16話
一泊分の着替えを詰めただけの鞄はやはりコンパクトに仕上がった。
もともと荷物を多く持たずに旅行に行く私だから、夏弥さんの家に行くくらいの準備はあっけなく終わってしまう。
化粧道具だって必要最低限。いざとなればすっぴんでもいいし、コンビニで調達もできる。
普段の旅行準備と変わらない私の様子に、『あら、やっぱり。女終わってるわね』バッサリと厳しい言葉をかけてきたのはおばあちゃんだ。
煮物やサラダ、フルーツの詰め合わせ。夏弥さんに食べてもらいなさいと持ってきてくれたのはいいけれど、私の部屋に入ってきた途端に眉をひそめて、ため息もつかれた。
「部屋着はこの前おばあちゃんが買ってきたシルクのものがあったでしょ?
会社に着て行く服や通勤用の鞄も用意できてない。
……インナーだって、レースがついてるとか脇がリボンになってるとか、瀬尾さんが喜びそうなデザインの方がいいのに。こんなあっさりしたものばかり……」
「お、おばあちゃん?」
「別に初めて男の人の部屋に泊まるわけじゃないんだから、瀬尾さんが好みそうなものをちゃんと用意しなさいよ。瀬尾さんじゃなくっても、この鞄の中身じゃ戦意喪失だね」
「戦意喪失……」
まさかおばあちゃんの口からそんな言葉たちが飛び出すなんて思ってもいなくて、ただおばあちゃんを見つめるだけしかできない。
元々はっきりとした性格で、細かい事にはこだわらない人だから、私の恋愛にも鷹揚に接してくれていた。
それは学生時代から今まで、ずっと変わらないスタンス。
海外旅行に行く時も、女の子ばかりで行くよりも男の子が混じっている旅行の方が安全だと言っていたくらいで。
私の生活の中の男性の存在や、恋愛の進め方については私よりもあっけらかんとしたもの。
そんなおばあちゃんには慣れているつもりでいたけれど、こうして大人になった今でさえインナーのデザインでだめ出しされるなんて思ってもみなかったな。
確かに私が用意したインナーのデザインは特に特徴もない簡単なデザイン。
まさかバックプリントっていうわけではないけれど、男の人に見せる為に作られた繊細なデザインには程遠い。
悠介と別れて以来、男の人に素肌を見せる機会なんてなかったせいか、クローゼットの引き出しに並ぶ色合いも淡い色が多い事に気づいて苦笑してしまう。
ここ数年、どれだけ手を抜いてたんだろう。おばあちゃんが言うように、女終わってるかも。
「どうせ、月曜日の朝も瀬尾さんの家から仕事に行く事になるんだから、その準備もして行きなさい。
わざわざ家に戻って、また瀬尾さんちに行くなんて面倒でしょ?」
「え、明日の晩には帰ってくるつもりなんだけど」
おばあちゃんの言葉に驚いていると、ふふん、と小さく笑われて
「それは無理だね」
あっさりと言い返された。どこか自信に満ちたおばあちゃんの表情を見ながら、そうなのかな、と首を傾げた。
「瀬尾さんは、そんな生ぬるい男じゃないよ。好きな女を簡単に手放すわけがない」
「て、手放すって……家に帰るだけでしょ」
「瀬尾さんの手元にいなけりゃどこでも同じだよ」
「……」
おばあちゃんは、私のクローゼットから見繕ってきた幾つかの服を鞄に詰め込むと、小さく息を吐いて私に視線を向けた。おばあちゃんから落とされた言葉に戸惑っている私の表情に、何故かくすっと笑いを漏らして。
「女だよ。女。それを忘れちゃいけないよ。昔男に捨てられてた事にとらわれ過ぎて、自分が女であることまであきらめちゃだめだよ。たとえ99人の男に悲しい思いをさせられても、たったひとりの男が花緒を愛してくれたら十分じゃないか。……たったひとりを見逃さないように、ちゃんと女でいなさい」
普段と変わらない、淡々とした声音が私の心にすとんと落ちてくる。
困った時や苦しい時に、すっと手を差し伸べてくれるわけじゃない。
どうしようもなく俯いている時に、優しい言葉をかけてくれるわけでもない。
厳しい言葉で叱っては、私が自分で前に進める道筋をつけてくれるだけ。
「花緒の出生の事情は変えられないんだ。その事で嫌な思いもしてるだろうけど、そんな事情なんてどうでもいいって思わせるくらい、いい女になりなさい。誰もが欲しがる女になりなさい」
