1.プロローグ
夢を見た。それは遠い幼い頃の記憶。
今思えばこれが全ての始まりだったのかも知れない。
―――十年前、まだ世界が穏やかな時代のこと
「ねぇラーズ…、こんな奥まで入ったらあぶないよぉ…」
少女は数歩先を歩いている少年に小走りで近付き、彼の左腕を両腕でぎゅっと抱き寄せると、周囲を見渡しながら怯えるように言った。
「大丈夫だって。何にもいないじゃん!」
少年は少女の不安をよそに、湿った枯葉の上を軽快な足取りで進んでいた。
「でも長老には『月影の森』には入るなって何度も言われて…」
少女の瞳は不安に揺れた。
「平気平気!まったくルカは臆病だなぁ。」
「そんなことないもん!」
少年と少女の声は軽やかに森の梢を揺らす風音に溶け込んでいった。
彼らの住まう村から南へ十里ほど離れた地に、『月影の森』と呼ばれる暗き森が横たわっている。その森は恐ろしい魔物の棲処とされ、村の掟でこの地に足を踏み入れることを厳しく禁じていた。
しかし、幼き二人は純粋な好奇心に導かれて森の深奥へと歩みを進めた。
やがて、陽の光は幾重にも重なる葉の盾によって阻まれ、大地を照らすことをやめた。
足元は闇に沈み視界を失い、漆黒の帳が幼い二人を包み込み、その奥底には得体知れぬ不穏の気配が潜み始めていた。
「ねぇ…変な声がするよ……?」
「……風だろ!怯えすぎだって!」
森に足を踏み入れてから、時は一刻を刻もうとしていた。
足取りは次第に重くなり、少年の瞳は落ち着きを失い、幾度となく周囲を見渡していた。
「……そもそもオヒアレファの花を見たいって言だしたのはルカじゃないか!」
「それはそうだけど……でも、ただの伝説だから本当にあるかもわからないし…」
―――深き森の奥深くにのみ花開くと言われ、その姿を目にした者は生涯にわたり幸福を得ると伝えられる伝説の花、“オヒアレファ”
その物語を旅の者から聞きつけた少女は、その花を一目見たいと願い、幼馴染のラーズとひそかに村を抜け出し、禁忌とされる『月影の森』へと足を踏み入れたのであった。
しかし、進むごとに森は薄暗くなり、得体の知れぬ気配がその濃度を増していった。
少年の胸には静かに、不安の影が忍び寄り、しかしその動揺を隠すために、彼は少女にあたり、自らの心を誤魔化そうとしたのである。
どこまでも変わらぬ景色が続き、足元には湿り気を帯びた空気がぬるりと絡みつき、時折、風の唸りにも獣の遠吠えにも似た不気味な響きが森の奥から漏れ聞こえてくる。
もちろん周囲に人の気配はまるでなく、こんな不気味な森の中を幼い二人きりで歩いているのだから、落ち着いていられるはずもなかった。
恐怖を胸の奥に押し込めながら、しばし歩みを続けると、奇跡のように開けた場所へとたどり着いた。
そこには、宝石の如く輝く清流が静かに流れ、そのせせらぎは心地よく耳を撫でる。
差し込む柔らかな陽光がその場所を包み込み、緊張の糸は一気に緩み、二人の心に安らぎをもたらした。
「ここでちょっと休もうよぉ…森に入ってからずっと歩きっぱなしで、もうヘトヘトだよ…」
「そうだな…そうすっか!」
疲労の色を濃く浮かべ、互いに苦笑を交わす二人。やがて、腰を下ろすに相応しい大岩を見つけると、身を投げ出すように並び、長き旅路で酷使した足を労った。
一息ついたその時、少年はふと思い出したように腰袋に手を伸ばし、家からこっそり持ち出した昼食用のレーズンパンを二つ取り出す。片方をルカに差し出すと、二人は顔を見合わせてにっこり笑い、待ちかねたようにパンにかぶりついた。
朝から何も口にしていなかったこともあり、それはまるでご褒美のように感じられ、あっという間に食べ終えてしまった。
やがて再び胸の奥に不安が忍び寄ってきた。
「結構歩いたなぁ。」
「もう帰ろうよ…これ以上行ったら帰れなくなっちゃう…」
「そうだな。夜になったら森から出られなくなるし…」
小川の向こう、果てなく続く森を物憂げに見つめていた少年の瞳に、ふいに映ったものがあった。
木々のざわめきの奥、その静寂を裂くように――
まるで深紅の宝石が滴り落ちたかのように、ひときわ鮮やかな赤が、森の奥で静かに揺れていた。
「…あれは!」
少年は声を上げるや否や、寄りかかっていたルカを顧みることもなく勢いよく立ち上がると、森の奥に揺らめく赤き塊を目がけて一目散に駆け出した。
