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23話


その日の午前中、予定にはなかった会議が行われることになり私にも出席するように上司から言われた。


新薬開発の研究が私の大きな仕事。そう言うととても聞こえのいい格好いい仕事のように思われるけれど、実際は日々淡々とデータをとったり実験をしたり。

新薬開発なんて途方もない年月を重ねてようやく結果を出せるものだから、イメージ以上に地道な作業だ。


今日突然入った会議は、開発に私が少し絡んでいた薬品についてのもの。

その事を聞いて、なんだかどっと疲れが出てきた。疲れとともにため息も何度か。


それでも仕事だからと、自分を前向きな気持ちに叱咤しながら会議室へと向かった。


数か月前に完結させたその仕事は、悠介も開発に関わっていて、何かと顔を合わせることが多かった。

既に別れてから数年も経っていたせいか、お互いに昔の事を蒸し返して仕事に影響を出す事はなかったけれど、それでも私の気持ちが平静だったわけじゃない。

大がかりなプロジェクトだったおかげで二人きりの時間は皆無に近かったけれど、同じ部屋で同じ仕事をしながらの私の精神状態はかなり悪かった。


悠介と別れた後、心を壊してしまった私は入院を余儀なくされ、その事を公にしない努力をしていたものの、社内では皆が知ることとなっていた。


今思えば、悠介が私の出生の事情を触れ回った事が発端であることは間違いない。

私と別れた事を正当化するためにしたその事実を知ったのは最近で、それ以来悠介に対して残っていた未練のようなものはきれいさっぱりなくなった。


別れた後も持っていた雄介への思いの本質は、未練なのか、幸せだった時間への回顧なのか。

それとも、私も幸せになれるかもしれないと盲目的に信じていた頃への執着だったのかもしれない。


そんな思いをすっきり捨て去る事ができたのは、夏弥との出会いがあった故に違いない。


『花緒のお父さんには感謝している』


そう言ってくれた夏弥によって、生まれてからずっと私を苦しめていた呪縛が緩んだ。

私はこの世に生まれてくるべきではなかったのではないかという、苦しみだけの呪縛から解かれた気がしている。


ようやく自分を素直に受け止める事ができて、笑って未来を考えられるようになったのに。

水を差すような会議。


悠介と向き合わなければならない会議への出席が、本当に嫌でたまらなかった。


そんな、後ろ向きな感情を抱えながら上層階にある会議室のフロアに向かった。

エレベーターからおりて、小さくため息をつきながら会議のある会議室へと視線を向けると。


「久しぶり」


「あ、うん。お疲れ様」


私を待っていたのだろうか、目の前には悠介がいた。

相変わらずの爽やかな笑顔で私を見つめる瞳は不安げに揺れているように見える。


「あ……俺、結婚するんだ」


突然、何を言い出すんだろう、この男は。知ってるよ。


「彼女、私の後輩だもん。知らないわけないでしょ。それに、悠介自ら社内でその事言いまわってるんだから、改めて私に報告する事ないでしょ」


悠介の横を通り過ぎて、会議のある部屋へと向かう。

すると、私の横に並んで、悠介がついてくる。同じ会議に出るんだからそれは不思議じゃないけれど、離れて欲しくて仕方ない。


「なあ、噂って本当なのか?」


足早に歩きながらその言葉に視線を移すと、悠介が神妙な顔をしていた。


「噂って何?」


「あー。花緒にオトコができたって聞いたんだけど……。本当か?」


悠介が言う『噂』がその事だとは予想していたけれど、あまりにも直球で聞かれると何だかおかしくなる。


「本当だよ。それがどうかした?」


「え、いや、社内ですごい噂になってるし、今朝もオトコの車からおりてくる花緒を見たって……あいつが」


「あいつって……?ああ、みちるちゃん?」


「そう。かなりいいオトコだって言ってたけど。……大丈夫なのか?」


「何が?」


「いや、その……」


私のことを心配そうに見つめながらも、悠介の瞳からは怯えのようなものが感じられた。

付き合っている時には見なかったその瞳の色に、少し違和感を感じる。


「私が誰と付き合おうと、どう生きていこうと悠介には関係ないでしょ?

