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〜テンプレ通りのざまぁは起こりませんでしたが私は幸せになります〜、お義母様も「お変わりなく」

作者: 睦月遥

 朝靄が立ち込める屋敷の中庭に、冷え切った風が忍び込み、枯葉をわずかに揺らした。灰色の空の下、古びた噴水の水はとうに干上がり、石造りの女神像は、その表情をひび割れたまま天へと向けている。そんな寒々しい光景をぼんやりと眺める少女の姿があった。


 クラリスは、屋敷の使用人たちが慌ただしく働く様子を見ていた。彼女は侯爵家の娘でありながら、立場はまるで召使いのようだった。実母を亡くした後、父はすぐに新しい妻を迎えた。新しい母は、外見こそ美しく優雅であったが、その心は冷たく、娘に向けられるのは常に冷笑と軽蔑のまなざしであった。


「そんなところに突っ立って、何をしているの?」


 刺々しい声が背後から響いた。振り返ると、そこには継母のレイナが立っていた。細身の体をふわりとした絹のドレスに包み、白い手袋をはめた手には象牙の扇を持っている。その唇は艶やかに彩られ、目元には仄かに香る香水が漂っていた。だが、口元に浮かぶ笑みは冷ややかで、瞳には少しの慈愛もない。


「……何も」


「何も、ではないでしょう?あなたはただ怠け者なだけよ。さあ、メイドたちを手伝いなさい。貴族の娘だからといって、食いぶちを稼がずに済むと思ったら大間違いよ」


 クラリスは唇を噛みしめた。屋敷に仕えるメイドたちは、彼女を憐れむどころか、継母の目がある前では手厳しく接してくる。それも無理はなかった。継母の機嫌を損ねれば、次に苛めの矛先が向かうのは彼女たちなのだから。


 それでも、クラリスは不満を口にすることはなかった。ただ静かに俯き、黙々と手を動かし、指示された仕事をこなすだけだった。いつからだっただろう、この状況が当たり前になったのは。


 かつては父の愛情を一身に受け、屋敷の中で幸せに暮らしていたはずなのに。今では父と顔を合わせる機会すらほとんどなくなった。継母が巧みに彼女を遠ざけ、父の心を自分のものへと絡め取ったからだ。


 メイドの一人がそっと耳打ちする。「奥様は、もうあなたをこの家に置いておく気はないみたいよ」


 その言葉に、クラリスは眉をひそめた。


「……それは?」


「詳しくは知らないけれど、奥様が旦那様に何か話をしていたわ。あなたを修道院に送るとか、それとも、もっと遠くに追いやるとか」


 その瞬間、クラリスの心臓が大きく跳ねた。もしこの屋敷を追い出されたら、彼女には行く当てもない。どこへ行けというのか。


 だが、心の片隅では、どこかで期待している自分もいた。ここを出れば、あの冷たい視線から解放されるのではないかと。


 そう考えた時、扉の向こうから足音が響いた。整った衣服に身を包んだ執事が、静かにこちらへと歩み寄ってきた。


「クラリス様、旦那様がお呼びです」


 クラリスはゆっくりと顔を上げた。目の前の執事の表情には、何の感情も浮かんでいなかった。ただ、淡々と命令を伝えるだけの機械のように、彼の瞳は冷たく澄んでいた。


 ――決まったのだ。私は、この家から、追い出される。


 胸の奥が痛んだ。それでも、クラリスは背筋を伸ばし、深く息を吸い込んだ。


 この家に未練などない。そう言い聞かせながら、彼女は父のいる部屋へと向かった。


 しかし、その足取りは、わずかに震えていた。


第二部


 クラリスが父の部屋へ入ると、重厚な書斎の空気が彼女の肌にまとわりついた。暗い木目の本棚が壁を埋め尽くし、窓際の机には書類が山積みになっている。そこに座る父、エドワード侯爵は、かつての面影を失い、疲れた男の姿をしていた。


