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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

波間に栞を挟んで

「ねえ、海に行かない?」


そう言って地べたに座ったまま見上げるメイアの顔に、白っぽい太陽がくっきりとスイの影を映す。


ある冬の寒い日、スイの世界は終わった。

街の研究者達が生み出したウイルスは、ひとたび外に流出すると、名前を付けられるよりも早く街中に広がり、大勢の命を奪った。

街の外に出ようとする人はほとんどいなかった。

感染していない人はいないと誰もが思っていたし、外に出られても待っているのは良くて迫害である。

案外穏やかに、街はその呼吸を止めていった。

閉ざされた世界の中、待つまでもなく終わりは来る。そのはずだった。


家族を看取り、独り食料を探して歩く中で、スイはメイアと出会った。

ひとりぼっち同士だったふたりが一緒に生活することに、躊躇う理由は無い。

「どうせ死ぬなら、誰かといたい」

だが、そんなスイの思いを揶揄うかのように季節は過ぎ行き、夏が来た。


空が天色に輝き、遠くのアスファルトがゆらゆらと揺れる昼過ぎ、メイアはスイに小旅行を提案してきた。

突然の提案に一瞬返事に詰まったが、反対するわけも無い。

「じゃあ、出発は明日で」

メイアはそう言って嬉しそうに笑った。

必要以上に外に出たりすることは長らく無かった。思っていたよりも持て余してしまったこの人生、どうせなら、とメイアが思うのも分かる。

いつしか死を待つために生きるようになっていた。きっとこれからは、違う生き方をしてもいいのだろう。


次の日の朝、嘘みたいに青く晴れた空の下でふたりは、住処を離れた。

海に行ったら、ここに帰って来なくたっていいのかもしれない。

なんとなくそう思って、スイはあまり無い持ち物を詰めた帆布のカバンを肩にかけながら住処の方を振り返る。

ふたりはホテルのロビーを住処にしていた。街の中にある利便さは勿論、今までは遠い場所だった憧れの高級ホテルに住まう、というワクワクも少なからずふたりをここに引き止める理由の1つだった。

「私たち、ここで暮らしてたんだ」

思わずつぶやくと、並んで歩いていたメイアもまた、スイを見て後ろを振り返る。

「そうだよ。ここを離れたって、ふたりは、一緒だよ」

その言葉の意味がよく分からないまま、

「そうだね。一緒」

と返す。メイアははにかんだように微笑むと、うん、と小さく頷いた。


海まではそこまで遠くないようで、ゆっくり2時間ぐらい歩いていると、次第に風が潮の匂いを運んでくるようになった。

「ここで休憩にしようか」

ベンチのある公園を見つけてスイが言うと、メイアは嬉しそうにした。

カバンに入れていた缶詰を開けて、ふたりで分け合う。桃の缶詰はふたりのお気に入りで、大切に取ってあった最後の1個だった。

「なんだろう、ちょっともったいない気がする」

「いいんだよ、せっかくのお出かけなんだから」

シロップに浸かった白い果実は、今にも溶けそうに缶の中で揺れていた。

1個が2分の1になっているそれをスイはフォークで器用にもう半分に割って、隣で待ちきれなそうに覗き込んでいたメイアに差し出す。

「ん〜、おいしい!」

脚をベンチから浮かせてぱたぱたと動かしながら、美味しそうに桃を頬張るメイアを横目に、スイも白い果実を口に放り込んだ。

見た目よりしっかりとした食感と、桃と砂糖の甘さが口に広がり、思わず顔が綻ぶ。


「あは、スイ、めっちゃ美味しそうに食べるねえ」


いつの間にか咀嚼を終えていたメイアがスイを見て言う。そう言われると少し恥ずかしいような気がして、顔を引き締めようと思わず俯いた。

そんなスイの思いもつゆ知らず、メイアは下から顔を覗き込む。

メイアのコバルトの目と視線がぶつかる。目が離せなくなってお互い動けないまま数秒が経った後、ほぼ同時に吹き出した。

顔をあげて改めて目を合わせ、また笑う。何が面白いのかもよく分からないまま、ふたりは酸欠で顔が真っ赤になるまで笑った。

ようやく落ち着いた頃、残ったもう半分を大事に大事に食べ、ふたりはまた歩き始めた。


「ねえスイ、私どこかで聞いたことがあるんだ。人が忘れられていく時、最期に残るのはその人の匂いの記憶なんだって」

メイアは言った。

「もしも今私が死んだら、君に残るのはこの潮の匂いかもね」

海風が、今までよりもずっとはっきりとした海の匂いと、波音をつれてくる。

海まであと、1歩。

立ち竦むスイを置いて、メイアは歩く。

「いつか全部なくなっちゃうのに私、どうして生きているんだろう」

ほとんど真上に登った太陽が、スイに向き直ったメイアの輪郭をぼやかす。

銀の髪は風に舞い上がって、向こうの青を透かす。

泡沫より白いその肌が、驚く程に脆そうで、何よりも美しいと思った。

「きれいだよ」

「なに、それ」

困ったような顔をしてメイアは笑って、スイの汗ばんだ右手を握った。握り返すと、火照った体の熱が伝わってくる気がした。

海なんてもう、ほとんどどうでもよかった。

ここから先の記憶はあまり無い。レースみたいな白波と、お互いに染み付いた海の匂い。

沈むオレンジ色が海面を鏡にその身を映す頃、スイは今日の寝床にしようと入った家のベットの上で眠りに落ちていた。


翌朝、隣にメイアの姿は無かった。


"君をつれてはいけない

海に、波間に私の声を見つけて"


メモパッドに、ボールペンで殴り書きされた書置きだけが残っていた。

自分の心臓の音が煩い。

考えるよりも先に足は外へ向かった。息を切らしながら砂浜へたどり着き、名前を呼ぶ。

「メイア!」

濤声だけが響き、スイの叫びをかき消していく。

この世界でひとつの命を背負うにはきっと、メイアの心は優しすぎた。海に行こうと誘ったあの時からずっと、そうするつもりだったのだろう。

それなら、そうだとするなら。一緒にいようと言ったのは、なんだったのか。

裏切られたような気持ちで砂の上に座り込む。

ふと、手に握りしめたままにしていた書置きのことを思い出した。

" 君をつれてはいけない"

あまりにも腑に落ちてしまった。

「ばか。貴女となら、どこへだって私はいくよ、ねえ」

涙が、とめどなく頬を伝い落ちる。

昨日、もしもメイアが私の手を引いていたなら。彼女はきっとそうするつもりだったはずだ。

さざなみが胸を通り過ぎる度に、メイアの声が、顔が頭に浮かぶ。

誰が、誰が忘れるものか。貴女の全部を、私はこの海と一緒にずっと覚えていよう。だから。

「貴女もそこにいてよ、メイア」


私の世界は終わった。

多分、夏ももう終わるだろう。

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