2話
緩やかな坂道を登り切ったと同時に見える、赤茶色の寄棟の屋根。
気持ちを温かく和ませてくれるような色合いは、おばあちゃんの温かい人柄を表しているようだ。
悲しい気持ちや苦しい気持ちを抱えながら坂道を登り切ったと同時に目に入るその色は、私の気持ちを穏やかにしてくれる。私を優しく迎えてくれるその屋根とおばあちゃんの笑顔。
それだけの為に帰ってくると言っても大げさではなくて。
「復活復活」
気持ちを浮上させるように独り言を言いながら、歩みを速めた。
「ただいま」
玄関を開けると、目に入った靴。
汚れひとつなく磨かれた男性用の革靴が、綺麗に揃えられていた。
おばあちゃんと私の二人暮らしのこの家には、もちろん女性用の靴しか置いてないはずで、普段見慣れない大きい靴に、驚いてしまった。
誰かお客様でも来ているのかな。いつも残業ばかりで、こんなに早い時間に帰宅する事なんて滅多にないせいか、おばあちゃんの生活リズムを知らない自分に気づいてしまう。
「おばあちゃん?ただいまー」
ゆっくりと、人の気配がするリビングに入ると。
「あら、お帰り。今日はどうしたの?体調でも悪いの?」
心配そうな声でおばあちゃんが私の側に駆け寄ってきた。
「こんなに早く帰ってくるなんて、どうしたの。熱でも……」
私の額に手を当てるおばあちゃん。
「体調が悪いわけじゃないから大丈夫だよ。今日は早く仕事が終わっただけ」
おばあちゃんの手を額からそっと離すと、思わず苦笑してしまう。そして、普段そんなに遅くに帰ってたんだと実感して肩をすくめた。
「そう?ならいいんだけど。早く帰って来るなら来るで、電話くれたらいいのに」
「ごめんごめん。今度からはそうするし……」
そう言う私に複雑そうな顔をするおばあちゃんに、何故か違和感を感じる。
居心地悪そうに落ち着かない様子。
いつもにこにこと自信に溢れているおばあちゃんらしくない様子に気が付いて、ふと視線に飛び込んできたのは。
「こんにちは」
ソファに座っている男性。
仕立ての良さそうなグレーのスーツを着ているその人は、一瞬見ただけでも整っているとわかる顔に笑みを浮かべて立ち上がると、軽く頭を下げた。
180センチはあるに違いない長身はモデルのように見える。
「あ……こんにちは」
誰だろう、初めて見る人だと思うけど。
こんなに格好いい人に会った事があれば覚えている筈なんだけど、記憶にない。
首を傾げながらおばあちゃんに視線を移すと、困ったように口を歪めている表情。
「おばあちゃんの知り合いの方?」
「そうなんだけどね、えっと、知り合いっていうか……」
口ごもるおばあちゃんは、うまく言葉が浮かばないように、そして焦っているように俯きながら男性をちらっと見た。
まるで『どうしよう』と助けを求めるような仕草に、私の戸惑いは更に大きくなる。
この男性は、一体、誰なの?
そんな私の訝しげな思いに気付いたのか。
「『佐賀美住宅』の瀬尾と申します。このお住まいをお建てになった時の担当営業です」
にっこりと笑い、すらすらと話すその声は、営業と言うだけあって滑らかで、人当たりの良さが前面に出ている。どこか作り物っぽく思えるのは、私が若くなくて世間ずれしてしまってるからなのか……。
男前の顔を向けられても、どこか信用できない……とはいえ、おばあちゃんとは親しい距離も感じるし、悪い人ではなさそうだ。
「こんにちは。孫の木内花緒です」
軽く頭を下げた。
どうして住宅会社の人が今頃?
この家が建ったのは7年ほど前のはずで、今更何かあるのかな。
「おばあちゃん?どうして住宅会社の人がわざわざ……?」
「あ、それはね……えっと……」
苦しげに俯いて、どうしようかと悩んでいるおばあちゃん。
何か言いにくい事でも抱えているようで、一層私の不安は大きくなる。
この男性、何かおばあちゃんにひどい事でもしたのかな……そんなに悪い人には見えないんだけどな。
「あの……何か、おばあちゃんに用があるんでしょうか?」
知らず知らずきつい口調になってしまったけれど、構う事なく問いかけると、傍らのおばあちゃんが慌てたように私の腕を掴んだ。
「ち、違うの、おばあちゃんが瀬尾さんに来てもらったんだから、用があるのはおばあちゃんなの」
慌ててそう言うおばあちゃんの言葉に驚きながら、瀬尾さんという男性を見た。
苦笑しつつ、小さく息を吐いた瀬尾さんは
「キッチンのリフォームを考えてらっしゃるようですよ。あなたの為に。……花緒さん」
『花緒さん』
甘く意味ありげな声音。そして見つめられて。
射るような強い視線に捕まったような感覚に包まれた私は、一瞬で固まった。
営業だというから慣れてるんだろうけど。
優しい声と瞳を向けられると、今まで色々経験もして、若くない私でさえ、自分がとても特別に思われていると勘違いしそうになる。
やばいやばい。
相変わらず私を見つめ続ける瀬尾さんに気持ちが揺れないよう、唇をかみしめた。
そうしてしまうほど、瀬尾さんは魅力的で、私の鼓動はとくとく跳ねていた。