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片腕の少女


 一縷の光も逃さないように、曇天によって覆い尽くされた空の下。荒廃した東京都港区の街は嘆きの雨に晒されている。

 朽ち果てた無数の高層ビルが無尽蔵に立ち並ぶ中、俺は雑居ビルの非常階段を登っていた。

 重たい足で階段を踏みしめる度に、雨音を切り裂くように、冷酷な金属音が鳴り響く。

 その最中、俺は徐に足を止めて、非常階段から見える街の景色にぼんやりと耽った。

 眼前の先にあるのは、無数の高層ビルに飲み込まれるように立ち尽くす東京タワーだった。 

 メインデッキから先はひしゃげた鉄骨が風をうけた草木のようにひんまがっている。先のアンテナ部分は伐採された丸太のように、周りのビルや公園、様々な建物をなぎ倒し、下敷きにして倒れている。

 被害を受けたビル群は、どれもこれも窓ガラスが割れ、時には建物自体がなく、瓦礫の山や跡地だけのもの、一部がかけたり、穿たれたもの、崩れたビルとビルがお互いに寄り添い何とか倒れずにいるものもあった。

 その中にぽつりとひとりでに立ち尽くし、弱々しくもたしかに異彩を放つ東京タワー。

 雲間に差し込む朧気で頼りない光は彼の嘆かわしい姿を照らし出すには十分だった。

 かつて塗られた赤い塗料は剥がれ落ちて、代わりに侵食していった赤い鉄錆が彼を赤く染めあげている。

 蓄積された黒い汚れは追い打ちをかけるように、東京タワーをより物悲しい様相を醸し出させた。

 街はこんなに広大なのに、目の前に見える建物には誰もいない。人々の話し声も、街を行き交う車のエンジンも、そこには人間性が何も無かった。

 左手に持ったビニール袋が風になびかれて、くしゃりと音を鳴らす。あまりにも寂しい音に俺は酷く漠然とした不安感に襲われた。

 不安をかき消すように俺は階段を駆け上がった。

 

 

 東京タワーが崩落したのは12年も前のこと。その崩落は一種の災害のようなもので、瞬く間に周囲の建物が崩れ去り、衝撃波は半径10キロメートルに及んだ。都市機能が麻痺し、大企業の主要ビルも崩壊。多くのエリートたちが命を落とし、日本経済は致命的な打撃を受けた。

 経済不況の中、自殺者が相次いだ。職を失った人々が高層ビルから次々と飛び降り、やけを起こした家族が命を絶つことも多かった。雨の代わりに人間が降り注ぐ「自殺の都」が出来上がった。

 12年経った今も日本経済は停滞し、自殺率は高水準を保ったままだ。かつての加速的な増加は収まったものの、状況は大きく変わっていない。ビルのオーナーたちは自殺による資産価値低下を防ぐため、屋上の扉を壊し、コンクリート壁で封鎖した。

 ただし例外もある。管理の行き届かない建物や、誰からも見放され侵入し放題となった廃墟のような場所だ。

 俺は非常階段を登りきると、屋上へと出る扉を開けた。2週間前にも来たが相変わらず管理がされていない。

 通常ならばせめて施錠くらいはされていてもおかしくはないが、誰もここで自殺をしていないからか、簡単に屋上までたどり着いてしまった。

 屋上を歩き、転落防止のためにある手すりへと向かう。そして手すりを握りしめたあと鼻で息を深く吸って、ゆっくりと吐き尽くした。

 俺は今から自殺をする。

 



 俺はビニール袋から取り出した缶コーヒーを開けると、手に伝わるのは冷たい感覚。少しだけ飲み込んでみたけれど、味は感じられずまるでただの液体のように感じられた。

 苦味はなく、酸味もない。奥深くに潜むコクなど分かるはずもなかった。

 ただ缶コーヒーから漂ってくる香りが、俺に残る人間性を思い起こさせる。

 未だに空虚な毎日に救いを求めしがみついているようだ。

 

 

「もう限界か......」

 まだ中身が残っている缶コーヒーを横に投げ捨る。からんっと音を立てながら転がる缶コーヒー、飲み口から液体が流れて行くのを見送り俺は手すりを握り直した。

 屋上から底に広がる地面を見れば、雨で濡れて真っ黒になったアスファルトが見える。

 ぼんやりと霞んで見えるが、確かにある地面。飛び込めばこの体がどうなるのか想像に難くない。身体中に強い衝撃を受けて、体のどこかが裂けて肉片が飛び散り、遅れるように血が雨と一緒に流れていくだろう。

 心臓が力強く鼓動をし、耳元のすぐそばで鳴り響いているように聞こえてくる。身体が竦んで動けない。カタカタと手が震えて、共鳴するように手すりがふるえている。

 

 東京タワーが崩落した日、俺は災禍の中にいた。瓦礫の山の中、人影は何も見えず、ただただ悲痛な声だけが木霊している。

どこを歩いても血溜まりで、天井にべったりとついた血の雫が垂れる光景。

 

