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31話



朝早くから夏弥のマンションを訪ねたせいか、普段どおりに残業をしていても疲れはいつも以上に感じてしまう。

細かい数字のチェックをしていると集中力も萎えてくる。

机に突っ伏した途端に眠りにおちる自信が溢れて、数字がぼやけてきた。


だめだ。このまま続けてもミスってしまうな。


まだ提出期限まで余裕があることを確認して、今日は店じまい、帰る事にした。


「お疲れ。今日は帰るから、シュンペーもほどほどにして帰るようにね」


「今日は早いですね。何かする事あればやっておきますよ」


「いいよ、今日明日で特に急ぐものは抱えてないから。今日はたっぷり睡眠とって明日頑張るよ」


向かいの席に資料を広げてなにやらインプットをしているシュンペーは、お昼休みに弥生ちゃんから喝を入れられた後、


『お前も子供も俺のもんだ、誰にも渡さないし、一生俺が守ってやる』


早速気合いのメールを送った。送る瞬間のシュンペーは力強くて頼れる男そのもの。

もうすぐ父親になるというのは、こうも男を成長させるものなんだなと、しみじみ実感した。

何が何でも彼女と子供との幸せな未来を手に入れるという意気込みに溢れていて、ちょっと惚れそうになった。夏弥には内緒だけど。


そして、そのメールを送信してすぐに。


『ばか。私と子供は重いよ。ちゃんと体力と財力と、愛情いっぱい抱えてきて。待ってる』


添付されていた写真は、赤ちゃんの超音波写真。小さな袋のようなものが写っていて、他人の私でさえ気持ちが揺らいだ。

こうして赤ちゃんはお腹で育っていくんだな。

今までまじまじとこんな写真を見た事なかったし、見たいとも思わなかった。

というか、何も考えた事がなかったから、実際に目の前で写真を見ると、自分が知らなかった感情が溢れてきて何とも言えない妙な気持ちになった。


私もいつか赤ちゃんを産んでみたいと、そう思う気持ちももちろん湧いてくるし、その赤ちゃんの父親は夏弥しか考えられない。近いうちに、夏弥の子供を産みたいって、確かに思うけれど。


その思いとは別に、『私もこんな風にお母さんのお腹で育ったんだ』って当たり前の事に気づいた衝撃。その感情の方が大きかった。

40週をお母さんのお腹で過ごしたはずの自分の過去を思い返して、記憶にない母親を探した。


体が弱くて命を懸けての出産。そして、死んでしまった母親への思いが、この年になって変化していく。


夏弥という恋人ができて、愛し愛される幸せを実感し、子供を産んでみたいと思う感情に支配されて。


『記憶も実感もない、写真の中の女性』から『愛する人の子供を命がけで産んだ母親』


へと、母親への思いが変わっていくことに気づいた。

確かに、今までは命を懸けてまで私を産んだ母親の気持ちが理解できずにいた。

結局私生児としてしかこの世に私を送り出す事ができないと、わかっていながらどうして私を産んだのか、恨みに似た気持ちを抱いたこともあった。


でも、今なら何となくわかる気がする。


愛する人の子供を殺すなんて絶対にできないんだ。


そう思った瞬間、母さんへの重い感情が少し溶けたように思えた。


シュンペーが大事そうに見ている超音波写真だって、暖かいものに思えた。




   *   *   *



その晩、食事もお風呂も終えて、部屋でお茶を飲みながら、夏弥に電話をしようかどうしようか迷っていると、携帯が鳴った。

びっくりして画面を見ると、夏弥からだった。その瞬間気持ちは明るくなって、舞い上がった状態で電話に出た。


「夏弥?沖縄はどう?」


夏弥からの電話が嬉しくて、かなり早口でそう言った。

携帯の向こうから、くすくす笑う声が聞こえて


『そんなに電話待ってたのか?』


からかうような夏弥の囁きが届いた。今朝聞いたばかりなのに、すごく懐かしくて愛しい声。

携帯をぎゅっと握りしめた。


「待ってたよ。こっちからかけていいのかも悩んでたから今かかってきてびっくりした」


『そうか。かけてきたかったらいつでもいいぞ。ただ、出られない時もあるからその時は伝言を残しておいてくれ。でも、なんだかいつもよりも素直だな』


「え?あ、そうかな……。だって、沖縄だし……」


『だな、俺も早く帰りたいよ。ま、明日一日仕事して、お土産買って帰るから待ってろ』


優しい声に、ふつふつと幸せが溢れてきて、ほっとする。

普段だって、毎日会えるわけじゃないし、二、三日離れるくらいどうってことない。

こうして電話で話してれば距離なんて関係ない。

金曜日には会えるんだから、大丈夫。


「お土産はいらないよ。高い指輪買ってくれたんだし、もう何もいらないから。元気で帰ってきて」


明るくそう言った。その気持ちに嘘なんてない。今は名前を刻印してもらうためにお店に預けてある指輪。


『週末、一緒に取りにいこうな』


「うん。結婚指輪もできあがってくるって言ってたね。楽しみ」


婚約指輪と一緒に買った結婚指輪は、夏弥もはめると言ってくれている。

夏弥が誰のものかを、ちゃんと私に知っておいて欲しいと、そんな甘い言葉とともに。


『明日は日中撮影でばたばたしてるから電話できないかもしれないけど、夜中には連絡できると思う。

遅くても、かけていいか?』


「もちろん、いいよ。……待ってる」


『わかった。……そんなに花緒が素直に答えてくれるなら、たまにこうして出張もいいな』


くくっと笑う声が携帯の向こうから聞こえて、私の顔は真っ赤になった。

距離ができている寂しさからか、どうしても素直になってしまう。そして照れてる。


「あ、えっと……私、その……待ってるから、明日も電話して」


早口でそれだけをつぶやいて、大きく息を吐いた。


相変わらず軽く笑ってるような空気がこちらにも伝わってきて、どうしようもない気持ちでいると。


『夏弥さん、みんなで一緒に飲みましょう』


はっきりと女性の声が聞こえた。


「え?」


『ああ、わかったよ。すぐにそっちに行くから出てけよ』


『はいはい、すぐに来てくださいよ。夏弥さんが大好きな鶏からいっぱいありますからねー』


『あ、梓、隆平の好きな明太子もあるから、ちゃんと出しておいて』


『……はーい』


梓?美月 梓の事?

今仲良く会話をしていたのは確かに美月 梓の声だった。


『あ、花緒ごめん。今から今日の打ち上げだから行くわ』


何事もなかったかのような軽い口調の夏弥だけど、私の気持ちはぐるぐるとまわっていて吐きそうだ。


「ねえ、梓って……」


『ああ、聞こえたか?そう、美月梓だ。……詳しい事は帰ってから話すけど、しばらく俺が彼女の側にいる事になったから。でも、何もないから安心しろ』


安心しろって言われても……。


結局それ以上聞くタイミングを掴めないまま会話は終わってしまった。

信じるしかないけれど、それでも眠れない夜を過ごして。


疲れが取れない体で朝食をとっていると。


『美月梓熱愛。お相手は住宅会社の営業マン』


ぼんやりと観ていたテレビから流れてきたスクープ。

沖縄の海を背に、リポーターが熱く叫んでいた。


「嘘……」

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