 彼は顔を上げ、クラリスを見た。その瞳はどこか遠く、娘を見るというより、ただ義務的に視線を向けているだけのようだった。


「……クラリス」


 彼女は静かに膝を折り、かつては父に抱きしめられた記憶を思い返す。けれども今、その腕は微動だにせず、ただ机に置かれたままだった。


「お呼びでしょうか」


 震えを押し殺しながら問うと、侯爵は一瞬だけためらった。しかし次の瞬間には、淡々とした声で告げた。


「お前は……もうこの家にはいられない」


 その言葉が突き刺さるようだった。覚悟していたはずなのに、実際に耳にすると胸の奥が締めつけられた。


「なぜ……」


「レイナが言ったのだ。お前がこの家にいることで問題が起きると。彼女の言葉は正しい。お前は、我々の間に……不和をもたらしている」


 不和をもたらしている?それは本当にクラリスのせいなのか。幼い頃、父は確かに彼女を愛していた。彼女が笑えば一緒に微笑み、彼女が泣けば慰めてくれた。それが、継母が来てから変わった。


「私は……ただ、この家で生きていただけです」


「分かっている。しかし、私はレイナを選んだ」


 それが結論だった。父はクラリスよりも継母を取ったのだ。


「行く先は決まっていますか」


 震える声を抑えながら問うと、侯爵は無感情に答えた。


「修道院だ。そこならお前も行き場に困ることはないだろう」


 修道院。そこは貴族の娘が身を寄せるには妥当な場所だった。しかし、それは事実上の幽閉であり、修道女として生きる以外の道はなくなる。


「……分かりました」


 父にすがることもできた。泣き、叫び、抗うこともできた。だが、クラリスにはそれをする気力がなかった。


 ここはもう、彼女の家ではないのだ。


 ゆっくりと立ち上がり、クラリスは扉の前で一度だけ振り返った。


「お体に気をつけてください、父上」


 侯爵は何も言わなかった。ただ目を伏せ、無言のまま書類に視線を落とした。


 静かに扉を閉めると、廊下の向こうにレイナが立っていた。満足げな笑みを浮かべ、まるで勝者のように優雅に扇を開く。


「まあ、お気の毒に。でもあなたのような子が、この屋敷にいても仕方ないものね」


 クラリスはじっと彼女を見た。レイナは美しい。高貴で洗練された容姿、気品あふれる所作――けれども、その内面は空虚で冷酷だった。


「あなたは……」


 クラリスは言葉を選んだ。しかし、結局何も言えなかった。ただ、レイナの背後で怯えるメイドたちの姿が目に入った。彼女たちはクラリスがいなくなれば、もっとひどい仕打ちを受けるのではないか――そんな予感が胸をよぎった。


 だが、クラリスに何ができる?何も。


 彼女は静かに頭を下げた。


「今までお世話になりました、義母様」


 それを聞いたレイナは、満足そうに笑った。


「ええ、あなたの旅路が平穏でありますように」


 その言葉には、少しの真心もなかった。


 クラリスは荷物をまとめ、屋敷を後にした。外に出ると、冷たい風が頬を打った。しかし、その冷たさが彼女を目覚めさせた。ここを出たのだ。もう、あの屋敷の檻に縛られることはない。


 ――私には未来がある。


 そう思うと、初めて前を向くことができた。



 修道院へ向かう馬車の中、クラリスは窓の外を見つめていた。屋敷を出てまだ数時間しか経っていないのに、あの場所がずっと昔の記憶のように思えた。


 修道院へ行けば、彼女は貴族の娘としてではなく、ただの修道女見習いとして過ごすことになる。そこに温かさはあるのだろうか。静かな安息はあるのだろうか。


 ――いいえ。そんなもの、あるはずがない。


 修道院もまた、一つの檻なのだ。


 彼女は知らない世界へ行きたかった。自由に歩き、自由に話し、自由に生きることのできる世界へ。だが、侯爵家の娘という立場が、それを許さない。どこへ行くにも、誰かに縛られ続ける。