 どこへ逃げても聞こえてくる啜り哭く声、嘆く声。それらがゆっくりと時間が立つたびに途絶えて言った。最終的には、死体で埋め尽くされた静謐な空間だけがそこにはあった。

 生き残った者たちは死体と肉片に埋もれながら、救助を待つことを余儀なくされた。そんな中では体は生きていても、心は蝕まれ、殺されていく。生き残っても心は死に、死んだも同然の状態に突き落とされた。

 俺はそんな生で生き残ってしまった。あのメインデッキの中で、死体の中に埋もれながら、人の体温が無くなっていくのを感じながら。

 どうして俺は生き延びてしまったんだろうか。生き延びるだけの、この命にそれだけの価値があるとは思えない。あの時あの場所で、同じように赤黒い血を流す骸として名を記せば良かった。そうすれば誰にも責められず、むしろ愛ある同情を享受できただろう。

 俺の背中にはあの場所で死んだ無数の屍が張り付いて、待っている。どうしてお前だけが、お前があんなことをしなければ。

 誰も俺の所業を知らない。知らないまま死んで、この世界は破綻した。

 メインデッキの中で生き残った少女の言葉が何度も思い起こされる。

 その命を持って永遠に苦しみ続けろと。俺には死ぬ資格など無い。でもこの世界から逃げるためにあの言葉を無下にする。

 もう罪悪感で眠れない夜を過ごすのは嫌だ。何度でもフラッシュバックするぐしゃぐしゃの死体。

 赤色に染まった手、赤色に染まった東京タワー。

 俺の頭の中はあれ以来めちゃくちゃだ。

 頭の中は罪悪感で埋め尽くされて、何もかもが歪んで見える。全てが灰色で埋め尽くされて、唯一赤色だけが鮮明に、色濃く、鮮やかに見えている。

 目の前に見えるのは、赤い東京タワーだけ。一瞥したあと俺は手すりに足をかけた。ぐっと足に力を込めて、踏み込む。

 何度も心臓の鼓動が諦め悪くなっている。

 もしも救いがあるなら教えて欲しい、自分の罪にどう向き合えばいいのか、彼女の言葉を成就できるのか、この世界から逃げずに済むのか。

 

 その刹那、眼前に人の目が見えた。おかしい、こんなところに目があるはずがない。続けざまに、青い瞳の少女の顔があった。瞬く間にその顔は落下して視界から消えた。

 それは何かにぶつかって、雨音をつんざくように周辺に音を響かせた。さらに主張するように鳴る水が跳ねる音。

 「は?」 


 

 思わず声が出た。

 手すりから足を離し、手すりを握りしめたまま屋上の底へと覗き見る。

 遠くてよく見えないが、ぼんやりと漂う霧の向こう側に、白い服を纏った少女の姿があった。彼女の姿は詳細には見えない。見えるのは少し経った後にじわじわと広がっていく血溜まり。じわり、じわりと広がり雨で溶かされて流れて行った。

 汲みたての水が入った筆洗器に、赤い絵の具だけを纏った筆が浸っているように。

「なんなんだよ、俺を早く死なせてくれよ」

 俺は駆け出した。屋上の扉を音を立てながら開け飛び出して、急ぎ足で非常階段を下っていく。

 息を切らしながらビルの外へと出れば眼前にあったのはやはり少女の骸だった。

 彼女が身にまとった白いワンピースは流血で染まり、血は彼女の周辺に留まらずに、一帯のアスファルトを血で染め上げている。

 降り注ぐ雨水が血を溶かしながら流れ続けていた。

 足元をつたいながら流れる血、彼女の周りには花びらが散ったように肉片が散乱している。

 彼女の短い髪が顔を覆うように張り付いて隠しているが唯一片方だけ遮られておらず、

 その隙間からぼんやりと青い瞳が空を見ていた。

 瞳孔すっかり開ききっていて、そこには生気は感じられい。非常に降り注ぐ雫が瞳に何度も弾けるがピクリとも動かなかった。

 血みどろの歩道と屍、強烈な血の匂いが鼻にこびり付く。

 立ち尽くす俺はぽつりと呟いた。

「同族かよ」

 非情だと思うが、酷く面倒だなと思った。それどころか悶々とした行き場のない怒りすらある。

 せっかく決心したというのに台無しだ。

 一体どこから落ちてきたのだろうか。周囲のビルを仰ぎ見て見るが検討も付かない。

 この辺りのことは知り尽くしている、だからこそあのビルで死のうとしたのだ、それなのに同族がいるなんて予想しなかった。変だなとは思いつつもため息を吐いた。

 

 心の奥底で、誰も見ていないことを願った。もしこれを見られて通報されでもしたら、俺が彼女を突き落とした犯人にされかねないからだ。それは避けたい。どうしたものかと俺は彼女の元に近づき腰を下ろした。

