プロローグ【オーグメントの少女 】
診療所は酷い静寂に包まれていた。窓から見える外様子は啜り泣くような雨が降りしきり、窓に着いた雫が、曇天の弱々しい光により床に雫の影を作っている。
雨の重苦しい空気の中に、消毒液の匂いと、
鼻にこびりつくような金属の匂いが漂う。
今この空間は凪いでいる池のように穏やかだった。しかしその空気は目の前にいる少女から流れ落ちた汗によって、動き始める。
ビー玉のように煌めく碧眼が冷たく俺を見つめていた。
俺を床になぎ倒し、馬乗りになっている少女には、右腕がなく、ただ細く弱々しい左腕があるだけ。
彼女は左手に握りしめたメスを俺の喉元に突き立てていた。
「動くな」
メスと同じように冷たく、感情を押し殺したような声。幼さが残る声のそこにある冷たさが、この空間をさらに強く張り詰めさせた。
俺は彼女の言う通り動かなかった。というよりも彼女の美しい眼に惹き付けられ飲み込まれていた。
「ここはどこ」
短い言葉だった。感情を押し殺した声のそこに何か動揺のようなものを感じる。それを裏付けるかのように彼女の瞳孔が揺らいでいるのが見えた。
「診療所だよ」
俺は細く言葉を返す。
「しん......りょうじょ」
彼女は言葉を辿たどしく言葉を繰り返す。喉元に突き立てられた切っ先がぷるぷると震えている。その様子は彼女の混乱がましたことを物語っていた。
「あなたは、だれ」
彼女の言葉は単語と単語を繋ぎ合わせたような、ぎこちないものだった。まるで幼い子供のようにも思えたが、機械的な喋り方で、合理性だけを突き詰めた印象を感じる。
俺はただ静かに答えた。
「一色忍だ」
「それがあなたの名前」
彼女は確認するように言う。身分証と書類の名前を見比べるような淡々とした確認作業。
「嘘を言う理由はない」
彼女はただ何も言わず、動かずじっと俺を見据えている。
「俺は名乗ったぞ、お前の方こそ名乗ったらどうだ」
彼女は俺から視線を逸らす。一瞬だけ考えを巡らせた後、再び視線を戻した。
その後の彼女の言葉はあまりに淡々としていた。
「オーグメンテッド・バイタリティ・コンストラクト420」
義務的な口調だった。機械的で、冷たさすら感じない。学習をした機械が言葉を言うだけの様子は、マリオネットが口を動かす光景を思い起こさせる。
「そんなのが名前だって?」
俺は眉を顰めた。人間を番号で呼ぶなんて囚人みたいだ。しかも彼女は幼い子供だ。
「私に与えられた認識番号、それ以外に必要はない」
彼女はなんの疑問もなく、当たり前のように淡々としている。その表情に感情は何も無い。
「他に呼ばれてることは無いのかよ」
俺が尋ねると彼女の瞳が一瞬揺らいだのが見えた。彼女は少しだけ顔を伏せながら口を開いた。
「ほかのオーグメントからはノイジーと呼ばれている」
「ノイジー?」
俺は聞き返した。
「意味は目障りな奴らしい」
彼女はじっと俺を見つめながらいう。彼女の表情は硬直したままだった。
あんまりな呼び名に俺はため息を吐きながら呟いた。
「酷い名前だな」
俺の言葉に彼女は何かを感じ取る。それと同時に左手に力が入った。俺の首筋にメスがくい込んで、チリチリとした痛みと同時に、赤い血がなぞり落ちるよう床にこぼれていった。
俺は彼女の青い瞳を見つめる。俺にはない強い、生きようとする純粋な思いがそこにはあった。
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