6.白金色の大狼
のし、のし、とゆっくりと大狼は森の中を歩いて行った。
背に乗せられたユッテは長い白金色の毛を掴んで、一歩踏み出すごとに揺れるその背から振り落とされないように踏ん張っていた。飛び降りて逃げるべきなのかと考えもしたが、大狼の背から伝わる体温の温もりが心地よく、また歩く速度も非常にゆっくりとしていたため、ゆりかごの中のような心地よさに、すっかりとその身を任せてしまっていたのだった。
大狼は木々の間を抜け、小さな川を飛び越え、時折ごつごつした岩を駈け上がって、やがて岩壁の中に自然と穿たれた岩棚のようなところにたどり着いた。
夜の闇は深く、月の光も薄雲に時折隠れがちになっていたためユッテにはよく見えていなかったが、それは絶壁とも形容して良いような岩壁の、地面からはユッテの身長の二十倍ほどの高所であった。
岩棚の奥は枯れ草や枝葉が吹きだまり、大狼はユッテを背に乗せたまま、その天然の褥の上に足を曲げて座り込んだ。
ユッテはおずおずと大狼の首元まで毛を伝って降りてくると、辺りをきょろきょろと眺めやる。
「どうした」
問われ、大狼の赤い目と視線が合った。
赤い色の瞳は不気味にも思えたが、その奥からの光は柔らかく、ユッテの緊張と恐怖を形なく溶かしてしまうような気がした。ユッテは大狼の首筋にその身をすり寄せた。
「ユッテ、おなかすいた……」
遠慮とは無縁な素直な言葉に、大狼は低い声で笑った。
「食い物ならそこに鳥の死骸があるが、お前は火で焼かねば食べられまい。水ならある。飲んでおけ」
大狼が視線を僅かに動かしたさきに目をやると、大狼の背後の岩から湧き水が染み出て、小さな流れを作っていた。
ユッテは大狼の身体を再びよじ上り、その背から岩壁に寄りかかって、直接口をつけて水をすすった。清らかな澄んだ水は、ユッテの乾ききった喉も、泣きはらした顔も、潤し、よく冷やした。
その濡れた顔を、ユッテはためらうことなく大狼の毛に埋めて拭く。おい、と大狼は呆れつつも怒ることはせず、大きな尻尾をふわりと浮かせたかと思うと、その先でユッテの身体を小突くように押した。転がったユッテは再び大狼の首元にすとんと落とされた。
「冷えているな」
「うん、さむかったよぉ」
大狼は身を丸くし、首元のユッテを身体全体で包み込む。滑らかな毛並みと大狼の体温の暖かさは、疲れ切ったユッテをすぐに眠りの縁に立たせたが、ユッテの中ではまだ空腹感と好奇心とが眠気に勝るらしい。ユッテは大狼の毛皮の中で身を捩り、顔だけ出して周囲を再度見渡した。
「ねえ、ここどこ?」
「われの寝床だ」
「おおかみさんのおうち? ここで寝るの? 高いね。こわくない?」
「落ちはせん。落ちたところで、うまく着地すればよい」
ユッテは僅かに身を乗り出して、窪みの下を覗き込んだ。月の光に針葉樹林の先端の葉がざわめくのが見えるが、それははるか、はるか下方であった。
「ユッテ、そんなのできないよ」
「人の子には無理であろうの」
「おりるの、どうやったらいい?」
「もう、降りるか?」
「だって……」
――ハインツとカミルのところに戻らねば。そう思った瞬間、表情を曇らせたのだろうか。大狼は巨大な舌先を口から出して、ユッテの頬を軽く舐めた。ざらっとした感触にユッテは思わず全身を震わせたが、その後に大狼が鼻先で頬を小突いてくるのは、むしろ温もりを感じた。
「案ずるな。じき、迎えが来よう」
「おむかえ?」
大狼は、そのユッテの問いには答えず視線を下界の森に落とした。うねる風と、木々のざわめき。獣の遠吠えが遠くから重なるように響いてくる。焦れたユッテは質問を変えた。
「なんで、おおかみさんはユッテをここに連れてきたの?」
「……泣いておったろう。ああも泣かれて、ただじっと見ておることなどできんな」
「こっから、見えたの?」
そう、と大狼は頷いた。
この場で、彼は森を見つめていた。遠く北の方向でくすぶっていた光――それは彼にとって長年己の半身のごとく親しみ、懐かしい存在であった――が日没を待たずして消えたのを感じ、やがて同じ光が森の深くで再び灯ったことをその目で確かめた。光は離れた場所で、二つ灯った。その一つが、声を上げて泣いていた。光がその泣き声に揺すぶられ、危うく消えかけそうになるのを見、思わず駆けていったのだ、と。
