02 『先生』
どさ……という音とともに父親は前に倒れた。後頭部からは血が。真っ赤な血が。俺は父親に近づいて、彼の身体を揺さぶった。彼は起きなかった。だんだんと体温が失われていくものだから、ああ、これが死なんだと知った。
こんなにも簡単に、殺せてしまうんだと。人は死んでしまうんだと。理解してしまった。
だけど、父親を殺したところで何も変わらなかった。冷蔵庫には大量の酒と、そのつまみしかなかった。それでも食べないよりかはましで、冷蔵庫をあさり、いつ開けたかもわからないつまみを食べた。嫌いな匂いと癖の強いゲソやらチーズやらをかきこんで、咳き込み、むせ、結局は吐いてしまう。
いえば地獄絵図だった。
父親の死体を見ても大して別に何も思わなかったが、これからの生活はどうなるのだろうと、そんな先の見えない不安に珍しく刈られていた。元から、死ぬか、最も先の見えない生活をしていた為今更何だろうが、それがふと父親を殺したことでのしかかってきた。
「……今、夜……」
確かこの時はまだ小学校低学年ぐらいだった。
普通なんて無くて、何が普通かも分からなかった。
そして、何も分からないまま俺は人を殺した。おさないながらに。
これからどうやって生きていけば良いんだろう。何も分からなかった。目に見えていた灰色の汚い世界は、一瞬にして真っ暗になった。先も見えなければ、足下さえ見えない、分からない。
「とりあえず……外」
とにかくここから離れなければならない。そんな気がして、俺は玄関に向かい、ドアノブを捻ればすぐに扉は開いた。逃げようと思えば逃げられたのに、俺がそうしなかったのは、外もどうせここと変わらないと思ったからだ。
何日、何ヶ月、何年、いやもう分らないけれどぶりの外だった。アパート暮らしだったらしい俺は、とりあえず隣の住民を起こさないようにと鉄製の階段をゆっくり通り街灯が多い大通りへ出る。空を見上げれば白い星が転々と真っ暗な空を照らしていた。
星に見とれていると、ふと後ろに何者かの視線を感じた。振返ればそこに黒いフードをかぶった、声からして男の人が立っていた。いつの間に。アパートの住民だろうかと、俺はその人をじっと見つめていた。
「おうおう、怖い目だな」
「……目、怖い」
男は、軽くそう言うと両手をひらひらと振った。
父親にも言われた言葉だった。目。目が反抗的だと。目が気にくわないと。そんなつもりはないのに、多分母親か父親か…の遺伝で、目つきが悪いのだろう。一度かが見てみてみたが、つり上がっているような不機嫌そうな顔をしているんだ。
男は、「おい、ボウズ聞いてるか?」と俺の周りをぐるぐると回る。ポケットから飴を取り出すなり、食べるかとも聞いてきた。俺は、何て言えば良いのかどう受け答えれば良いのか分からず口を半開きにして男を見ていると、男はフードを脱いでみせた。
「ああ、俺と同じか」
「おなじ?」
月明かりで照らされた男の顔には、何かできられたような不快切り傷がついていた。髪は真っ白で、でも所々黒が混ざっている綺麗とは言えない髪色をしていた。
「なあ、ボウズ名前は?」
「……」
「質問しているんだ。名前は?」
「…すずが、みね、あず…ゆみ」
「鈴ヶ嶺梓弓?」
男は俺の名前を聞き、そして口にするとあっているかとでもいうように目を向けてきた。
名前なんか聞いて如何するんだと俺は男を見つめ返した。そんな風に、見つめ合っていると男はいきなり大声で笑い出した。
俺はそんな男を不振がるように見たが、怒らなかった。
そうして、ふと俺は気になり、男が肩に提げていた黒い長細い鞄を指さした。それに惹かれたのはもしかしたら運命だったかもしれない。
「ああ、これか気になるか?」
「……いや、別に」
「梓弓、お前帰る場所あんのか?」
「無いですが」
「そうか、じゃあ明日の暮らしは?」
「……知らないです」
男はさっきのテンションとは打って変わって冷静な顔で、トーンで俺に聞いてきた。
帰る場所? 明日の暮らし? そんなものは知らない。
人を殺した悪い人間は警察に捕まって一生監獄で過ごすんだ。地獄を抜け出したところで、地獄が続いているだけだ。
男は少し考えるような素振りを見せ、それから思いっきり手を叩いた。
「だが、まあお前は人殺しが悪いことだって知っている、それに後悔や悲しむことが出来るんだから、お前は悪い奴じゃねぇよ、梓弓」
そういうと、男は俺の頭をワシャワシャと撫でた。嬉しそうに笑うその人を見ていると、何故だか自然と頬が緩んだ。
初対面のはずなのにどこか懐かしくて、どこか温かい気持ちになる。先ほど人を殺したと自覚し、心の中でもう戻れないと悟ったのに。
そう思って男を見ると、男は手を止め俺を見た。
「でもな!俺は悪い奴だから、お前を救う方法がわかんねえ!明日の暮らしとか居場所とか与えられねえ!でも、もし汚くても生きていきたいって思うんなら俺についてこい。日の当たらない場所でも息はできる」
「……どういう」
何となく察していたのかも知れない。
人殺しが表にたって何かできるわけないと。光の世界とはほど遠いところにいると。
でも、男は止めようとしてくれたし選択肢だってくれていた。けど、明るい道なんてないと思ったし、分からなかった。暗い道しか知らない。道という道が見えないそんな世界しか知らないから、俺は男の手を取るしかなかった。
俺は、男を見上げた。男はニッと笑う。
「俺は、狙撃手だ。依頼を受けて人を撃ち殺して生きている人間だ。なあ、梓弓。お前にその覚悟が、こっちの世界で生きる覚悟があるんだったら俺はお前に生き方を教えてやる。汚い生き方だ。それでも、這い蹲ってでも蹴落としてでもいきたいなら…」
「いきたい。分からない、俺は、知らない、世界を、綺麗な空も、道も、わかんない、から」
もし、此の男についていったら世界を、明るい世界と道を知ることがいつかできるのだろうか。その道を世界を探すヒントを得ることは出来るのだろうか。
たとえ汚い道であろうと、道で。走り続ければいつか、見えてくるだろう道もあるのではないか。
「そう、そうか。じゃあ」
と、男は来ていたフード付きの黒いパーカーを俺に着せて手を差し出した。
「今日から、俺はお前の人生の『先生』だ」
「…せん、せい」
「教えるのはクソほど下手だが、お前を導いてやるよ」
そう、これが、俺と先生の出会いであり、人生の第1の転機になった。