 そんな思いを巡らせていた時、馬車が急に大きく揺れた。外で御者が何か叫び、強く馬を引いた音が聞こえる。


「――止まれ!」


 御者の怒声とともに、馬車が突然止まる。クラリスは驚いて外を見ると、道の真ん中に男たちが数人立っていた。粗末な服に、鋭い眼差し。野盗か、それともただのならず者か。


「おい、そこの御者。これは誰を乗せている?」


 先頭の男が薄汚れた笑みを浮かべて問う。御者は動揺しながらも、毅然とした声で答えた。


「侯爵家の娘、クラリス様を修道院へお連れしている。道を開けろ」


 その言葉を聞いた瞬間、男たちは顔を見合わせ、にやりと笑った。


「お嬢様、ねぇ……金になりそうだ」


 クラリスは緊張した。血の気が引く。


「お嬢様、おとなしくしてくれれば手荒な真似はしねぇよ」


 男たちは馬車の扉を開けようとする。御者は必死に抵抗するが、数人の男に押さえつけられ、あっという間に地面に引きずり倒された。


 ――逃げなければ。


 クラリスは咄嗟に馬車の反対側の扉を開け、草むらへと飛び降りた。転がるように地面に落ちたが、すぐに立ち上がり、全力で走る。


「おい、逃げたぞ!」


 男たちの怒声が響く。だが、クラリスは振り向かなかった。


 息を切らしながら、林の中へ駆け込んだ。枝が頬をかすめ、裾が泥にまみれる。だが、それでも走り続けた。


 このまま捕まれば、修道院にすらたどり着けない。行き先も、未来も奪われる。


 走る――どこへ行くかなんて、分からない。ただ、自由になりたい。


 森の奥へと進むうちに、やがて川の音が聞こえてきた。小さな小川が流れている。その向こうには、開けた草原が見える。


 ――あそこまで行けば、振り切れるかもしれない。


 そう思い、川の浅瀬へと足を踏み入れた時、誰かが彼女の手を掴んだ。


 「……っ!」


 悲鳴を上げそうになったが、その手は強くも優しい力で彼女を引き寄せた。


 「静かに。このままでは見つかる」


 低く落ち着いた声が響く。顔を上げると、そこには一人の青年がいた。長めの黒髪を後ろで束ね、深い青の瞳を持つ男。粗末な服を着ているが、佇まいには品があった。


 「あなたは……?」


 「今は説明している時間はない。来い」


 青年はクラリスの手を引き、川の奥へと進んだ。川の流れに足音を消されながら、彼女は彼の後についていくしかなかった。


 ――運命が、大きく動き始めていた。




 川の冷たい水がクラリスの足を濡らし、長い裾が重くまとわりつく。だが、彼女は一歩もためらわず、青年の背を追った。足元の石が滑るたび、彼は手を強く握り直した。その手の温もりが、彼女の中の恐怖をわずかに和らげる。


 「どこへ向かうの?」


 震える声で問うと、青年は一瞬だけ振り返り、静かに言った。


 「安全な場所へ」


 夜が訪れる頃、二人は森を抜け、岩肌がむき出しの丘へとたどり着いた。そこには小さな小屋があった。粗末ではあるが、しっかりとした造りだ。


 「ここならしばらく身を隠せる」


 青年は扉を開け、クラリスを中へと招いた。中には暖炉があり、古びたテーブルと椅子が置かれていた。壁際には簡素な寝台が二つ並んでいる。


 「あなたは……いったい?」


 クラリスは改めて青年を見つめた。彼の瞳は深い夜空のように静かで、けれどどこか悲しげだった。


 「……ラウルだ」


 青年は短く名乗り、暖炉に薪をくべた。


 「なぜ私を助けたの?」


 「偶然だ。たまたま、お前が追われるのを見た」


 彼はそう言ったが、その目には何か別の理由があるように思えた。


 「クラリス、お前はどこへ行く?」


 問われ、クラリスは答えられなかった。行くべき場所などなかった。修道院に送られるはずだったが、もう戻ることはできない。侯爵家にも帰れない。


 ――私は、これからどうすればいいの?


