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先生2

 扉が開かれると、気圧の変化で溢れ出てくる空気と一緒に消毒液の匂いが漂ってきた。

 荒んだ街の匂いとは違う、穏やかな空気。

 嗅いだ瞬間、とてつもない安心感を覚えた。ここが実家だからというのもあるが、それ以上に血の匂いと程遠い清潔なものだったからだ。

 何ら変わりない玄関と廊下。診療所に併設されている住宅内を通り抜けて、もう一つの扉を開けるとそこは待合室だった。

 薄暗闇で、非常口のランプが不気味に光っている。

 先生が証明をつけてはいるが、光は弱々しくむしろ余計に暗く感じた。

 ここにはあまり電気が届かないから無理もない。むしろ頑張っている方だろう。

 緑色の長椅子がいくつか並べてある中を通って診察室に入る。

 彼女を寝台にそっと乗せると、枕へドロドロと血が滲んでいくのが見えた。

 血の気がない真っ白になった身体。生気の無い紫色の唇。あらぬ方向にひん曲がった左腕。右肩は薄紫色のぐちゃぐちゃにかき乱された肉が露出していて、白い骨が顔を出していた。

 身体中は傷だらけで、深い切り傷や穿たれた穴があちこちにある。鮮血と酷い汚れにまみれた少女。

 少女に、子供にこんなことがあってはならない凄惨な状態だった。

 あまりにも惨すぎる。

 俺はただ立ち尽くし無力感に苛まれながら項垂れるだけだった。

 診察室の扉が開かれ、先生が中に入ってきた。彼は診療所の前であった時とおなじ服装で、その上から簡易的なビニールガウンに手袋とマスクを身にまとっていた。

 俺は先生の邪魔にならないように後退りをする。

 彼女を見る先生の後ろ姿を見ていると、先生の様子がおかしいことに気がついた。彼女に触れていた手を止めて、固まっている

 しばらくしたあと先生は振り返り、俺の顔を見つめた。マスク越しでも分かった。憐れむような表情をしているのだろう。

 俺は耐えられずに背いた。その先には少女の頭が見える。

 頭頂部がパックリとわれているのが見えた。肉は裂けて、頭皮の裏には頭蓋骨の破片が張り付いている。その奥には真っ黒に固まった血液とも言えない液体が、脳みそのシワに沿って広がっていた。

 この部屋の中は血と消毒液の匂いで充満し、張り詰めている。

 先生のマスクが微かに動いたような気がした。俺は先生が行動を移すのを阻止するように、小さく言う。

 「そんな言葉は求めてない」

 俺はぎゅっと握りこぶしを作った。正論は誰も救わない。人間に必要なのは慰めと同情だ。そしてたとえそれがどんなに意味の無いことでも納得感を感じられる行動。

「忍......」

 先生はただ俺の名を言った。それが先生の唯一できる諭すという行動なんだろう。

 コンクリートの冷たい床に、雫が堕ちた。ベッドから垂れていく赤い血。空気に触れたせいで変化が起き始めている。

 先生は諦めたように元の体制に戻った。

「やってみよう」

 そうだ、それでいい。

 先生は備え付けてある棚から治療に使う道具を取り出してステンレスの台に載せて言った。まず先生が手をつけたのは頭部からだった。止血をすることも無く、傷口を縫い付けている。カチャカチャと道具を扱う金属音。先生が確認するようにつぶやく医療用語。

 部屋の空気は張り詰めている。

 俺にできることは何も無くて、カカシのように立ち尽くした。

 左肩を縫い、包帯を巻いていく。背中には大きなガーゼを貼り付けている。

 先生のしていることは治療ではなかった。

 葬儀に向けて、損傷の激しい遺体を補修する行為。

 先生は真っ直ぐと彼女を見据えたまま語る。

「医者の仕事はな、どんな困難があろうとも救える患者を全力で助けることだ」

 俺は何も答えなかった。

 先生は切り替えて言う。

「そのライトをこっちに近づけてくれ」

 先生の言う通りに、証明を持ち指し示す方へと向けた。その先は片腕だった。肉が露出した場所からは、僅かに滲み出る血しかない。

「わかるだろう。どうにもならないことがあるってことを。無理だと思っても僅かな望みがあるなら挑む」

 肩を縫い、包帯を巻いていく。背中には大きなガーゼを貼り付けている。

 先生のしていることは治療ではなかった葬儀に向けて、損傷の激しい遺体を補修する行為。先生は彼女のことをすっかり諦めていた。

「医者は諦めない。どんな些細な希望でも縋る」先生は続けて言う。

「でもこれは無理だ」

 聞きたくなかった。言うなと言っていたのに先生は言い切った。やめてくれ。

 俺はそんな現実を受け止められない。

 俺は耳を塞いだ。両手でぎゅっと塞ぎ、視界に広がる彼女の姿が、現実が視界に入ってくる。だから目を塞いだ。

 先生が俺の手を握り、現実へと引き物堂とする。だから俺は叫んだ。

「やめてください!」

 でもその叫びは意味をなさずに、引き剥がされ、両肩を掴まれて身体を揺さぶられた。

「いいか忍。人が死ぬっていうのがどんなことなのか忘れた訳じゃないだろう。現実から目を背けるな」

 力強い目付きと、諭すような声が目の前にあった。先生は優しい。だからこそ俺に現実を向いて歩き出してほしいのだろう。

 俺にはできない。今の先生の言葉は俺の心を切り刻むナイフでしかなかった。冷たく、刃は刃こぼれしていて深く深く痛みつけている。

 俺の両肩を握りしめるその手が、絶望の渦から逃げられなくしていた。

 俺の肩は力強く握りしめられて傷んだ。

 先生は振り返り、AEDを取り出す。端末を起動させて、両手に持った機器を擦り合わせる。

 彼女の胸にAEDを当てた後「見ろ」という声と同時に彼女の身体が大きく跳ねた。

 寝台の揺れる音の後にあったのは沈黙。何も起こらなかった。

「分かっただろう」

 先生はもう一度AEDの充電をし、繰り返す。

 「彼女は死んだ」

 俺にはその声が冷酷に聞こえた。

 今度は力強く器具を押し付けた。これでもう終わりだと示すように。

 ドクンッ

 AEDの起動と同時に凄まじい閃光がこの部屋中を支配した。

 あまりにも眩い光に先生は悲鳴をあげ、機器を床に落とした。転げ落ちた機械は弾けたように破損して、あらゆる部品が散乱していた。

 


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