21話
「三年?……って、どういう……」
言葉を失いそうになるけれど、どうにかこれだけ。
呟きに近い声は、ちゃんと夏弥に届いたんだろうかと思いながらも視線は外さないようにして。
「花緒の気持ちが壊れて入院してる時、ちょうど俺は宣伝部から営業部に戻ったんだ。その挨拶もかねて花緒のおばあちゃんに会いに行ったら、病院に行くところで。
俺の車で送っていった流れで病室まで荷物持ってついて行って。
で、あまりにも可愛い花緒ちゃんに一目ぼれ」
その時の事を思い出したように、小さく笑うと、
「どうして入院する事になったのかは教えてもらえなかったけど、そんな事はどうでも良かった。
これからを花緒と過ごせるようにするにはどうすればいいかってばかり考えてたな」
「あの時、病院に来たの?」
「ああ。花緒が病院の中庭のベンチに座って読書してたり、のんびり散歩してたり、時々つらそうに泣いてる時にも俺は遠くから見てたよ。……ほんと、自分でもどうかしてるって思いながら何度も病院に行った」
「……嘘、全然気づかなかった……」
病院に入院中の私は、ひたすら気持ちが回復する為に過ごしていた。
悠介との別れは、自分が思っていた以上に心を蝕んでしまった。
それまでやりがいと喜びを感じて、定年退職まで働こうと頑張っていた仕事にさえ行くこともできず、普段通りの生活すら送る事ができなくなってしまった。
朝ベッドから出られなくなって、会社を休みがちになり、食事もできなくなった私を
『病院に行くよ』
強い言葉で私を入院させたのはおばあちゃん。
それまでしょっちゅう遊びに来ていた悠介が来なくなった事で、おばあちゃんは私に何があったのかを察したのか、それ以来悠介の事は何も聞かない。
私が壊れていく様子を間近で見ながら、おばあちゃん自身壊れてしまいそうになるくらい悩んだと思う。
ただでさえ、自分の娘を亡くしているのに、孫までが体を弱らせていく姿を目の当たりにして。
辛かったに違いない。
強気な表情しか浮かべないし、甘えさせてくれるような言葉すらかけてくれなかったけど、心の中は苦しみで溢れていたはず。
そんなおばあちゃんに後押しされて入院していたあの頃、きっと私の様子は不安定で、ふらふらとしていたと思う。
悠介との別れの原因が、戸籍にもいない、この世にもいない私の父親のせいだと、そのことばかりが私の体を包み込んでいた。
けれど、悩んでも悩んでもどうしようもないってわかっていたから、どうにかして心を回復させたくて必死だったあの頃。
「やだな……私、変だったでしょ。突然笑ったり泣いたり、ご飯も食べられないときもあったし一日中中庭でぼんやりしてる時もあったし」
「そうだな。思わず抱きしめたくなるくらいに俺の心をぐっと掴んでどうしようもない女だった」
「……抱きしめたくなるって……」
「一目ぼれって初めてだったけど、まるで高校生のガキのように必死で病院に通ってた。
お客さんの家に仕事で行った帰りとか、展示場に寄るって言っては会社から出て、時間が許す限り花緒の顔を見に寄ってた。……早く自分のものにしたいって、それだけで」
「そんな、そんなこと……嘘だ」
「嘘じゃない」
信じられない私の気持ちを遮って、大きな声で言い聞かせるように。
夏弥は真剣な顔で私に思いをぶつける。
そして、軽く私にキスを落とすと額と額を合わせた。
「ぼろぼろに壊れていた花緒につかまって、ぼろぼろにされたのは俺だ。
花緒に気持ちを持っていかれて、それでも花緒が回復するまで何もできなくて狂いそうになっていたのは俺だ」
「でも、私……何も知らなかったし……突然そんなことを……」
「そうだな、突然だよな。こうして二人でお互いの体温を分け合うようになって間がないし。
花緒にしてみれば、俺の事で知ってる事より知らない事の方が多いしな。
でも、俺はずっと花緒が欲しくてたまらなかったんだ。
もう限界だ」
その言葉が終わらないうちに、ぐっと抱きしめられて、首筋に痛みが走る。
きっと真っ赤な花が一つ咲いた。
「限界なんて、どれだけでも背負うけど、この先何かあった時に正々堂々と花緒の側に寄り添える権利が欲しい。たとえ美月梓に何かを仕掛けられても、夫として何もかもを背負える資格が欲しい。
守りたいんだ、花緒の事を」
「夏弥……」
「それだけじゃない。花緒の近くにいられるようになって、欲も出てきたんだ。
もう、俺の側から離したくない。美月梓の事だけじゃなくて、俺も花緒の側にいたいんだ。
だから、結婚しよう」
涙が流れる。夏弥の言葉と体温と、想いすべてが私の中に注がれて、溢れだす涙。
「私……父親、いないよ?誰かも知らないよ?それでもいいの?」
まるでつぶやくように、涙声で夏弥に聞いた。一番気になっている事だから。
悠介にはそのことで捨てられたから。
「花緒のお父さんには感謝してる。……花緒を俺に与えてくれた人だから、感謝こそすれそれ以外の感情は何もない」
「な、なつやぁ……」
思わず大きくなった声で夏弥にしがみついた。
ぐすぐすと泣きながら、夏弥の首筋に涙を落とした。
「あーあ。泣いてばっかだな。……俺以外にはその顔も声も見せたり聞かせるなよ。
本当に愛してるよ。ここ何日か、どれだけ俺が幸せだったかわからないだろう。
ようやく花緒を手に入れたんだ。もう手放さない」
「うん……。私も、愛してる……」
「そっか。じゃ、サイン、ちゃんとしてくれ。あ、涙や鼻水はつけないように」
くすくす笑いながら私を抱きしめてくれる夏弥の腕に抱きしめられて、やっぱり涙は止まらなかった。




