37話
夏弥は、しばらく私を抱きしめたまま唇を私の首筋に押し付けていた。私の体温を感じて安心しているような、柔らかな仕草を感じているうちに私もその体をぎゅっと抱き返す。
きっと、今こうして何も答えてくれないのが答え。夏弥にも傷ついたことが過去にあったに違いない。
「言いたくなかったら、言わなくてもいいよ。でも、私は夏弥の事を傷つけない……ように頑張る。
今回夏弥の気持ちを不安にさせたばかりで強気な事は言えないけどね」
くすりと笑うと、夏弥の唇が離れていった。なんだか首筋が不安定になった気がする。
夏弥は、私の体をそっと離して私の顔を覗き込んだ。その瞳は思っていたような不安げで切ないものではなくてどこか余裕に満ちている優しいものだった。それが、私の気持ちを落ち着かせていく。なんて単純。
「蓮の言葉が気になったか?まあ、この年まで何も傷つかずにいたわけじゃない。花緒が最初の女だなんて言わないしそれなりに付き合ってきた。……一生側にいて欲しいと思った女もいた」
「うん……」
真面目に思い返すその言葉が、私の気持ちをぐっと落ち込ませていく。そしてその気持ちが声に出ないようにしても、やっぱりそれは無理だった。私の声に落ち込みを読み取った夏弥は、小さく笑って私の頭をくしゃくしゃとした。
「花緒だって、俺が初めてじゃないだろ?……すげーむかつくけどな」
「むかつくって……」
「大丈夫だよ、俺が最後の男になるってわかってるからむかつく気持ちはどうにか抑えるよ」
「うん。私も我慢する」
視線を絡ませながら、二人でそっと苦笑した。確かに、夏弥がこの年まで、この見た目で何もなかったなんて信じられないけど、それでも私が初めてじゃないってはっきりと言われると悲しい。自分の事を棚にあげていいのなら、泣きたいくらいだ。……こんな感情を持つのも初めてで、悔しい。
「我慢してくれる花緒の気持ちに甘えていいなら、話していいか?」
声音が真面目なものに変わった。私の体に回された手が熱くなった気がしてどきっとする。
何を言われるのかと不安が溢れて、鼓動も跳ねてうるさい。
「俺と蓮は幼馴染で、昔からの長い付き合いなんだ。お互いの事はなんでも知ってるし許しあってる。
性格が似てなくて、反発する事も多いけどお互いの幸せを第一に考えてる。
で、うぬぼれてるって言われるかもしれないけど、俺らは昔からかなりもてたんだよな。
正直、学生時代はかなり遊んでた頃もあったんだ。……ひいた?」
私の気持ちを探るように見つめてくる夏弥は、唇を歪めて緊張している。
『かなり遊んでた』なんて聞かされて、いい気持ちになんてなるわけない。ましてや自分が一生を共に過ごそうとしている人からの言葉なら尚更だ。
「ひいてないかと言えば、ひいてる。でも、遊んでたって聞いてもぴんとこないかな。
私、恋愛の経験値低いし……」
「遊んでたっていうのは、きっと予想通り。付き合ってた女以外にも、抱いた女はそれなりにいた。あ、でも二股はしてないし、裏切るような事はしてない。長続きしなかったってだけ。で、絶えず女がいた」
「……絶えず、いた。……そう。かなりもててたんだ」
力なくそう呟くと、夏弥は申し訳なさそうに顔をしかめて
「悪い。でも、過去は変えられないし、これからも蓮と付き合っていく以上、俺の過去を少しずつ聞かされるよりは、今俺から言っておいた方がいいと思う。
俺、大学時代に付き合っていた女にとことん惚れてたんだ。一緒に暮らしたくてバイトも必死にやって金貯めて。
彼女は年上で働いてたから早く追いつきたくて無理もして合わせて」
私の向こう側を見ているような、遠い視線の夏弥がぽつぽつと話し始めて、私はじっと聞いていた。
少しずつわかっていく夏弥の過去が、私の気持ち痛めていくけれど、夏弥の表情の方が苦しげで、聞かなくてはいけないと、ただ次の言葉を待つだけ。
「俺、昔から本気で好きになったらそいつしか見えなくなるんだ。花緒に惚れた後だって、ただ花緒を求めて追いかけてようやく捕まえただろ?