みちるちゃんとの結婚が近いんだから、私と一緒のところを見られたらまずいんじゃないの?」


これからの会議にみちるちゃんは出席しないけれど、社内の多くの人が私と悠介の以前の関係を知っている。

結婚前に、不要な噂でもたってみちるちゃんの気持ちを不安にしたくない。

私と悠介が別れた後に入社したみちるちゃんは、悠介と付き合い始めた時に、社内の噂と悠介の口から私との関係を聞かされて、かなり動揺していた。

私から悠介を奪ったわけじゃないし、フリーになった悠介からみちるちゃんに近づいて彼女にしたと聞いている。

だから、悩む必要はないのにみちるちゃんは私に対しての遠慮をずっと持っている……。


そんな遠慮って、逆に人を傷つけるんだけどな……。


「みちる、喜んでるんだ。花緒に恋人ができて、ようやくほっとしたって」


「は?」


「いや、ほら、俺だけが幸せになったら申し訳ないって、俺も思ってるし、みちるは優しいから……自分が悪いわけじゃなにのに花緒が幸せになれないのを見てるのはつらいって、ずっと言ってたからな」


「……」


「だから、花緒にオトコができて幸せになったのなら嬉しいってほっとしてたんだ」


悠介は満足げに小さく息を吐いて、頷いた。


「ただ、花緒の事情を知ったら、また花緒は悲しい思いをするんじゃないかって。それは気にしてるんだ、俺たち」


「……悠介?あのね、私を捨てた事に罪悪感を持てとも後悔しろとも思わない。

でも、私の幸せに、悠介は関係ない。私と……なつ……彼で幸せになるから、一切気にしないで」


立ち止まって悠介の顔を見上げながら、必死で感情を殺しながらそう言った。

苦しそうに歪む悠介の顔、昔は好きだったけれど、今ではもう見たいとも思わない。

……会社にいる限り見てしまうけど。


「悠介が受け入れられなかった私の事情とやらを、彼はちゃんと受け止めてくれてるの。

だから、もう心配も同情しているふりもしなくていいから。

って、みちるちゃんにも伝えておいて」


握りしめた両手が震える。ぐっと視線を強くして、私の言葉をはっきりと悠介に投げ捨てた。


何かを言いたそうに口を開いたけれど、結局何も言わない悠介に『じゃ、先に行くから』

そう言って会議室へ体を向けた。


途端に掴まれた右腕。

振り返ると、悠介が真剣な顔で私を見ている。


「きっと、俺だけじゃないぞ。花緒の事情を重荷に感じる男は俺だけじゃない。だから……」


「だから気をつけろとでも言う?」


「いや、そんな風には……」


掴まれた右腕を強く払って、再度向かい合った。


「私は、今ほど悠介と別れて良かったと思った時はない。正直、すっきりした。じゃ」


もう二度と話したくない。私の事を心配しているように見せているけれど、結局は私を捨てた事が特別な事ではなくて、男なら誰でもする事だと言いたげな感じ……。


自分が正しいと、そう思いたいだけの不毛な会話だった。


悠介に追いつかれる前に、会議室に飛び込むと、既に大勢のメンバーが席についていて一斉に視線が集まった。


え……?

くすくす、にやりとでもいうような視線にさらされて戸惑いながら空いている席に座ると、ちょうど隣にいた先輩が耳打ちしてきた。


「最近話題の花緒ちゃんの首筋には、いつもきれいに花が咲いてるね」


「あっ……」


思わず手で首筋を隠してしまった。


「俺の彼女、ここまで赤い花つけたら怒り狂ってしばらく口もきいてくれないのに。

平気そうで何より。幸せそうだな」


普段から公私ともに優しい言葉をかけてくれる先輩。きっと私のつらい時期も知ってるから、嬉しそうに笑ってくれてるんだろう。

その気持ちが嬉しくてほっと息をついた。悠介に言われた言葉に傷ついていたけれど、大丈夫かな……。


「あ、花緒の天敵が来た」


小さな声で呟いた先輩の視線をたどると、ちょうど会議室に入ってきた悠介と目が合った。

どこか憮然としたその表情に、会議室の温度が少し低くなった気がする。


「とっとと結婚して、勝手に幸せになれよな。な、花緒。お前も早く幸せになって見せつけてやれ」


悠介との事を知っているからか、私の背中をぽんと叩いて励ましてくれる先輩の気持ちが嬉しい。


夏弥との事で悠介から嫌な事も言われたけれど、気にしないでおこう。

私の事をちゃんと愛してくれている夏弥の事、信じなきゃ。


夕べ愛してくれた夏弥の体温を思い出して、少し体が熱くなった……。

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