 「……分からない」


 ぽつりとそう呟くと、ラウルは少し考えたように息をついた。


 「なら、しばらくここにいるといい。森の中で暮らすのは容易ではないが、俺が手伝う」


 「……どうしてそこまで?」


 「お前を見捨てたくないからだ」


 クラリスは、驚いて彼を見つめた。


 誰かにそう言われたのは、いつぶりだろうか。


 彼の言葉には打算も嘲りもなかった。ただ、まっすぐに彼女の存在を肯定していた。


 胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなるのを感じた。


 「ありがとう」


 その夜、クラリスは小さな寝台に横たわった。藁の詰まった粗末な寝床は、侯爵家の豪奢なベッドよりもずっと心地よく思えた。


 屋敷では一度も訪れなかった、本当の安らぎがそこにあった。


 ――だが、その頃。侯爵家では、何一つ変わらぬ日常が続いていた。


 継母レイナは、クラリスが去ったことを当然のように受け止め、相変わらず召使いたちをいびり続けていた。


 「あなたたちは本当に使えないわね。あの忌々しい娘が消えたというのに、どうしてそんな顔をしているの?」


 レイナは傍にいたメイドの一人を扇で軽く叩いた。叩かれた少女は、俯きながら震えている。


 クラリスがいた頃、彼女はまだこの家の誰かだった。彼女がいなくなった今、メイドたちはよりいっそう冷酷な扱いを受けるようになっていた。


 だが、それをレイナが気にするはずもない。


 「お茶が冷めているわ。作り直してきなさい」


 その冷酷な美貌には、何の曇りもなかった。


 クラリスがこの家にいたことも、涙を流したことも、すべてが彼女にとっては取るに足らない出来事なのだ。


 それが、彼女の世界だった。


 だが――クラリスの世界は、もうそこにはない。


 彼女は前へ進んでいた。新しい道を、見つけるために。





 森の朝は、清々しい静けさに包まれていた。鳥のさえずりが木々の間に響き、冷たい風が木の葉を揺らす。クラリスは小屋の外で焚き火を見つめながら、温かいスープをすする。香ばしいパンの匂いが鼻をくすぐり、慎ましいながらも心満たされる食事だった。


 「どうだ、少しは慣れたか?」


 向かいに座るラウルが尋ねる。


 「ええ……まだ信じられないけれど」


 クラリスは小さく笑った。彼女はここで生きている。誰の命令にも従わず、自分の力で。


 ラウルの助けがあったとはいえ、森での生活は簡単ではなかった。薪を割る手が痛み、食料を探すのに苦労した。それでも、彼女は一日一日を大切に生きていた。


 「ここでずっと暮らしていくつもりか?」


 ラウルの問いに、クラリスは少し考えてから首を横に振った。


 「私は……もっと世界を見たいわ」


 彼女の目には、かつてのような影はなかった。貴族の娘として生きることも、誰かに縛られることもなく、自分の意志で歩んでいく。


 「ラウルは?」


 彼は少し目を伏せた後、微笑んだ。


 「俺も、お前と同じさ。過去に縛られたくないんだ」


 ラウルには秘密があった。彼もまた貴族の生まれだったが、とある事情で家を捨てたのだという。詳細は語らなかったが、その瞳には深い哀しみと決意が宿っていた。


 「一緒に行くか?」


 クラリスがそう尋ねると、ラウルは驚いたように目を見開き、そして小さく笑った。


 「そうだな……お前となら、悪くないかもしれない」


 彼らは笑い合った。未来はまだ何も決まっていない。だが、ここで終わりではない。ここからが、始まりなのだ。


 その頃――侯爵家では、今日も変わらぬ日常が続いていた。


 レイナはメイドたちを厳しく叱責し、贅沢な食事を楽しみ、社交界での地位を誇示していた。彼女にとって、クラリスがいなくなったことなど、ささいな出来事に過ぎなかった。


 しかし、ふとした瞬間、彼女は思い出すことがあった。


 あの娘の瞳。あれほど冷遇されながらも、最後まで折れることのなかった意志。


 レイナは扇を閉じ、窓の外を眺めた。


 「……あの子は、今どこで何をしているのかしらね」


 呟いた言葉に、特別な意味はなかった。ほんの一瞬、気まぐれに過ぎなかった。


 やがて彼女は、いつものようにメイドを呼びつけ、再び何の変哲もない日常へと戻っていった。


 クラリスはもう、過去を振り返ることはない。


 彼女は前へ進むのだから。新しい未来へ向かって。



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