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先生

一向に弱まることのない雨に逆らいながら走った。身体中の衣服が水を吸って走る足を鈍らせる。でもこの足を止める訳には行かなかった。息は絶え絶えで、喉が痛み、肺が避けようとも、背中に背負う少女の後ろ姿を見れば、些細なことに思える。

 彼女は辛そうな表情でうなされたように目を瞑っていた。今にでも死んでしまいそうで、俺は焦った。

「やめてくれよお前はまだ死にたくないんじゃないのか」

 俺の縋る声は彼女に届かなかった。

 地上に堕ちても、翼をもがれても、血を流し続けても生きていた彼女は、ここで終わってしまうのか。

 また俺の目の前で人が死ぬ。見捨てずに手をさし伸ばしてもその身体は冷たくなっていく。意味の無い行い。

 俺は何が正しいのか分からなくなってくる。手を伸ばしても何も変わらないのなら、今ある俺はなんだって言うのだろう。

 俺は酷い焦燥感に苛まれた。助けを求めるように、周辺を見回してみる。しかし周りにあるのは虚ろに立ち並ぶ廃墟だけだった。

 物悲しく崩れ落ちて、窓に一片の光は見えない。俺以外誰もいない街。どこまでも続いている。

 動くことの無い信号機、白線が剥がれ落ち、もやは認識すら危うい横断歩道。

 寂れた遊具のある公園。柱時計の針は微塵も動いていない。どこにも子供の声がない。

 もぬけの殻のコンビニ。棚にはもう何も無い。

 虚無の中、俺はひたすらに走り抜けた。

 走れば走るほど、彼女から流れる血が尾を引いて、雪の中踏みしめた足跡のように続いている。

 景色は変わり、立ち並ぶ建物の背が低くなった。辺にあるのは雑居ビルと高層マンションが入り乱れる住宅街。変わらずここも人気は無く、静寂に包まれていた。

 その汚れた街の中、他の建物と比較にならないくらい、美しい建物があった。

 道路沿いに建つ橙田診療所と書かれた看板が、この雨の中、静かに光を発している。

 この荒廃した街の中で、優しく光るこの看板は、闇の中にぽつりとある篝火のように揺らいでいる。

 酷い動揺の中にいた俺はこの看板を見て、少しだけ冷静さを取り戻した。

 この橙田診療所はこの一帯で唯一稼働している診療所であり、そして俺の養父が営む病院だ。

 駐車場の向こう側に建つ診療所は、壁がタイル状でできていて、真ん中には自動ドアがあって、左右には窓ガラスがある。そしてその上にある屋上。

 少し古臭さを感じる建物だが、この街の中では気にするほどのことでは無い。

 自動ドアの向こう側には休診日と書かれた立て札があった。

「ダメか」

 一瞥したあと俺は振り返って、裏口に向かった。そこには住宅用の玄関と扉があって、インターホンを押した。そのあとすぐにドアノブに手をかけて開けようとしたが閉まっていた。

「なんでこんな時に限っていないんだよ。寝てる訳じゃないよな」

 何度もチャイムを鳴らし続け、ドアノブを一心不乱に回す。

 チャイムを鳴らす度に、ドアの向こう側で微かにチャイムが響いているのが聞こえた。あまりにも虚しい音に俺は愕然とせずには居られなかった。

「先生」「先生!」「いたら出てきてくださいよ!」

 俺は必死に声を張り上げて、何度も扉を叩いた。叩けば叩くほどに手から腕にかけてジンジンと痛みが走る。

 それでも誰も出てくる気配はない。

 俺は少し後ずさったあと思いっきり扉を蹴り上げた。

 雨音の中響き渡る衝撃音。だかあっという間に全ては静寂帰っていく。

「くそぉ」

 俺は扉に手をつけたままずるずると膝を落として言った。地べたに座り込み、咽ぶ。

 あまりにも情けない。あまりにも無情すぎる。

 もう今の俺にできることは地べたで苦しみもがき、背中にいる彼女に許しを乞うことしか出来ない。

 背中にいる彼女の呼吸が浅い。身体も冷たくなっている。

 もう終わりだ。結局のところ苦しいだけだ。諦め尽くした時、地面に落ちる雨の音が濁って聞こえた。

 振り返ると、クタクタになったビニール傘をさす男が立ち尽くしていた。男の右手にはビニール袋があって、コンビニのロゴが刻印されてある。

 俺よりも先に男が声を出した。

「忍か?」

 俺の名前を呼ぶ声。確かめる疑いの声。

 男の姿を見ると俺は一気にめちゃくちゃになった。先生だ。間違いない先生がいる。

 ビニール傘の下、すっかり初老になってしまった先生がいた。前にあった時よりも小皺と白髪が増えている。今じゃ灰色の髪だ。

 コンクリートの段差に雫が落ちる。これは髪から垂れていった雫だ。一生分の涙を出し尽くしたつもりでいるから。

 俺は小さく2回相槌を打った。そして背中の少女を見えるように、身体を斜めにして言った。

「先生、この子を助けてください」

 雨が降り頻る中、先生は傘と袋を投げ捨る。

 そして少女の側に近づいて、彼女を観ていた。

 「何があったんだ」

 先生は困惑した様子だった。ただ俺はどう答えればいいのかわからず愚直に「わからない」と返してしまった。

 先生は少し沈黙をした後に、立ち上がって、急ぐように鍵を開ける。

「診察室に運んでくれ」

 先生が言うのを聞きながら、少女を担いだ。

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