しすぎるし幸せすぎる呼び方。
大好きな夏弥からそう呼ばれて、堂々と笑っていたい。
じゃあな、と言いながら笑いがおさまらない夏弥との電話を終えて。
ふわふわと幸せに包まれた感覚を味わいながら、緩みに緩んだ顔を一生懸命もとに戻した。
大きく深呼吸をして気持ちを切り替えて休憩室を出ると。
少し離れた柱の影に同じ部署のみちるちゃんが見えた。
携帯を耳に当てて小さな声で話している。
みちるちゃんの横を通らなければ席に戻れないと気づいて一瞬困ったけれど。
これ以上席を空けられない。何も見ない聞かないふりで急いでその横を通り過ぎた。
ちょうどみちるちゃんの横を通り過ぎる時、聞くともなしに耳に入ってきた言葉に気持ちは降下の一途。
「悠介さんの婚約者としてパーティーに行ってもいいんですか?」
明るく弾んだその声は、上のフロアにいる悠介に届いているんだとすぐわかる。
そうか、そうだよね、みちるちゃんも来るよね、来たいよね……。
悠介にとっても社長賞を貰うなんてかなりの名誉だし。そりゃみちるちゃんにも見せたいよね。
「夏弥、早く来て欲しいな……」
足早にその場を通り過ぎながら、小さくため息をついた。




