19話
一度溢れ出した悔しさは、それまでどうにか抑えてきた重い感情に反応して更に大きなものとなる。
私を強く抱きしめる腕は微かに震え、首筋に感じる吐息はかなり熱い。
それだけ高まった気持ち全てを、私自身が受け止めていると思うと妙にうれしい。
夏弥にとっては悔しくて切ない過去によって表に出された感情は、私の中では不思議と穏やかさを呼び起こす。
申し訳ないけれど、こうして負の感情をダイレクトにぶつけられて、私の体温を感じて震えている夏弥をじかに感じていると、優越感に似た思いが生まれてくる。ごめんね、と思いつつ、それでも私の心は嬉しさで溢れる。
「で、梓さんは、夏弥の事を手に入れたの?」
夏弥の言葉から感じる強い悔しさを受け止めた後では、そんな事ないとわかるけれど、普段の夏弥の強気な言葉を真似るように聞いてみた。
「ばかじゃないのか?そんな事あるわけないだろ?俺の事見た目だけで選んで、俺にその気がないとわかると意地になってるだけの女。好きになるわけない」
「意地?」
「そう、CM撮影が終わってすぐに好きだって言われたけど、俺にその気はないし、すぐに断ったんだ。
それでも自信があったんだろうけど、何度か食事に誘われて、断って、の繰り返しだった。
3か月くらいそんな関係が続いて、最後は『お前を好きになる事はない』ってはっきり断ったらあっけなく離れてくれたのにな」
苦しげな息を吐き出して、私の体をそっと引き離した。私の顔を覗き込む瞳はどこか不安げで、微かに揺れている。
私がどう感じているのかを探るように、まっすぐに向けられた視線の意味が分からない。
梓さんの一方的な想いなら、仕方ないと思うし、夏弥にその想いを受け止めるつもりがないのなら、それでいいのに。そして、二人の間に何もないのなら、私には何も気をつかわなくていい。
けれど、私に気をつかう必要はないと言おうとした時、
「ここ最近、梓が俺の周りに現れるようになったんだ」
「え……?」
「多分、柏木から聞き出したんだろうけど、このマンションで俺を待ち伏せする事が何度かあったし、出張先のホテルにまで来たことがある」
私の肩を抱くように両手を置いて、ゆっくりと話す表情は真剣で、梓さんの行動によっぽど困ってるんだとわかる。この部屋に入ってきた時の夏弥の様子とはまるで違う重い雰囲気に、戸惑いは隠せない。
梓さんがいても逃げ帰らずにこの部屋で待っていた私を、子供のようにからかいながら抱きしめてくれた夏弥。
ちゃんと彼を待っている私の事を、『それほど俺が好きなんだな』と軽く笑っていたのは。
私がこの部屋にいて、ちゃんと夏弥を待っていた事が嬉しくて仕方なかった裏返しなのかもしれない。
そして、梓さんが近くに現れることによって、私との関係が悪くなる事を心底不安に思っているんだとわかる。
夏弥の表情から見える不安はきっと、私への不安だ。
「彼女は……美月 梓は、きっとまた俺の周りに現れると思う。
さっきも、俺にはその気がないとはっきり突き放したんだけど、『また来る』とはっきり言って帰っていったし、それに」
「……それに?」
「ああ、5年前よりも何か思いつめてるようなんだ。だから、心配なんだよ。花緒が」
「え?私?私なら大丈夫。ちゃんと夏弥の事を信じてるし、何かあったら教えてくれれば、それでいいよ」
不安げな夏弥の気持ちを盛り上げるように、明るく笑った。
今みたいに、何かあればちゃんと話してくれればそれでいい。信じられるから。
そんな気持ちを込めての笑顔を見せたつもりだったんだけど、夏弥は微妙な顔で小さく息を吐いた。
何か、気に障ったのかな。
「正直、花緒がどう思おうが関係ないんだ」
「は?」
私の頬に手の甲をあてて、ゆっくりと優しく撫でる夏弥の言葉がよくわからない。
関係ないって?
「美月 梓との事は、本当に何も後ろめたいことなんてないから、そのことで花緒が誤解しようがどう受け止めようが、俺は花緒を手放すつもりはないから気にしないんだ。
花緒が泣いて悲しんで俺から離れようとしても、それを許すつもりもないし。
でも、心配なんだ」
まるで、私の気持ちや人格を無視しているような言葉を聞かされて、それはそれで驚いたけれど。
一方ではそこまで私を求めてくれる思いは重荷だと感じながらも、その重荷が嬉しくてたまらない。
好きな人から『手放すつもりはない』と言われて嬉しく感じないわけがない。
じんわり大きくなる幸せな感覚に浸って、口元も緩んでしまう。
そう単純に嬉しがる私を再び夏弥は抱き寄せ、私の背中を優しく撫でながら、低い声で囁いた。
「美月 梓が、花緒に何かしかけるんじゃないか、それが不安なんだ」
「わ、私に……?」
思いがけない言葉に、声が裏返ってしまった。
「そうだ。今はまだ花緒の事気付かれてないみたいだけど、結婚すればすぐにばれるし、柏木から何か聞くかもしれない。そうなったら、何をしてくるか……不安なんだ」
そう言った途端に、夏弥の顔が近づいてきて、気づけば唇が重なっていた。
私の頬を両手で挟んで、まるで私の存在を確認するような深いキス。
二度と放さないと、言葉だけでなく唇からも教え込まれているように、何度も何度も絡み合う舌の動きに必死についていく。
「俺が、守るから、絶対に離れるなよ」
息をする合間のその言葉に更に煽られながら、私は夏弥の背中に一生懸命しがみついていた。