 彼女の肌は現実味が無いほど白かった。温もりは感じられず、無機質なプラスチックのようで生気を感じられない。

 

 これは元来の白さのものか、血の気が引いた死体だからそう感じられるのか。そして俺はひとつ彼女の骸に違和感を覚えた。

 彼女には右肩ごと腕がなかったこと。

 細く血が流れ続ける右肩、白い素肌と、そも内側にある露出した赤い肉。肉の繊維が引き伸ばされ、花束のようにパックリと広がっている。そして突き出た白い骨。へし折られ砕けた骨が槍のように鋭利に尖っている。割るのを失敗した割り箸のようだった。

 この状態をどう表せばいいのかわからない。浮かんだのは食いちぎられてしまったという言葉。

 そんなことあるわけがない。俺は自分の言葉を疑った。ぶるぶると頭を振って払拭しようとしたが、どうにもこびりついて離れない。

 異様な光景。突然降ってきた少女、そして食いちぎられたような肩。

 色んな疑問が次々と浮かび上がっては、ありえないと自分に言い聞かせる。

 落ち着こうと思い唾を飲み込んだその時、ぎょろり、青い瞳が突然動き出して俺を確実に捉えていた。

 俺は驚きのあまり仰け反り尻もちをついた。血溜まりが跳ね返り、ズボンを濡らす。

 ありえない、少女の目が俺を捉えている。俺の目を疑った。何かの幻覚かと思った。何かの錯覚だと思った。

 しかしアレは現実だと俺に突きつけるように身体を動き出した。片腕だけで身体を起こし、倒れそうになりながらも立ち上がったのだ。

 当惑した。どこのビルから飛び降りたのかは分からない、俺が知っている限り生き延びれるような高さのビルは知らない。

 周囲が血まみれになるほどの出血を彼女はしている。生き残れるとは思えない。彼女は腕を欠損し、体のあちこちは砕け散りあちこちに散っている。

 俺は逃げ出すように尻もちをつきながら引き下がった。本当なら立ち上がって逃げ出したかったけれど足に力が入らずままならなかった。

 俺が恐れている?死のうとしているのに

 今更生にしがみついて何になる。

 少女の動きはぎこちなく動いている。血溜まりの中、一歩だけ踏みしめると、空を仰ぐように伸びをした。身体を美しく仰け反らせると、突然片手を胸にあてがいながら苦しみ出す。

 か細いながらも発せられる嗚咽。

 白い何かが背中を貫きながら生えてくる。やがて生え尽くしたそれは、少女の小柄な身体の中にあったとは思えないほど大きく、拡がっている。

 薄暗闇の中を照らすように光を帯びたそれは、大きな翼だった。たった一翼しか無かったが、翼の先が空に向かって力強く生えていた。

 俺はそれのあまりの美しさに恐怖を忘れ、息を飲んだ。

 目に見える全ては時が止まったように静止して、雨粒が空中を留まり雨音は聞こえない。

 優しく吹き頬をなぞる風はなく、全てが凪いでいる。今この瞬間だけは永遠のように感じた。

 水気を帯びた翼は、雫を払う様にバタバタと激しくはためいている。鳥が必死に抗うような、それとも路傍で死にそうになっている虫の最後と姿を重ねてしまう。

 ふと彼女と目が合ったような気がした。

 美しい青い瞳は、ビー玉のようで、わずか光でもダイヤモンドのように乱反射して煌めいている。見つめているだけで吸い込まれそうで、思わず手をさし伸ばしてしまうような魅力がそこにあった。

 でも気がついてしまった。その瞳は俺を見据えているのではなかったということに。

 酷く悲しくなった。彼女の姿が荒んでしまった俺を救いに来た天使のように見えたからだ。

 俺を助けてくれる訳じゃない。じゃあ彼女はその青い瞳で何を見つめているのだろう。

 俺は振り返った。

 彼女は俺を見つめている?[#「?」は縦中横] 違う、彼女の視線の先は俺の背後にある。

 俺は恐る恐る振り返ると、視界の先に、縦並びにふたつの球体があるのが見えた。

 薄暗闇の中揺蕩う何か。目をこらすとぼんやりと輪郭が浮かび上がってくる。

 何かが蜘蛛のように壁に張り付いている。球体が2回明滅を繰り返したことで、それがギラギラと輝く目だということに気がついた。

 ぺたり、ぺたりと壁を這う何かは人型で、近づいてくるたびに全容か見えてくる。

 まず見えたのは、指先と爪が一体化した鋭利な手。壁に爪を突き立てて器用に壁を這う。

 壁を這う腕は薄いピンク色で、血管の赤い筋が浮かび上がっているのが見える。

 不気味に浮かび上がる瞳は、うっすらと光っていて、闇の中をかいくぐり奴の顔が現れた。

 化け物がいる。


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