36話
深夜、『泊まっていけば?』というおばあちゃんの言葉に頷く事なく、蓮さんはタクシーに乗って帰っていった。
希未さんに電話を入れて『遅くなるけど、起きて待ってて』と優しく呟いている姿を見たけれど、私に対する態度とはまるで別人で驚いた。
とがった雰囲気なんかまるでなくて、何もかもを許している、そして愛している気持ちを隠そうともしない様子は、なんだか夏弥に似ているかも。
私に対する夏弥の態度や、言葉の甘さ、そして熱い温度は、希未さんに対する蓮さんのそれと一緒で笑える。
どこまでこの二人は仲がいいんだろうかと、少し羨ましかったりもした。
そんな思いを抱えながら後片付けをしていると、今晩我が家に泊まっていくことになった夏弥がお風呂から出てきた。
「ビール、飲む?」
「ああ、もらう。花緒は一緒に飲まないのか?」
「うーん。じゃ、ちょっとだけね」
冷蔵庫から缶ビールを取り出してコップと一緒に夏弥の目の前に置くと、そのまま私の手は夏弥に引っ張られて、気づけば夏弥の膝の上に横座りになっていた。
「な、夏弥……」
突然の事にバランスが崩れた私は、夏弥の膝に座りながら思わず首にしがみついた。
私と同じ香りのボディソープの香りをほのかに感じて、それだけで気持ちが和むけれど、あまりにも近い夏弥の顔が私を俯かせてしまう。
「えっと、おばあちゃんが来たら困るし……」
少し寂しい気持ちを感じながらも、夏弥の膝から降りようとすると、途端にぎゅっと抱き寄せられた。
私の顔は夏弥のちょうど鼓動のあたり。何度か聞いた事があるその音が私の体に響き渡るようだ。
「おばあちゃんなら、明日の朝まで自分の部屋からは出ないってわざわざ言い残してったぞ。
俺がこうして花緒と触れ合いたいって気づいてたんじゃないか?」
「そ、そんな事……」
ない、とは言い切れない。おばあちゃんの事だから、夏弥と一緒にいる私の邪魔をしないでおこうとにやにや笑ってるにちがいない。きっと、自分の部屋で『いいことした』って満足しているはずだ。
「おばあちゃん、本当、夏弥の事が好きだね」
夏弥の胸に押し付けられたままの状態で呟くと、その胸がくくっと響くのがわかる。
私の言葉に笑っているのか、体も震えている。
「俺の事も気に入ってくれてるとは思うけど、結局は花緒の事が大切でたまらないからこうして俺を呼んでくれたんだよ」
私の頭をゆっくりと撫でてくれる仕草に、何だか気持ちがとろけてしまいそうで、夏弥の体に更に寄り添った。
それに応えてくれるかのように抱きしめてくれる強さが気持ちいい。
「何度かけても花緒の携帯は鳴らないし、沖縄なんて遠い所にいたから不安になって思わずこの家の電話を鳴らしたんだ。……まあ、それほど俺は強い男じゃないってことだな。で、俺からの電話だってわかった途端『花緒を裏切ってないって誓えるかい?』って凄まれたよ。今まで何度も仕事で話をしたことはあったけど、あんなに怒りと不安の感情を見せられたのは初めてだったよ。
よっぽど花緒の事を気にしているんだって思ったし、俺の事を何の疑いもなく信じてもらうにはまだまだだって身に染みた」
少し落ち込んだ声に、そっと体を起こして夏弥の顔を見ると、照れくさそうに私を見ている視線に射られた。
すっと近づいたかと思うと、唇に感じる温かさ。
離れる瞬間、小さくリップ音が響いた。
「とにかく、マスコミが騒いでるような美月梓との関係は全くなかったし、これからもないって信じてもらって。
そして『じゃ、沖縄から帰ったらうちにおいで、花緒には内緒にしておくよ』っていつものあっさりした口調で言ってもらえたんだ。まさかその日のうちに来るなんて思ってなかったみたいだけど」
「そう……。私が不安になったから、早く帰ってきたんだよね、仕事大丈夫なの?」
「ああ、宣伝部でもない俺を無理矢理沖縄に連れて行った負い目もあるんだろうけど、早く帰っていいって社長からもお達しがあったんだ。おまけに明日一日休みももらったしな。だから大丈夫だ」
私を安心させるような声に、余計に私の気持ちは落ち込んでしまう。
さっき蓮さんが言っていたように、マスコミに煽られて夏弥を信じきれなかった私。
そのせいで夏弥は慌てて帰ってきたんだ。
本当なら、会社の為に、沖縄でする事があったに違いなのに、こうして帰ってきてくれた。
夏弥を右往左往させてしまった自分が情けなく思えて仕方ない。
こんな私を見抜いていたから、蓮さんは私を認めてくれないのかな。
『普通の女』だとか『お前に夏弥はもったいない』とか厳しい言葉ばかりを落として帰ってったのかな。
……思い出すと、落ち込む事ばかりだな。
小さな頃から、周りの子供たちと自分の生きる環境の違いゆえに強く生きてきたはずなのに、夏弥という大切な存在ができて、手放したくないし、手放されたくないって思えば思うほど、自分が弱くて自分勝手に変わっていくような気がする。
昔は、もっと強かったのに。
……違う。私は本来弱いのかも。悠介に振られた時も心が壊れて入院してしまった。
あの時は、悠介に振られたそのことよりも、私生児だという、自分では変える事のできない運命を嘆いて壊れてしまったんだ。
この世に生まれてきたことへの問いかけが、いつも自分の中にあって、その答えを出せないままに時間という薬が見せかけの治癒を促したんだ。
でも、今はそんな自分の運命や生まれてきたことへの理由なんてどうでもいい。
夏弥が側にいればそれでいい。私が生まれてきたのは、夏弥の側にいる為だと、そう結論を出してもいい。
……ちょっと乱暴だけど。
だから、それが叶わないかもしれないと感じて、そんな不安に襲われて、私は確実に弱くなる。
「夏弥、ずっと一緒にいてね……」
思わずそう呟いて、夏弥の首に抱きついてぎゅっと力を込めた。
こうして今、夏弥は無理をしてでもここにいてくれる、その幸せに浸りながらも、それでも不安は拭えない。
どんなに大切にされても、愛されても、この先ずっと抱えていく不安が見え隠れする。
私が夏弥を愛する限り、逃げられない感情に振り回されるのも、幸せの形なのかな……。
一人落ち込みながら、あらゆる感情に折り合いをつけながらも、それでも気になっている事がある。
それは、蓮さんが私に懇願していた事。
『夏弥を悲しませないでくれ』と、言っていたあの表情。
心底夏弥を心配していた、親友ならではの切ない表情が忘れられない。
「夏弥には、傷ついた過去が、あるの?」
夏弥の首筋に、小さく呟くと、一瞬びくっとした夏弥の体を感じた。
そして、夏弥は何も言わないまま、私を力いっぱい抱きしめた。




