10話
それからの食事の味は全く覚えていない。
弥生ちゃんに注がれるままにワインを飲み、料理ですら淡々と無意識のうちに食べていたようで。
結局は瀬尾さんがテーブルに迎えに来てくれるまで、ループに紛れ込んだように延々と悩み続けていた。
「ごちそうさまでしたー」
お店を出た途端、弥生ちゃんは大きな声で瀬尾さんにお礼を言った。
私たちの食事代も瀬尾さんが払ってくれた。もちろん瀬尾さんのテーブルの分も。
営業マンとしてはトップを独走中だとおばあちゃんが言っていたけど、どれほどのお給料をもらっているのか知らない中でおごってもらうのは、少しためらいもある。
でも、それが当たり前だというように、さっさと私達のテーブルから伝票を手に取った瀬尾さんは、
誰が見ても格好良かった。
瀬尾さんのテーブルで一緒に食事をしていた5人ほどの人達から順番にお礼を言われても、特に何でもないようにしていた姿にも。
正直、見とれてしまった。
瀬尾さんが支払を終えてお店から出てくるまでのほんの短い間、私は瀬尾さんの部下だという男性たちに囲まれた。次々と質問を浴びせられた。住宅の営業をしている若手達の言葉は容赦なくて、もともと人見知りな私は茫然としていた。
「瀬尾課長って女性にかなりもてるんですよ。何人も課長の事好きになっては振られてるんです。
社内で一番きれいだと言われている受付のお姫様でさえ拒んでましたからね」
「あ、社長室の秘書の女の子も泣いてましたね。あの見た目で仕事もできて。やっぱり女の子の気持ちは一気にもってかれるんでしょうねー」
「で、瀬尾課長とはどこで知り合ったんですか?まさかこんなにきれいな婚約者がいるなんて想像もしてなかったですよ」
次々と聞かされる話に、時々胸は切なくなって、あー、やっぱり瀬尾さんはもてるんだなと実感する。
実感して、納得して、そして不安になる。
私みたいな平凡な女を、瀬尾さんがまともに好きになってくれるなんて信じられない。
他人からあからさまに嫌われる事もないけれど、かといって、抜きん出て好かれる事もない。
特に害のない普通の女として、これまで生きてきて、きっとこれからだってそうだと思う。
毎日仕事を一生懸命頑張って、そしておばあちゃんとおいしいごはんを食べながら笑い合って。
胸を焦がすくらいに好きな人ができるかもしれないけれど。
きっと一生このまま。私は大きな変化もなく、生きていくんだと思う。
これまでずっと、何の違和感も感じないまま、そう思って生きてきたのに、今更瀬尾さんに心を揺らされたくらいで感情を右往左往させるなんて。
だめだ。やっぱり私に瀬尾さんは荷が重すぎる。
「で、どこで知り合ったんですか?」
相変わらず押しの強い声で問いかけられた。一番若そうな元気な男性。その目には、瀬尾さんの事を知りたいって気持ちがありありと浮かんでいる。決して悪気のない好奇心、きっと、瀬尾さんに憧れてるんだろうな。
その瞳に押されるように、考えてみるけれど。
知り合ったきっかけは、おばあちゃんに呼ばれて瀬尾さんが家に来たのがきっかけ。
大して派手な出会いじゃないんだけど、がっかりしないかな。
華やかに過ごしてそうな瀬尾さんとの出会いが、地味なものだと教えていいのだろうかと、悩んでしまう。
曖昧に笑いながら、ぼんやりと考えていると、力強い手が私の腕を掴んだ。
倒れこむように引き寄せられて、すっぽり収まったのは広い胸。
スーツから香るのは、それほどきつくない男性用の香水?
「俺が一目ぼれして手に入れたんだ。それでいいだろ」
頭の上を、低い声が響く。ゆっくりと顔を上げると、けん制するような笑顔を部下の人たちに向ける顔が近くにあった。
「せ……瀬尾さん……」
瀬尾さんの言葉になんだか照れてしまって、それに、一目ぼれなんて嘘だし、焦ってそう口にすると。
「悪い、今日はこのまま帰るから。二次会でも三次会でもお前らで行ってくれ」
私を抱く手に力が加わった。それって……なんだかもう慣れたかも。
「はいはい。課長はこのまま彼女と楽しい夜を過ごしてください。俺らはもう少し飲んで帰りまーす」
「あ、明日同じスーツとネクタイは厳禁ですよ。社内の女の子の悲鳴が聞こえますからね。
課長に彼女がいるなんて広まったら、大変です」
「大丈夫です、僕たちは口が堅いんで、今目の前にいる綺麗な婚約者さんの事はちゃんと黙っておきます」
瀬尾さんに向かって次々と言葉が飛んでくるけれど、瀬尾さんは表情を変えることなく静かに聞いていた。
けれど、突然
「黙らなくていいけど。結婚するし、花緒は同じ会社の人間でもないからいじめられる心配もないから言ってくれていいぞ。いや、広めてくれた方が俺にはありがたいな」
「でもっ」
再び、黄色い彼女が視界に飛び込んできた。それまで、少し距離を作って私をにらんでいた彼女、瀬尾さんに向かってなにやら必死になっている。
「婚約したって言いますけど、梓さんはどうするんですか?彼女だって瀬尾さんの恋人じゃ……」
「恋人じゃない。彼女が一方的に俺に好意を持ってただけで何の関係もない。
宣伝部から営業部に異動になって、関わることももうない」
「でも、彼女はまだ、きっと……瀬尾さんの事。それに、私だって……」
一生懸命に何かを訴えようとしている黄色い彼女は、はっと我に返ったように瞳を大きく見開いた。
と同時に小さくため息を吐くと。
「少なくとも梓さんは、課長の事を」
「ああ、告白もされたし泣かれたけど、俺にその気はないってことをちゃんと伝えてわかってもらってる。
今更他人が蒸し返すのは彼女に失礼だ。それに、俺には花緒っていう婚約者がいる」
冷たい声で、黄色い彼女を突き放した。
瀬尾さんの胸に抱え込まれたまま、その声に私も震えた。きっと、直接その言葉を直接投げられた彼女はもっと震えてるはず。
「じゃ、私も、だめ……なんでしょうか」
やっぱり。力なくそう呟く彼女の声は、震えていた。
そして、目の前の彼女の気持ちの強さに不安が溢れ、『梓さん』という女性の存在を知り、私の心も震えていた。