「きゃ!…ど、どうしたの!?」
寄りかかっていた肩が消え、ふらりと体勢を崩した。
少女は驚きと戸惑いを隠せぬまま、懸命に重い腰を引き上げ、ふらつきながらも少年のあとを追った。
「ルカ見てみろよ!…これだよ、間違いないよ!」
森の奥から、少年の高ぶった声が少女に届いた。
息を切らしながら遅れて辿り着いた少女は、少年の指し示す先に視線を向けた途端、その瞳に光を宿した。あまりの美しさに息を呑みながら、ただ見入っていた。
「綺麗……!きっとこれだね!!」
そこに咲いていたのは、小鳥の翼ほどに花弁を広げた可憐な紅の花だった。
陽光を浴びて艶やかに開き、まるでこちらに微笑みかけるように咲き誇っている。
細く儚げな茎は、その重みに耐えながらも、しなやかに頭を差し出していた。
「ここまで来た甲斐があったな! 持てるだけ持って帰ろう!」
「うん!……あ、見て! あっちにもあるよ! ほら、こっちにも!!」
さっきまでの疲労が嘘のように消え、二人は足取りも軽く、森の中ではしゃぎまわった。帰り道のことなどすっかり忘れ、ただ夢中になって花を摘んでいた。
「もうこれぐらいでいいんじゃないか?」
「うん!」
両手いっぱいにオヒアレファの花を抱えた少女は、満足げに大きくうなずいた。
「来てよかったね!」
そう言いながら、少女が帰り道を振り返って歩き出そうとした、その瞬間だった――
二人の体に、雷が直撃したかのような激しい衝撃が走る。全身がしびれ、金縛りに遭ったように動けなくなってしまったのだ。
「!!!!」
数メートル先には、森の樹々すら覆い隠すほどの巨大な怪物が立ちはだかっていた。
その全身は深緑の鱗で覆われ、まるで古代の山が生きているかのように重厚で圧倒的な存在感を放っている。
頭部はまるで巨大な蛇のように丸みを帯び、口は一頭の馬すら丸呑みにできるほどに巨大で、その奥から伸びる舌はまるで鋼の鞭のようにしなやかに蠢いている。
両脇からは、何本もの太い蔦のような触手が絡まりながら伸びており、それらは大樹の枝のように太く、先端には岩をも砕く鋭利な鉤爪が揺れていた。
「逃げろ!!」
少年の叫びは、巨獣の咆哮にかき消されそうになりながらも、必死に少女へ向けた。
「無理だよぉ…体が動かない…」
恐怖に体を縛られた少女の声は震えていた。
足はもはや彼女の意思に従わず、鉛のように固まっていた。
「畜生!!」
少年は恐怖に掻き立てられながらも必死に少女の腕を掴み、守るように引き寄せて走り出した。
巨獣は森を揺るがす咆哮を上げ、巨大な触手を振り回しながら追ってきた。
「くそっ…!このままじゃ絶対追いつかれる!!」
二人は持っていたオヒアレファの花を無造作に地面へ撒き散らし、命を懸けて必死に逃げた。
「花が…!」
「そんなものはどうでもいい!とにかく走れ!!」
転びそうになる足を何度も持ち直し、全身の力を振り絞って走り続けるが、背後から迫る巨獣の影はすぐそこまで迫っていた。
その距離はどんどん縮まり、緑色の怪物はあと少しのところまで迫っていた。
「もうこれ以上、走れない…」
息も絶え絶えの少女の体力は、限界の瀬戸際に達しようとしていた。
だが、二人は必死に足を動かし、休んでいた小川の手前までたどり着く。
「あの小川を越えれば、森が狭くなる!がんばれ!」
振り返る余裕もなく、少年は必死に少女の手を握り締めて引っぱった。
「うん!」
少女はそれだけを返事にし、全力で走り続ける。
なんとか小川に辿り着き、浅瀬をばしゃばしゃと進んでいった。
「この川を越えれば…!」
少年がそう言ったその瞬間、少女の右足が川底の深い溝に取られ、前のめりに倒れこんだ。
「ルカ!」
必死に少女を起こそうとするが、足は川底にがっちりと埋まり、なかなか立ち上がれない。
「足が抜けないよぉ…どうしよう!」
恐怖に震えながら、少年は川底にはまった少女の皮靴を掴み、必死に引っ張った。
しかし、びくともしない。
その間にも怪物はすでに目の前にまで迫り、鋭く大きな触手を伸ばし、少女を狙い襲いかかろうとしていた。
「だめだ…間に合わない!」
少年は覚悟を決め、目を閉じて少女をかばうように覆いかぶさり、強く抱きしめながら身を固めた。
―――ドスッ!!!