凛とした表情の中にある、私への愛情と、隠しているに違いない気遣い。
私のこれからを心配していないわけがない。
私の母が遺した、私が背負う負の人生を、嘆いたに違いない。
根っからの明るさと強さの中に隠して、そんな思いを私に見せる事は滅多にないけれど。
目の前のおばあちゃんからは、口調や言葉とは裏腹な、私の将来を気にかけてやまない心細ささえ見えてくる。
おばあちゃんの、普段と何がどう違うというわけではないけれど、向かい合って、顔を見合わせて。
70代だというのに艶のある肌とこしのある髪。
手入れの行き届いた桜色に塗られた爪。
背筋がきちんと伸びているのも綺麗だ。
「おばあちゃん、まだまだ女だね」
思わずそう呟いた。
「何を今頃」
呆れたような声。
「本当、今頃だね」
肩をすくめる私に、小さく笑ったおばあちゃんの目じりには細かいしわもあるけれど、それでも綺麗な顔には変わりない。
きっと、おばあちゃんなりの努力をして、今の美しさを保っているに違いない。
ずっと一緒に暮らしていたのに、その事にようやく気付いた気がする。
今まで、おばあちゃんの事を知っているようで知らなかった。そんな自分が恥ずかしく感じるし申し訳ない。
「私、明日の晩も瀬尾さんの部屋に泊まってくる。せっかくだから、少しでも長く一緒にいたいし」
少し照れながらも、素直にそう告げると、思いのほか気持ちが軽くなった。
自分が本当に望んでいたことだと実感して、さらに恥ずかしい。
「はいはい。楽しんでおいで。帰る時にはまた連絡しといで。瀬尾さんも一緒なら、彼が好物のチキンライスを作っておくよ」
「……チキンライス……」
まるで私に宣戦布告するようなおばあちゃんの声に、戸惑う私。そんな様子を面白がるような目を向けられて。
「早く私よりも瀬尾さんの事がわかるように頑張りなさい。それが、恋愛の醍醐味だよ」
なんだか、おばあちゃんにいいように遊ばれてる気がするのは考え過ぎだろうか……。
* * *
『6時頃には家に帰る』
そんな短いメールを受け取ったのは、ちょうど私が夏弥さんのマンションの玄関に着いた時。
メールを読んで、知らず知らず頬が緩んでしまうのを抑えられなかった。
あと1時間もすれば夏弥さんに会えると思うと、大きな荷物も苦にならない。
おばあちゃんに色々詰め込まれた鞄を肩にかけなおして、エントランスの端に向かった。
広めのエントランスには観葉植物がいくつか置かれていて、その近くに感じた人影。
視線を移すと、一人の女性が立っていた。
細身の長身で、水色のトレンチコートを着ている女性は、誰かを待っているようにいらいらと体を揺らしていた。
外を見ながら不機嫌そうに顔を歪めているけれど、その顔は綺麗で、まるで人形のように整っていた。
「あ……」
思わず出そうになった声を我慢して、視線を外した。
不自然にならないように歩みを進め、何も見なかったように表情を落ち着かせた。
そして、震える手をどうにかごまかし、ポケットから取り出した鍵を機械に差し込んだ。
ロックが解除されたエントランスの扉は、ゆっくりと開き、私は何かに押されるようにマンションの中に入った。
背中で閉まったガラス扉を確認し、少し息を吐きながら。
そっと今来た方向を振り向くと、相変わらず誰かを待っている女性が視界に入った。
綺麗な栗色の髪は腰までのストレート。スタイルの良さはコートを羽織っていてもよくわかる。
ぷっくりと膨らんだ唇は綺麗なピンクが施されていて。
「さすが、モデルだな」
思わず悲しい声を出してしまうほど、魅力的な女性だった。
「敵うわけないよね……」
突然重くなった鞄と足取りをどうにかこらえながら、夏弥さんの部屋へと向かう。
エレベーターを待ちながら、こぼれそうになる涙をこらえていてもやっぱり不安は満ちてきて、そっと振り返ってしまう。
何度見ても、その女性は綺麗で、かなり目だっている。
時折いらだたしげに眉を寄せるその顔もさまになっている。
そのいら立ちを彼女にもたらしている原因はきっと、夏弥さんだ。
彼女は夏弥さんを待っているに違いない。
「美月 梓……」
夏弥さんと深いつながりがあるらしい『梓さん』は、きっと彼女の事だ。