狼のそんな話を、ユッテはあまり理解できなかった。ただそんな大声で泣いていたか、とだけ思い恥ずかしさに頬を染める。首回りの毛に顔を埋め、小さく「だれにもいわないでねえ」と囁く姿に、大狼はほっほと軽く吠えた。
「何を恥じる。暗く、寒く、寂しかったのだろう」
「でも、ユッテ、もう四さいなの。赤ちゃんじゃないの」
「年は関係ない。何歳であっても、孤独に耐える必要などないのだ」
低くそう言いきった後に、大狼は再び赤い目でユッテを見つめた。その目は、ユッテの緑の瞳をじっくりと覗き込んでいた。
「――光り輝いておる」
何が? と問うと、
「そなたの緑眼よ。グリータの光が、ついにそなたに宿ったの。ならばわれも、そろそろか……」
「なんのこと?」
ユッテの問いに、また大狼は答えなかった。ユッテはさすがに不満そうに口を曲げるが、その表情にも子どもらしい愛らしさしか感じないのか、大狼はまた舌先でユッテを舐めた。やん、やん、と顔をしかめて避けるユッテに、ふんふん、と鼻を鳴らして笑いかける。
だが、幼いユッテには分からなかった。そうじゃれ合う間にも大狼の息が次第に細くなり、瞼がやや下がりはじめているのを。赤い目の奥の光が、徐々に薄れはじめているのを。温かくユッテを包み込んでいた体温が、徐々に低くなり始めているのを。
沈黙が、一頭と一人の間を流れていった。だがユッテは退屈などせず、自分を巻き取るふさふさの毛に全身を押しつけたり、足や手を絡めてその肌触りを楽しんでいた。毛の中に潜り、また頭を出す。大狼の肌まで直接手のひらを潜り込ませ摩ると、大狼はくすぐったそうに笑った。そして再度――半分落ちた瞼の下から、赤い瞳でユッテを見つめた。
「――幼子よ、ひとつ、頼みを聞いてくれるか」
「なあに? いいよ」
そう反射的に了承したユッテだったが、直後にしばし考え込む。
「ユッテにできるかなあ……。ユッテできないこといっぱいなの」
「……なにが出来ぬ?」
「んとね、まだね、字はちょっとしか読めないの。本は、いつも母さまか姉さまに読んでもらう。数は指を折って数えるけど、十からさきは、指がたりなくて時々わかんなくなる。あと、馬にのるの、できない。父さまが乗ってみなさいって言うから乗ったけど、こわくてすぐ降りたの。それと、夜は、ひとりだと寝られない……」
だんだんと小さくなるユッテの声に、ふふ、と大狼は吐息だけで微笑んだ。
「よい、よい。そんなことは、できずとも。それは、どれも、われにもできぬ」
頼みとは、そんな難しいことではないのだ――。大狼は、愛しげにユッテの額に鼻先を押しつけた。
「……あれを、連れていってほしい」
大狼の声は、低く、細かった。
「あれ? って?」
「仔狼のことよ。そなたらをこの森に連れてきた……」
「一緒に来たのは、ハインツよ。おおかみじゃないよ」
大狼は、ユッテの言葉を正さなかった。かすかにその耳が震えている。あるいは――しだいに聴力も失われかけているのかもしれない。
「……白き狼は、長きにわたり黒狼の王でありながら、虜囚でもあった……。その強大な力故に群れから白眼視されたのか、または、その逆か……。グリータは、あの仔をそんな運命から解き放そうと、己の力を森の外に放ったのかもしれん――白狼を森に縛る、魔女というものを……」
しだいに声がか細くなる。ユッテは不思議そうに、ただ大狼を見つめるだけだ。その見開かれた緑眼に、大狼は微笑みかけた。
「ユッテよ。そして、もう一人の緑眼を持つ――カミルと言ったか。そなたら二人は、互いを互いに孤独から救うておる。その中に……仔狼を入れてやってほしいのだ。あれは、森にただ繋がれているだけ。この森で、孤独に留まる必要は、ないのだ。……頼んだぞ」
「おおかみさん……?」
ユッテは大狼の言葉を、その瞼がゆっくりと閉じゆくさまを見つめながら聞いていた。やがて言葉と共に赤い瞳が全て隠されてしまう。ユッテは大狼の頬を、口元を、ぺちぺちと小さな手で叩く。
「……おおかみさん、寝ちゃったの?」
ユッテはしばらく大狼の口元を叩き、摩り、その反応を待ち続けていた。だが、ほんのささやかではあったが、大狼の口元からは僅かな呼吸の音が聞こえてくる。ユッテを包む毛皮にも弾力を感じる。そのことが持つ意味が分からぬながらも本能的に安堵したユッテは、そっと頬を大狼の頬に寄り添わせた。