背後から何かが鈍く突き刺さるような音が響いた。
「ごめん、ルカ……こんな森の奥まで来なければよかった……」
走馬灯のように後悔の念が少年の頭を何度も駆け巡る。
―――お父さん、お母さん、ごめん……多分、俺、もう死ぬんだ……
―――死んだら怒るかな……でも、もう遅いよね……
―――もうすぐ死ぬんだろうな……それとも、もう死んだのかな……
―――あれ?でも、痛くも痒くもないぞ?……
―――そういえばルカは?
「…痛いよぉ…もう離して…」
「…そうだよな。死んだら痛いよな……って、あれ?」
少女の予想外の声に、少年は我に返る。恐る恐る目を開け、体にあいたはずの穴を確認した。
「あれ?なんともないぞ……ルカは?」
「大丈夫だよ~。ぎゅ~!って抱きしめられてたから肩が痛かっただけ」
緊張の糸が一気に緩み、少年はその場にへたり込んだ。
「なんだよ~~…二人とも無事かぁ」
極度の緊張と疲労のせいで、少年はしばらくぼうっとしていた。
助かったんだ、と互いの無事を確かめ合い、ほっと肩を撫で下ろしたその時、少年は大事なことを思い出した。
「そうだ!あの怪物は!?」
突然我に返るように立ち上がり振り返ると、そこには鋭い触手をあと数センチの距離で伸ばしたまま立ち止まっている怪物の姿があった。
頭には、赤く光る矢のようなものが深く刺さっていた。
「うわぁ!!」
少年はそれを見るなりびっくりして大きくしりもちをつき、水しぶきがルカにかかった。
「つめた~い!」
「か、怪物が死んでる!!なんでだ???」
「ルカにも分んないよぉ」
少女が戸惑うのも無理はなかった。襲われる瞬間、少年が身を挺して覆いかぶさり、かばっていたのだから。
「……あれ?向こうに誰かいるよ?」
少女が川上の方を指差すと、その先には真紅の鎧を纏い、大きく弓を構えた美しい女性の姿があった。
彼女は怪物が微動だにしないのを確認すると、ゆっくりと弓を下ろし、こちらに向かって歩み寄ってきた。
「二人ともケガはないか?」
「うん…。大丈夫」
「ルカは大丈夫じゃないよ!足が痛い~」
「お前、何言ってんだよ!」
少年は少女の頭を軽く小突き、少女も負けじと少年の胸をぽかぽかと叩いた。
「…どうやら無事なようだな」
助けてくれた女性はそう告げると、さらに近づいて腰を低く落とした。
「こんな物騒な場所で、お前たちは何をしていたんだ?大人は一緒じゃないのか?」
少年と少女は顔を見合わせ、ばつの悪そうな表情を浮かべながらこれまでの経緯を簡単に話した。
「…全く、呆れた子供たちだ。大人でもそう簡単にこの森には近づかないというのに。ともかく無事で何よりだ。立てるか?」
少年は「うん」と答えると、溝にしっかりと埋まった少女の靴の紐を解き、慎重に足を脱がせた。川底を掘りながら靴を丁寧に取り出すと、少女は少年の肩にすがりながら起き上がり、少しびっこを引きつつ川岸へと歩み寄った。
川原の適当な岩場に少女を座らせ、靴を履かせてやると、「いたっ!」と顔をしかめた。軽い捻挫のようだった。
「怪我もしているし、このまま二人だけで森を出るのは危険だ。少し待っていろ」
そう告げると、女性は腰につけた布袋から何かの道具を取り出し、その道具に向かって会話を始めた。
