15話
どれだけの時間を夏弥さんの胸の中で泣いていたのか、思い返してもはっきりとわからない。
背中を何度も撫でてくれながら、『ゆっくり呼吸しろ』と囁いてくれた事と、時々私の荒い呼吸を遮るようにキスをしてくれた事しか覚えていない。
夏弥さんが私に告げた言葉に混乱したせいか、過呼吸のような症状が出た私を気遣うようなキスだった。
私の体を大切に抱きしめてくれる夏弥さんに体を預けながら、私は苦しい呼吸の合間に夏弥さんに
『ごめんなさい……仕事、遅れますよね……』
そう言って仕事に出かけてくれるように言ったけれど
『バカじゃないのか?花緒がこんなに苦しんでるのに仕事になんて行くわけないだろ』
あっさりと流された。
その淡々とした言葉がどれほど嬉しかったか、それは私の夏弥さんへの気持ちの強さに比例していて、はあはあと息をしながらも、気持ちは穏やかになっていくようだった。
しばらくすると、私の呼吸も気持ちも落ち着いて、夏弥さんのほっとした笑顔が戻った。
それでも、まだ私の体を心配する夏弥さんだったけれど、仕事に出かける前の彼にそれ以上の迷惑はかけられない。一人で家まで帰ると言ってみたけれど、即却下されて。
結局、夏弥さんが運転する車で家まで送ってもらった。
私が帰ってきたと気づいて、玄関まで出てきたおばあちゃんに
『花緒さんと、お付き合いさせていただきます。早いうちの結婚も考えていますので、よろしくお願いします』
あっさりとそう言って頭を下げた夏弥さんには何のこだわりも抵抗もないようで、おばあちゃんにもまっすぐな視線を向けて、その強さは半端なものじゃなかった。
おばあちゃんの横に茫然と立っている私は、強気な夏弥さんに何も言えず、あまりの展開の速さに言葉を失うだけだった。
そんな私の混乱をさらに助長するように
『あら、ようやく気持ちを吐いたのね』
にんまりと笑ったおばあちゃんの声が響いた。
どういう事なのか、何を言ってるのか、二人は何か隠してるんじゃないか。
いろいろなことが頭を回っていくけれど。
あまりに多くの変化が夕べから続いていて、何からどう聞いて、何をどう受け止めればいいのか。
再び過呼吸に陥りそうなくらいに混乱したまま、気付けば仕事に向かう夏弥さんの車を見送っていた。
* * *
「おばあちゃん、瀬尾さんの事……」
家に入るなりおばあちゃんの背中にそう問いかけてみたけれど、軽く肩をすくめたおばあちゃんは、食事の途中だったのかキッチンに入って振り向きもしない。
「ねえ、おばあちゃんと瀬尾さんって何か話をしてたの?
結婚したいって言われても驚かないし、私に何も聞かないし……」
「朝は、何か食べたの?」
「え?……ううん、瀬尾さん仕事で急いでたし、そんな状況でもなくて。っていうか、おばあちゃん、何か隠してない?」
「うーん。隠してると言われると聞こえが悪いけれど、特に聞かれてないから言ってない事はあるかなあ」
テーブルについて、トーストを頬張りながら淡々と話すおばあちゃん。
その様子は、私に対してはある程度の距離感を保ちながら『おばあちゃんがいなくなってもいいように』と自立した生活を私に求めてきたこれまでと何ら変わらない。
二人きりの家族だけど、いつまでも二人では生きられないのがわかっているから、突き放すでもなく懐に抱えるでもなく、それぞれの生活を尊重しながら過ごしてきた。
だから、今おばあちゃんが私に向けた口調は普段と大して変わらないんだけど、どこかひっかかる雰囲気が感じられる。
伏せられた瞳の向こうには、何かが隠されてるって思う。
「じゃ、聞くけど。私が入院してた事、瀬尾さんに言った?」
「ああ、詳しく言ったわけじゃないけど、その頃……瀬尾さんが部署を異動することになって、うちに挨拶にこられたんだ」
「異動?」
「そうだよ。入社してからずっと営業部だったんだけど、この家を建ててもらったあとしばらくして宣伝部に異動が決まって。その時もわざわざ挨拶にみえて。……で、ちょうど花緒が入院している時に営業部に戻る事になったって来られたんだよ」
