4話
その日、瀬尾さんと連絡先を交換した。
『会社にかけていただいてもいいですが、携帯の方が確実ですので、できればこちらに連絡下さい』
携帯の番号と、メールアドレスをその場で書いてくれた名刺。
『普段はこの番号はお客様には教えないんですが、木内さんにはよくしていただいてますので、特別です。いつでもかけてきてください』
営業トークなのか本音なのか、よくわからない口調と笑顔を向けられても、うまく答えることができない。微妙に距離を取りながら、とりあえずその名刺を受取った。
第一、キッチンのリフォームについてどうするのかもまだはっきりと決めたわけじゃなくて、時間をかけて考えてみたい。
そんな私の揺れる想いを察してくれたのか、瀬尾さんは
『花緒さんが、最終的にどうしたいのかも含めて相談にのらせて下さいませんか?』
無理に押し付けるわけでもなく、私に考える余裕と時間も与えてくれた。
おばあちゃんが私の気持ちを汲んで、色々と考えてくれた事とはいえ、私にも覚悟が必要になってくる。
今勤務している会社をどうするか、とか本当に私にできるんだろうか、とか不安はいっぱいだ。
確かに現実になれば嬉しいけれど、それだけでは将来を明るいものにできるわけではないから。
結局、少し考えてから瀬尾さんに連絡する事にした。
瀬尾さんは、気を悪くするでもなく笑顔で、『連絡をお待ちしています』そう言ってくれた。
まるで、私からの電話を心から待っているかのように気持ちをこめてそう言ってくれるのは、営業魂なのかな。錯覚しちゃいそうだ。私を求めてくれてると、誤解しそう。
そんなわけないのに。
……やっぱり、元カレの結婚って、わたしにとっては大きな衝撃だったんだな。
瀬尾さんの事が気になって仕方ないのは、寂しさを感じる気持ちが、誰かにすがりたいって、無意識にそう思わせるのかな。
好きになって、一緒にいても、結局は同じなのに。
私には、結婚までたどり着いて、将来を共に歩む事はできないのに。
……わかってるのに。
営業スマイルだと気づいていても、瀬尾さんの瞳にとらわれてしまった私。
握りしめた瀬尾さんの名刺が、とても大切な宝物のように思える。
女子高生じゃあるまいし……。
とっくにおばあちゃんも寝てしまって、自分の部屋で一人テレビを見ながら、そんな自分に苦笑いした。
* * *
おばあちゃんが、その後何も聞いてこない事をいいことに、キッチンのリフォームについては口に出さずにいた。
何度考えても、勇気が出ないというのが一番大きな理由。
今働いている会社に不安があるわけでもなく、満足もしている。
小さな頃からおばあちゃんに何度も言われていた
『女一人でも生きていけるように、何か資格をとりなさい』
その言葉に従うように一生懸命勉強に励み、高校、大学とそれなりにレベルの高い学校に通った。
そして、薬剤師の資格を得た私は、薬品会社の研究部門で働いている。
就職をして、初任給をおばあちゃんに全額渡した時、初めておばあちゃんの涙を見た。
『これで、一人でも生きていけるね』
肩の荷が下りたようにほっとした表情で、泣き顔を隠すことなく呟いたおばあちゃん。
料理も厳しく仕込まれて、地に足をつけて生活できるようにあらゆることを教えてくれた。
もともと会社を経営していたおじいちゃんが遺してくれた財産はかなりのもので、それだけでも私の将来に不安はないと言いながら、それでも躾や一般常識、強く生きていくためのあらゆること。
絶えず私の為に考えてくれていた。
この先、おばあちゃんがいなくなっても、しっかりと私が生きていけるように。そう考えて。
私には、両親がいないから、これからの人生、一人きりで生きていくことになると思う。
寂しいという感情なんて、とっくになくなって、その現実を受け止める事のみに感情を使い果たしているような気がする。
私の母は、私を産んですぐに亡くなったらしい。
もともと体の弱い人だったから、命を落とす事への覚悟を決めての出産だったと聞く。
そして、父。
母に私を授けてくれたはずの父は、私の戸籍に名前が載せられていない。
母は、お腹の赤ちゃんの父親が誰なのかを、一切口にしなかった。
『結婚はできなかったけれど、愛し合ってたのよ』
その一言だけをおばあちゃんに告げて、『出産を許してくれなかったら、家を出ます』と言って。
周囲の反対を押し切っての出産、そして、難産の後で命を落とした。
だから、私には母に抱かれた記憶がない。
母は死の間際に、うわごとで、父である人の名前を呟いたらしい。おばあちゃんは、その名前を聞いて、心あたりがあったと言っていた。
私が成人式を終えた夜に、そう教えてくれた。
あわせて、父であるその人は既に亡くなっていて、会う事は出来ないとも教えてくれた。
だからといって、私の人生が明るくなるわけでもなく、一人で生きて行く覚悟には何の影響もなかった。
そんな私の未来。
お料理が大好きで、調理師の免許も持っているからといって、それだけでお料理教室をして生きていけるのか。不安ばかりが浮かんでくる。
今働いている会社にいれば、定年までお給料が貰えると思う。
そんな未来を捨てて、いいのかな。
やっぱり、踏み切れない。
小さく息を吐いて、大切に握りしめている名刺を見つめた。
『瀬尾夏弥』
その文字が、すごく特別なものに見える。心なしか輝いているような。
「なつやさん……っていうんだな」
私を見つめてくれたあの瞳、誰にでも見せているのかな。
きっと、そうだろうな……。
「やっぱり、リフォームなんて、無理だよね」
名刺に向かって、そう囁いて。明日、断りの電話を入れようと決めた。
「もう一度くらい、会いたかったな……」
ふと漏らした言葉に、苦笑しながら、慣れている寂しさを心の隅に押しやった。