「セリナか?私だ。…ああ、大丈夫だ。奴らもいなかった。ただ幼い二人組がシャドウウィーバーに襲われていたので保護している。悪いがここまで来て、この子たちを森の外に送ってやってくれ。…ああ、頼む」
通話を終えると女性は布袋をしまい、適当な岩にどっかりと腰を下ろした。しばらく考え込むように、独り言をつぶやいている。
少年はその様子をじっと見つめながら、彼女がどんな人物なのか想像していた。間近で見る装備は細部まで美しい装飾が施され、まばゆく輝いていた。きっとすごい人に違いない――そうぼんやり考えていた。
少女は相変わらず自分の足をさすり、大事そうに労わっている。
「お待たせしました。リリス様」
少年たちから少し離れた空間が青白く輝き、その中から白い装束をまとい、金色に輝く杖を右手に持った可憐な女性が姿を現した。
「ネクサリオンの兵はどうやら帰還したようですね。念のためもう一度周囲を捜索してみます…あ、言っていたのはこの子達ですか?」
セリナ・ミラシェルは長く美しいブロンドヘアーをかき上げながら少年達の方を見た。
「こんな幼い子供がなぜこんな所に…」
心配そうな顔をしながら2人に身を寄せてしゃがみ、体中を触って大きなケガが無い事を確認すると、ホッとした表情を浮かべ少年達をそっと抱きしめた。
「セリナ、この子達の事情は後で話す。日が暮れてしまう前に森の外に送ってやってくれ。座標はこの辺だ。」
真紅の鎧の女性リリス・アストラリアは地図を広げ、セリナに指示した。
「了解しました。…っとその前に。」
セリナは少女の前にそっと膝をつき、その足に手を添えると、目を閉じて小さく呟いた。
「ヒール――」
その声とともに、彼女の掌から淡い光が溢れ出す。
柔らかな金色の光は、小さな焚き火のようにゆらめきながら、少女の足を包み込んだ。
温もりと安らぎに似た波がふわりと広がり、痛みにこわばっていた少女の顔が次第に緩んでゆく。
「…あれ…? もう、痛くない…」
少女は不思議そうに自分の足を見つめ、小さく屈伸してみせた。さっきまでの捻挫の痛みが嘘のように消えていた。
セリナは少女から手を離してそっと立ち、少し離れてからスカートの裾をヒラリと舞わせるように振り返ると、金色の杖を空に掲げて呪文のようなものを唱えた。
「リターンポータル!」
彼女がそう叫ぶと、杖の先から青白く輝くガーデンアーチの様な扉が出現した。その光は彼女が現れたときと同じものだった。
「さぁ君たち、これに入りなさい。…そして、もう二度とこの森に入ってはダメよ。」
少年は「うん」とうなずき、少女と一緒に光る扉に向かった。
扉をくぐる直前に振り返り、「ありがとう」とお礼を言いうと、二人はにっこりと微笑みながら小さく手を横に振って少年たちが行くの見守っていた。
光の扉を抜けると、そこは村に続く一本道だった。
「おかあさんたちへの言い訳はどうしようか…ラーズもすっごくおこられるよ?…ねぇ、ラーズきいてる…!?」
少女は必死に話しかていたが、少年はすっかり上の空で今日一日の出来事で頭が一杯だった。
―――あの人たちはどこの人なんだろう。あの化け物も…
―――もっとこの世界の事を知りたい!
少年は色々な思いを巡らせながら村への帰路を急いだ。