17話
とくとくとく、鼓動だけが変わる事なく私の中で規則的に動いているのを感じながら、少しずつ気持ちを鎮める。リビングに置かれている大きなソファに膝を抱え込んで座って、その中に顔を埋めた。
私が抱えてきた大きな鞄はソファの脇に無造作に置かれたままで、夏弥さんの部屋に入ってから今まで、何もしていない。ただ、膝を抱えてるだけ。
ふっと気持ちを緩めると、さっき見かけた梓さんの姿が浮かんでくる。
どことなく気が強そうな容姿は、売れているモデルなら当たり前なのかもしれないけれど、見た目の綺麗さと意思の強そうな表情が合わされば、最強の女の子っていう気がする。
あらゆるショーのモデルとして活躍し、ランウェイを歩く姿からは強いオーラが放たれて、誰もがその名前を知っている。『美月 梓』。
最近は、テレビCMにもひっぱりだこで、その笑顔をテレビで見ない日はないくらいだ。
そう言えば、この部屋に来る前に寄ったコンビニで買った雑誌の表紙も『美月 梓』だった。
それほど活躍している彼女がこのマンションのエントランスで待つ人は誰なのか。
きっと、その名前を夏弥さんや柏木さんから聞いていなければ、単純にミーハー気分で『美月 梓』をじろじろと見ていたかもしれないし、浮足立っていたかもしれない。
でも、『梓さん』という名前を何度か聞かされていて、その彼女が夏弥さんと面識があったらしいことを聞いている今、やっぱり『美月 梓』と『梓さん』は同一人物だと思っても仕方ない。
仕方ないどころか、きっと正解だ。
「顔、小さかったな……」
ぽつりとそう呟くと、さらに気持ちは落ち込んで、もともとなかった自信さえ、さらに小さくなっていくどころかマイナス地帯へ突入していく。
顔が小さくて、とことん綺麗だからモデルになったのか、それともモデルだから顔も小さくなってきれいになったのか。どっちなんだろう。やっぱりもともと綺麗だったんだろうな。
うーん、と小さく唸りながら、ソファに転がった。
意味もないことを延々考えながら、少しずつ気持ちが落ち着いていくのを感じる。
自分の心臓の音を聞きつつ、ただ気持ちを落ち着けるようにたわいもない事を考えると、次第に落ち込みから浮上していく。そんな自分に気づいたのは、悠介と別れた後で気持ちが壊れて入院した時。
心をケアをしてくれる病院に入院して、疲れ果てていた体も同時に回復させるため、あの頃の私の日常はストップしていた。
その入院生活の中で、自分なりに頑張って見つけたのが、自分の心臓の音を聞く事だった。
とくとくという音は、私自身を生きている実感で溢れさせてくれて、少しずつ気持ちを前向きにしてくれる。
それ以来、落ち込む事があったり不安に潰れそうになったときには、即心臓の音を感じるようにしている。
そして、つまらないと思える事を意味なく考える事も有効。私なりの回復の仕方。
今も、夏弥さんの向こう側に梓さんという女性の存在を感じて、落ち込みそうになる私の気持ちを鼓舞するように、体を小さく丸めてとくとくという規則音を感じていた。
ソファに転がって目に入った時計は、夏弥さんが帰ると連絡をくれた時刻を少し過ぎていた。
一時間くらい、こうしてぼんやりとしてたんだな。
小さく息を吐いて、夏弥さんの事を思い浮かべていると、ほんの少し目の奥が熱くなってくる。
きっと、梓さんが夏弥さんを捕まえるよね。
夏弥さんに早く帰ってきて欲しいけれど、そうなると、一階のエントランスで待ち伏せしてるらしい梓さんに捕まるのは確実。
ちゃんとこの部屋に帰ってきてくれるのかな。
この部屋には帰らずに、梓さんと二人でどこかに出かけたりして……。
「それは、絶対に嫌だ」