そんな俺を、大学時代のその彼女は面倒くさく思うようになって、逃げたんだ」
「……逃げた?」
「そう。まさしく逃げた。ちょうど彼女が異動で地方に行くことになって、気づけば部屋も引き払ってどこに異動したかもわからないまま。『ついていけない』っていう手紙を残して消えたんだ」
敢えてあっさりと言っているんだろうけど、かみしめた唇は震えていて、当時の悲しみがまだ夏弥の中に残っているのがわかる。私の背中に回された手もぐっと熱くなった気がする。
つらそうなその顔に、ゆっくりと手を伸ばして撫でると、ぴくっと震えた。
「で、夏弥は追いかけたの?」
話を続けてくれるように促すと、夏弥は大きく息を吐いた。
「いや、彼女を手に入れたくて必死だった自分に気づいて、もうこれ以上彼女を追い詰められないと思って諦めた」
「そうか……」
「それからの俺は、女との付き合いに距離を置くようになってなかなか本気になれなかったんだ。
それまで彼女一色の毎日を送っていたからそれ以外に気持ちを持っていくこともできなくて、まるで抜け殻。
蓮はかなり心配したと思う。近づいてくる女から俺を守るように目を光らせて……くくっまるで親のようだったな」
夏弥は私の頬を両手で挟むと、親指で私の目じりをそっと撫でた。
「花緒が泣く事はないんだぞ。俺の過去だけど、もう乗り越えた事だ」
「その彼女とは……?」
「ん?何年か前に偶然会ったよ。本当、偶然」
何かを含んでいるような声に首を傾げた。夏弥を傷つけた彼女と再会して、何も思わなかったんだろうか。
気持ちは過去に戻って揺れなかったんだろうか、不安ばかりが私の胸に溢れてくる。
夏弥の過去を聞いて溢れた涙と、彼女と再会して、それからどうなったんだろうと、切なさはいっぱいいっぱいだ。
「彼女とは、お客様として再会したんだ。結婚していて、新居を建てるからって住宅展示場を回ってた時に偶然。
旦那さんはドクターで、裕福だったからな。高いクラスの家を建ててもらったよ。
確かその月の営業賞とったっけな」
だから、気にするな。そう言って、夏弥は私に唇を落とした。
触れ合うだけのキスが、私の涙をさらに溢れさせて、ぐすぐすっと鼻をすすりながらのキス。
なんて色気のないキスなんだ……。
夏弥は、私の唇から目じりへと唇を移して、そっと涙をなめてくれる。
「好きだよ、花緒。お前だけしか見えなくて、他はどうでもいいって思う俺から逃げないでくれよ。
頼むから、俺の側から離れないでくれ」
耳元に吐息とともにささやかれて、体中が反応する。私の弱い部分をわざと攻めてるのか、耳元から動かない夏弥の唇に意識が集中してしまう。
「花緒が俺を面倒だと思うなら、そう言ってくれ。どうにかして花緒以外にも気持ちを持っていくようにするから。だから、黙って俺から消えないでくれ」
「やだ。……私以外見ないで」
首をそっとずらして、夏弥の必死な顔を見ると、泣いてないのに泣いてるような、余裕のない男がいた。
私を一生懸命に思ってくれるその顔。私だって夏弥しか見えないのに。
私以外に気持ちを向けないで欲しい。
私の気持ちが伝わったのかどうか、わからないうちに、夏弥はちっと舌打ちをしたかと思うと、あっという間に私を抱き上げて。
「抱かせて」
一言だけ。
そして、明け方まで、今までになく熱い肌を重ねた。
夏弥が私を求めてくれる限り、側にいたいと、何度も何度もその肌に口づけて、伝えた。




