赤い灰燼
顔のほとんどを占めるふたつの眼球の下に、その何倍も大きい裂けた口がある。
唇や、歯茎はなく、顔面から直に生えた歯並びの悪い無数の牙。剣山のような口がヤマアラシの背中を思い起こさた。
降りしきる雨の中、吐き出される白い息と同時に獣が喉を鳴らすような音を化け物が発する。
何かが起こる、そう思った時には、化け物が壁を蹴り上げて、大きく飛びかかってくる姿があった。
一瞬の出来事だ、空を飛ぶ奴の腹を視線で追うと、俺にではなく少女に向かうのが見える。
たった1回の跳躍で俺を飛び越え、彼女を地面になぎ倒し、怪物は上乗りになった。
バシャンと血溜まりが弾けて水しぶきがあがる。
狼のように頬はなく、あるのは大きく裂けた口。がっと大きく開けて、飲み込もうと迫る。
彼女は細く、弱々しい白い腕を突き出すように伸ばして、化け物の顎をぐっと抑えて抵抗をした。少しだけ仰け反らせることができたが、それは虚しい結果で終わることとなる。
化け物は彼女の腕を押し返す。ゆっくりと確実に距離が縮まり、彼女の腕は限界を示すようぷるぷると小刻みに震えたあと、バッキリと、嫌な音がこだました。
もはや彼女には何も出来ない。両腕は使い物にならなくなった。
そもそもあんな異形の化け物に何ができるのだろうか。
彼女は声を震わせ、動揺をする。顔は酷く引き攣り、おどおどとした様子だった。そこにあるのは冷静さを無くした幼い子供の顔。
彼女は背を向け、芋虫のように地べたを這い、血溜まり顔を赤く染める。
この行動があだとなった。
白い翼を化け物に掴まれ、ぐいっと引き戻される。そしてもう片方の手で頭部を握るり締められると少女は再び、顔面ごと地面に叩きつけられた。
化け物は大きな口を広げて彼女の翼へ近ずく。少女は自分が何をされるのか悟った。
愛しく、尊厳のあるものを陵辱されて奪われるのを。
とても耐え難いもので、何にも変えられない。もはや今の少女には抵抗することも抗うことは出来ない。ただ受け入れることしか出来なかった。声を荒らげてやめろと乞うことしか出来ない。
青い瞳に涙が滲み出てくる。水気を帯びた瞳は、より一層宝石のように輝いていて美しい。
化け物は翼の生えた背中の根元にかぶりつく。鋭く尖った牙が深くくい込み、そして怪物は食いちぎった。
背中の皮膚ごとちぎれ、肉や筋肉繊維が張り詰めたゴムのように引き伸ばされて、次々とブチブチと音を鳴らしながらちぎれて行った。
少女から吐き出される慟哭はもはや声にもならない代物だった。吐き出される息が声帯を掠めて、出てきたような噛み締めるような声。
辺りには白い羽根が雪のようにひらりひらとと舞っている。ビルの谷間から吹く風を受けた羽はキラキラと輝いていて幻想的に見えた。だが羽が血溜まりの中へとひらりと落ちていき、みるみると赤く染まっていった。
もう化け物は彼女を襲うことは無くなった。ただひたすらに、食いちぎった翼を貪りくい、その度に羽が舞うだけ。
降りしきる雨と羽の中、彼女は小さく泣いていた。
ビクビクと身体を痙攣させ強ばらせ、喘ぎ声をあげる。
その弱々しい慟哭は響き渡るだけでどこにも伝わることはない。
広大な崩れ落ちた街の中、人と呼べるものはここにしかいなかった。
ただただ虚しく響いている。たとえば廃墟の中で怪我した人間に気づくものはいるだろうか。どこまでも砂と青い空しか続かない砂漠の中で水を求めても届くだろうか。
全ての声は水疱に気する虚しい物だ。
びくびくと体を痙攣させ、地面に横たわる少女の声は冷酷なまでにちっぽけだ。
ビルの谷間、逆光で先は見えない。冷たい風が吹いてる。
僅かに振り絞った声でさえ風でかき消されてしまう。
でも俺は見ていた。聞いていた。このわけのわからない光景を全てこの身体で感じていた。俺にはなにも理解ができなかった。でもこれだけはわかる。俺は今ここで生きながらえていて、目の前には弱々しく転がる少女の姿があるのを。
俺は化け物が翼を喰らっているのを見計らって、彼女の元に近づいた。
嘆き終わり、浅い呼吸を繰り返す少女。彼女は俺に一瞥もくれず、その折れた腕で立ちあがろうとする。
もうその瞳には黒い影はない。あるのは立ちあがろうとする燃えるような輝き。
彼女は何度も転ぶ。その度に水溜まりの汚れた水を浴びる。何度も何度も繰り返す。
たとえ腕を折られても、翼を喰われても、なにがあろうとも。
どうして諦めない。どうしてそこで諦めて死なない。どうして、どうしてだ。俺には理解ができない。
ただただその痛ましいまでに生きることに執着するその姿が、俺の全てを強烈に否定する。
俺はどうやって生きていけばいいんだ。
ばちゃり、彼女は顔ごと水溜りに突っ伏した。ぶくぶくと、水溜りから泡が弾ける。
俺は満身創痍になった彼女を見つめた後、彼女の身体を起こした。身体はあまりにも軽すぎた。拍子抜けしてしまうほどの細い身体と重量。こんなので抗っていたのか。尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
彼女を背中に乗せ、この雨の中を走る。
彼女を助けるつもりなんてない。ましてや助けられるだとかそんなことなんて思っていない。誰かを助けてやろうなんてのか傲慢な考えだ。
ただ俺はもう一度後悔をしたくなかった。それだけのこと。
一人取り残される恐怖からの逃避に過ぎない。
走るたびに水溜りが弾けていく。どこまでも立ち並ぶ高層ビルの壁が俺を見下ろしている。
耳元で彼女の声が聞こえる。
風鈴のように透き通った声。なにをいっているのかはわからない。
その声を聞くたびに東京タワーの記憶が思い起こされた。
わかっている。
あの時の後悔を今ここでやり直すような行い。
今更なににもならない。でもそうすることでしか満たされなかった。