赤い手
あの後俺は待合室の長椅子に座り込んでいた。身体中から力が抜けていくのを感じながら椅子に身体を預けて深く脱力する。
長椅子に置いた両手は乾いた血で染まっている。乾いたせいか、指先を動かすとざらりとした違和感を感じた。
指先を見ていると記憶が思い起こされる。
ガーゼ越しでも伝わってくる少女の柔らかい皮膚。ぶちゅぶちゅと音を鳴らす生々しい、肉の感触。彼女の微かな体温。命の鼓動。
俺は右手の指先を見て、あの感覚を忘れられずにいることに気がついた。
人間は所詮ただの肉の塊でしかない。それなのにどうしてこんなにも、儚いのだろうか。
俺は息を吐きながら天井を見つめた。前いた頃よりも汚れている気がする。
待合室の中、虚しく換気扇の音が鳴り響いている。こんな音なんて普段なら気にならないはずなのに嫌に耳に残る感じがした。
まるでその音が映写機が駆動する音のように思えてきて、つられるように記憶が蘇る。
脳裏によぎるのは災禍の出来事。瓦礫の山から伸びる手を突き放し、逃げた記憶。
そんな俺が手を握りしめて、掬いあげるなんて、随分思い上がったものだな。
そんなことを思いながら、もどかしく握ろうとしていた手を解いた。
あまりにも情けない自分に俺は苦笑する。
「考えすぎるのはお前の悪い癖だ」
先生の突然の声に俺は我に帰った。声のする方へ振り返ると、先生が缶コーヒーを放り投げて来るのが見え、俺は咄嗟に両手で受け止めた。
缶コーヒーはまだほのかに冷たくて、表面には結露が浮かんでいてる。その水滴が両手の乾いた血を濡らす。
缶を見るとそこには微糖と書かれていて、俺は眉をひそめた。少しは自分自身を許してやれ、だとかそんなことを先生は暗に言いたいのだろうか。
俺は缶をじっと見つめた後、むっとした。
甘いのは好きじゃなかったし、許せなかったからだ。俺はプルタブに手をかけずに、缶を握りしめたまま、缶の冷たい感触を感じていた。
。
「あの娘はどうなったんですか」
缶を見つめながら俺は尋ねた。
「容体は驚くほどに安定している、さっきまで死にかけだったとは思えないほどぐっすり寝てるよ」
「そうですか」
先生の言葉に俺はほっとした。この時俺は本当の意味で肩の力を下ろしたのかもしれない。貼り付けていた何かが緩んだような感覚がした。
その後はしばらくの沈黙が続いた。お互いが何も喋らずにいる。先生は窓の外に広がる雨景色を眺めている。俺は気まずくて、缶コーヒーを両手の間で転がした。
最初に沈黙を破ったのは先生だ。
「五年ぶりだな」
先生の言葉がグサリと突き刺さる。俺は思わず顔を伏せて床を見つめた。
もうそんなに経つのか、改めて考えると長いなと思った。
俺はあの日、先生と口論の末にこの診療所から逃げ出したんだ。喧嘩の理由は実にくだらないものだった。俺は変わらず、自分の存在意義を求めて、荒れていた。その末に先生に説教をされて今に至るわけだ。
思い出してみるとあまりに青臭くて、顔をさらに伏せずにはいられない。
「ちゃんと飯は食ってるのか?」
先生の声が俺の胸を突く。
俺は生返事をする。
「まあ、適当に食べてます......」
「安定剤の方はちゃんと飲んでるのか?」
先生の言葉に俺は目が泳いだ。
「少しやつれたように見える」
俺はあまりにも先生が心配だといい続けるから、嫌がる子供のように口を開いて
「勘弁してください、俺はもう24ですよ」と言いながら、ごねた。
そして続けて俺は問題ないと言わんばかりに「仕事だってちゃんとしてます」と言った。
しかしこれは嘘だ。診療所を出ていってから、定職についていたが、馴染めず2年ばかりでやめて、それ以降はその日暮らしのような生活をしている。
この街では法執行機関の手が行き届いていない。一部の地域では、放置された建物を勝手に利用して闇市や、営業許可の無い店が営まれている。
俺はそんな場所で、機械工だった経験を活かしてガラクタを作っては卸し、そこで食うのに最低限の金を得て生活をしている。
こんな生活、口が裂けても言える訳がない。
バレてしまえばおそらく「落ちぶれ続けるのも大概にしろ」と言われながらぶん殴られているだろう。そして俺の顔面はピカソの抽象画のように形を変えられてまう。
考えるだけで身震いがしてきた。俺は絶対に内緒にしようと心の中で誓い、それ以上の言葉は唇を噛み締めてるように噤んだ。
俺が必死に取り繕っている間に先生は「もう24か、そうかそうだったな」と少し笑みを含んだ様子で呟いた。
先生の振る舞いに俺は少し心が傷んだ。
しばらくして、先生の表情が変わった。さっきまで緩んでいた顔から切り替えるように、張り詰めた冷静な表情に変わる。
落ち着いた声色で先生が言う。
「あの娘のことで話がある」
治療中に言っていた、彼女に何があったのか聞きたいのだろうか。
俺は顔を上げて先生に相槌を打つ。
続けて先生は「コーヒーを飲んだ後でいいから書斎に来い」と言って、先に歩き出したが、俺は飲む気になれず、ポケットにコーヒーをしまうとすぐに先生の後を追った。