13話
ゆっくりと動いた温かさを感じて、私の意識が目覚めていく。
徐々に覚醒していく意識の向こうにある温かさは、私を抱きしめて離さないままの瀬尾さんの体温だ。
まるで子供を抱きしめて眠るように、私をぎゅっと抱え込んで、守るように。
規則的な呼吸とともに浮かんでいる表情は穏やかで、満足そうな口元は優しい。
抱きしめられているせいで、自由に身動きが取れないまま瀬尾さんの寝顔をしばらく見つめていると、その顔にある小さな傷痕に気付いた。
じっと見ない限りは気付く事のない小さな傷は、左頬と左耳のちょうど真ん中あたりに残っている。
縦に一センチほどの白い傷あとは、かなり昔にできた跡のように見えて、瀬尾さんの昔の様子がちらりと浮かんでくる。きっと、やんちゃだったんだろうな。
男性なら、こんな傷痕だれでも持ってるものなのかな……。
そういえば、悠介の手の甲にも小さな頃に転んでできたらしい傷痕が残ってたっけ。
瀬尾さんの体全体で包まれた状態のまま、私はどうにか左手をその傷痕にのせて、そっと指先を這わせると、微かな盛り上がりを感じた。
今はもう、痛くはないだろうその傷痕ができた原因や、その頃の瀬尾さんの事を知りたいなあと、ふと感じる。
瀬尾さんと知り合ったのはつい最近で会った回数も少ない私が、瀬尾さんについて知っている事なんてほんの少ししかない。
勤務先の会社名と、営業をしていること。もちろん名前と年齢は教えてもらった。
こうして自宅に連れてきてくれたから、普段の生活の一端を見る事はできたけれど、それでも瀬尾さんの事は知らない事ばかり。
家族の事や趣味、好きな食べ物。
そんな簡単な事すら知らない状況なのに、私は瀬尾さんに抱かれた。
私が瀬尾さんの事をよく知らないのと同じように、瀬尾さんも私の事をよく知らないはずなのに、瀬尾さんは私を抱いた。
男の人と体を重ねるなんて本当に久しぶりで、まるで初めてのような緊張感が私の体を包んでいたけれど、その緊張感をゆっくり解きほぐすように、一度目は優しく時間をかけて愛してくれた。
瀬尾さんの手が私の体を這うたびに、ビクビクと震えて、唇で甘噛みされた時には心地よい痛みに吐息が漏れて。
体の中にゆっくりと感じた瀬尾さんの熱が、私の気持ちを溶かしてしまった。
出会って以来、整った顔を私に向けて、甘く優しい言葉を強引にぶつけられていただけなのに、何故か私の心は瀬尾さんにつかまって、気づけば愛しさを覚えるようになった。
いつか瀬尾さんに捨てられるかもしれないけれど、そのことを覚悟してでも寄り添いたいと、私は瀬尾さんのとりこになっていた。
どこまでも私に熱い気持ちをぶつけてくれる瀬尾さんの勢いに流された感もあるけれど、それだけではない何かがずっと私の中にくすぶっている。
しっくりとこない違和感が、絶えず私の中に残っていて、離れない。
それは全て瀬尾さんが口にした言葉によるものだ。
『自分の運命を受け入れて生きている一流の女』
柏木さんに向けて私の事をそう言ってくれた瀬尾さんの言葉がふと心をよぎる。
私の事を守ろうと、思わずそう言ってくれたに違いない言葉に気持ちは温かくなって、その瞬間からは崩れるように瀬尾さんへの壁が壊れていったような気がする。
聞いた瞬間は、ただ単に嬉しくて仕方がなくて、私を認めてくれた瀬尾さんへの思いは右肩上がり、ただそれだけの瞬間だったけれど。
どうしてだろう。どうして『自分の運命』なんて言葉が自然に出たんだろう。
それほどお互いの事を知らなくて、手探りで知ろうと努力をしている最中。
少なくとも私の中には、瀬尾さんの運命なんていう言葉は生まれていないのに、瀬尾さんの中には確実にそんな言葉が存在しているようで、不思議に思う。
私の何を知っているの?
瀬尾さんの寝顔にそっと問いかけてみる。ぐっすり寝入ったままの顔は、寝顔でさえも整っていて、少し切なくなる。この顔を、今まで何人の女の人が見てきたのかと、知りたくもないのに考え込んでしまう自分の思考回路が邪魔で仕方ないけれど、それでも苦しい気持ちは私を攻める。
『梓さん』
瀬尾さんに抱かれる前にシャワーを浴びている時も、その名前が私の頭から離れなくて気持ちは落ち込み続けていた。柏木さんから聞かされたその名前は、私の表情を暗くさせるには十分な力を持っていたようで、寝室で俯く私から瀬尾さんはその理由を無理やり聞き出した。
『彼女は俺を好きになったけど、俺は好きにはならなかった。彼女の心も体も受け入れたことはない』
強い瞳を私に向けてそう教えてくれた。
それ以上は何も言わないという雰囲気が漂っていたせいで、私からはそれ以上彼女の事は聞かなかったけれど、瀬尾さんの気持ちが『梓さん』にないと知っただけでほっとした。
『梓さん』が一体誰なのか、そして、瀬尾さんは一体、私の何を知っているのかいないのか。
心を騒がすいくつもの疑問を、どうにか心の奥に隠して。
気持ちを切り替えるように視線を移した。
カーテンの向こうからはまだ明るい光は入ってこない。
そっと時計を見ると夜明けまではまだ間がある。
「夏弥さん……」
激しく抱かれている最中、『夏弥って呼べよ』荒い息遣いでそう言われてからは、意識を失いそうになりながら何度もそう呼んだ。その度に、嬉しそうな顔をした瀬尾さん……夏弥さん……。
眠っている彼になら、素直にそう呼べると気づいた。そして、そう呼べば私の気持ちもときめいて温かくなるとも気づく。
まるで高校生のように照れてしまう自分に驚きながら、再び瀬尾さんの体に寄り添って、瞳を閉じた。
瀬尾さんの鼓動を聞くと心が落ち着いて、再び意識は夢へと向かう。
夜明けまでまだ時間があることに嬉しさを感じながら、私は眠りに落ちていった。