ぐっと目を閉じてそう呟いた。
「何が嫌なんだ?」
「え?」
突然の声に目を開けると、リビングの入口にもたれながらネクタイを緩めている夏弥さんがいた。
怪訝そうな顔を私に向けているその姿は相変わらずの格好良さで、こんな気分の時なのに、どきっとしてしまう。
そして、とんでもなく、夏弥さんに惹かれている自分に気づく。
「疲れてるなら、ソファじゃなくてベッドで寝ればいいのに。遠慮しなくていいぞ」
夏弥さんは、ソファに起き上がった私の隣に来ると、私の腰を抱き寄せながら腰を下ろした。
お互いの体温を感じ合う距離に並んで、慌ててしまった私に構う事なく夏弥さんはその整った顔を近づけると。
「ただいま」
吐息とともにそうささやいた。
「お、おかえりなさい」
「もいっかい」
「え?」
「今の、もいっかい」
「……おかえり?」
「ただいま。花緒」
夏弥さんは嬉しそうに大きく笑うと、私の体を抱きしめながら唇を重ねた。
「っ。な、夏弥……さん」
突然のキスに驚いて、思わず夏弥さんの胸を押し返そうとするけれど、その手すら夏弥さんの手に拘束されて動けなくなった。後頭部に回された手がぐっと押し付けられて、否応なく夏弥さんとのキスが深くなっていく。
差し入れられた舌の動きに戸惑いながらも、私の舌も少しずつからめとられていく。
何度も交わしたキスだけど、何度交わしても心地いい。
夏弥さんの経験値の高さゆえの心地よさかもしれないと思うと気持ちは落ち込むけれど、それ以上に染み入る喜びが私をキスに夢中にさせる。
拘束されていた手は夏弥さんの背中に回されて、縋りつくように体全体を預けながら、与えられる熱に酔う。
「花緒……もっと必死になれ」
角度を変える合間の夏弥さんの言葉に更に煽られて、私が求めているのか求められているのかわからないキスを何度も重ねて。
夏弥さんの指先が私の胸をつつっとなぞる。
「んっ……」
瞬間感じる刺激に体は跳ねてしまう。そしてもっと深いキスを落とされて。
それだけで、私は夏弥さんのものだと感じる。
そんな単純な自分を初めて知って、妙に嬉しい。
「なつや……」
呼び捨てでそう呟くと、私を抱く腕の力が強くなるから。
「なつや、…なつや…」
何度もそう呼んで、不安な気持ちを押しやろうとした。
* * *
ひとしきり抱き合って、気付けば息も荒くお互いを見つめ合っていた。
キス以上に進む雰囲気ではあったけれど、流れはそこまで動かなかった。
私を抱きしめる腕は変わらずそのままで、夏弥さんは嬉しそうに私を見つめた。
出会ってから今まで、何度も見せてくれた笑顔だけど、今目の前のそれはとても力強い笑顔で、何も迷いがない。
何かがふっきれたような安心感すら感じる。
「…夏弥さん?」
思わずそう聞くと、くすりと返された。
「なつや。さっきは呼び捨てで呼んでくれたのに。またキスしようか?」
「あ、あの、それは……」
「……」
「……なつや……」
「よし」
私の頭をくしゃくしゃと撫でてくれて、子供みたいに笑う夏弥さんは、私に掠めるだけのキスを落として
「下の玄関で、『梓』を見たんだろ?それでも逃げ帰らずにこの部屋で待ってるくらいに俺の事が好きになったんだな。……かわいいな、花緒。とことん、愛しいよ」
心底幸せそうな顔で、思いがけない言葉を呟いた。
……そんな言葉は、予想してなかった。
思わず固まった私の体をぎゅっと抱きしめて、夏弥さんはほっとしたように大きく息を吐いた。
「愛してるよ、花緒」
……混乱、混乱、混乱。一体、これはどういう展開なんだろう。
私は夏弥さんの胸の中で、喜怒哀楽のどの感情を出せばいいのかと、そんな事を考えていた。