「ふーん。結構異動のタイミングが早いね。それに営業部と宣伝部って仕事につながりとかあるのかな」
思いがけないおばあちゃんの話に、疑問を感じる。確かにサラリーマンだから異動はつきものだけど、今聞いた夏弥さんの異動のタイミングには首を傾げてしまう。
営業職なら、そのまま営業職のまま地方や他の支店への転勤が普通じゃないかと思うのに。
そんな私の疑問を察しただろうおばあちゃんは、それでも曖昧に口元だけで笑ったままコーヒーを飲み干すと。
「結婚を考える仲だったら、直接瀬尾さんに聞いてごらん。おばあちゃんも彼の事をまるまる知ってるわけじゃないし」
優しく突き放すような言葉。
「瀬尾さんはね、あんなに見た目が良くて仕事もできるから女には事欠かない人生を送ってるけど、それでも一途ないい男だと思うよ。おばあちゃんが言いたいのはそれだけ」
「女には事欠かないって……それって、不安になるんだけど……。それに、私の事知ったら瀬尾さんだって一途じゃいられなくなるよ、きっと」
「私の事?ああ、父親がいないって事かい?そんなのもとから抱えてる現実なんだから、今更悩んでも仕方ないだろ。瀬尾さんがその事で花緒を捨てるなら、それだけの男だって事だよ。諦めな。
でも、諦める必要はない男だって、そうおばあちゃんは思ってるよ」
一気にそう言い切ると、おばあちゃんは席を立ち、食器を食洗機に入れ始めた。
あーあ。
これ以上、夏弥さんの事を聞いても何も答えてくれそうにない。
そんな雰囲気が背中に漂っていて、私は小さくため息をついた。
何もかもを話してくれるとは思ってなかったけど、結局何もわからなかったかも。
夏弥さんとおばあちゃんが私の知らない所で何かを共有している事は確かだけど、それすら私の勘に過ぎなくて。
色々な疑問を聞きたいけれど、直接夏弥さんに聞きなさいと言われればそれ以上何も聞けない。
「ねえおばあちゃん。今日、瀬尾さんのマンションに戻ってもいいかな……」
とりあえず。それだけを聞いてみた。夏弥さんに約束させられたっていうのもあるし、私自身もそうしたい。
「戻るもなにも、花緒のしたいようにしなさいよ。おばあちゃんは花緒がしっかりと生きていてくれればそれでいいんだし。何も言わないよ」
「……だよね」
予想通りの答えに少し気が抜けた。
私が自分で決めたのなら、特に反対はしないおばあちゃんだから、夏弥さんのマンションに戻る事も反対はしないと思ってたけど。
こうあっさりと了解されると、少し寂しいかな……。
「夕方戻るのかい?それなら、おばあちゃんが朝から作ってる煮物でも持って行きなさい。瀬尾さん一人暮らしが長いから、ちゃんと食事は考えてあげないと」
あ、まただ。また感じた。
夏弥さんとおばあちゃんが親しく付き合ってるような言葉。この家を建ててから7年ほど、その間ずっと親しくしていたんだろうか。
私が知らなかっただけで、夏弥さんはおばあちゃんとかなりの事を話しているんだろうか。
私の入院も含めて……。
そっとおばあちゃんに視線を向けても、相変わらず私に背を向けたまま。
忙しそうにシンクを片付けている。
何を聞いても答えてくれそうにない。
小さな頃からその背中を見てきた私にはよくわかる。頑固な背中を向けられると、何を聞いてもむだだとわかる。
夏弥さんの家にいても混乱して、おばあちゃんと一緒にいても混乱してしまうこの二日間が、私の気持ちをどんとよどませる。
思いがけない混沌とした、それでいて速い展開に顔をしかめたくなるけれど、それでもやっぱり。
夏弥さんのマンションに戻る事を考えると、自然と頬は緩むし心は弾んでしまうし丁寧に抱いてくれた夕べの熱が体によみがえってきて、どきどきもする。
私って、こんなにあっけない女だったんだな……。
いつの間にか夏弥さんに気持ちはからめ捕られて逃げられなくなったけど、それが何だか心地よくも感じて好きになったんだ、と改めて思う。
そんな気持ちを認めて、幸せに満ちる自分を感じながらも。それでも。
いつかは捨てられるのかなと、切なさにも包まれて、泣きそうにもなる……。




