五章 燃え尽きたもの、燃え残ったもの(1)
遅くなりました。その上でまた分割です。多分次回で一区切りする……予定、です。
――二人の道行きからここで一度、時を巻き戻し、所を移す。
ヘリテにとっての悲劇の夜から空けて二日目の昼。すっかり燃え崩れて残骸と化したインフェルム湖岸伯の屋敷跡を、一人歩き回る者がいた。
灰色のマントはフードを下ろし、歩き回る男の剥き出しの素顔を晒している。とはいえ特徴と言えば顎の高さで切り揃えた黒髪と、糸のように細い目つきくらいのもの。顔の造作は彫りが浅くのっぺりとして、まだ若者の域だろうと言う程度にしか年齢をも覚らせてくれない。
男は柔らかく落ち着いた声で、繰り返し同じフレーズを口にしていた。ただの呟きでも歌でもない、神へと祈る祈祷文である。
「……遠ざかりし遙かなる創世の矛と慈悲を尊び敬い、太陽の剣、月の大鎌、黒天の槍の威と恩に限りなき感謝を捧げん……」
男はアッシャー=ダストと呼ばれている。ただし、本名では無い。
作戦任務用の暗号名を兼ねるが、ほぼ私生活の存在しない男にとっては本名よりも馴染深い……というより、十年以上呼ばれても名乗ってもいない本名の方が、もはや偽名のように感じるほどだ。
ただ、この名には暗号名以前に諡としての意味があった。諡とは要するところ称号や尊称の類いである。ただし、本来は死後に贈られるか、そうでなければ生前に贈られた上で死後に呼ばれる呼び名だ。その諡を、アッシャーはまだ存命の内から使っている。
アッシャー=ダストはインフェルム伯家を討滅した神殿騎士団において二人しかいない副団長の任に着いている。今回派遣された神殿騎士43名の中では文句なしの最高位であり、部隊の現場指揮官を務める身だ。
そのアッシャーが只一人で屋敷跡を廻っている。
戦場跡で自軍のもたらした破壊の余韻に浸っている、ようには見えない。人間は風景に浸る時は高みから見渡すものだ。足元や物陰を一々細かく覗き込むような事はしない。
表情からの判断はつかない。簡素な面のような相貌からは、何の感情も読み取れないからだ。あえてそこからすくい上げるとすれば、網にかかるのは朴訥さと神妙さだろうか。
有り体に言えば、顔だけならそもそも騎士にも見えない男だ。むしろ騎士では無く神官と言えばまだ納得しやすいだろう
そんなアッシャーが引き続き己が主神たるディスクティトラに小声で祈りを捧げながら、焼け跡で何かを探していた。
「……我が身は土、我が血は水、我が息は風、我が心は火、人の律法は雷の下に、我が言の葉は創世の矛より零れし滴なれば。我が終焉は水と土に、我が永劫は風と雷に、我が魂は火と共に在りて、時至らば迷わず天に還らん……」
死神ディスクティトラは夜神ナクトの従属神であり、妹に当たる神格である。同時に太陽神ソラスの娘という言い伝えもあるが、ナクトの方が一般的に闇神ディアルマから分かたれた娘分とされており、食い違いが生じている。とはいえ神々の系譜ではよくある事なので、厳密な解釈を求めるのは一部の神学者達だけであったが。
ちなみにアッシャーの解釈としては、多分どっちも正しいのだろう、程度のおおらかなものである。そもそも神々の血縁関係というか、生殖行為というものがよく分かっていないのだ。親が一人だったり二人だったり三人だったり、時には何も無いところから現れる。真面目に考えれば考えるほどドツボにはまるというものである。
アッシャーの思うに、要するに死という権能のせいで発生した関係性なのだ。暗闇も太陽もそれぞれに異なる形で死に結びつく。強すぎる闇にも光にも、人間という脆弱な存在は耐えられない。
「おっと、ここにも」
不意に屈み込んだアッシャーが積み上がった瓦礫から灰を払い除けると、柱の破片と思われる木材に簡略化した『掌に乗った心臓』の紋章が現れる。邪神の一柱、吸血神キヤルゴの秘印だ。
アッシャーは腰に差していた身の分厚い短剣を引き抜くと、邪悪な紋章の上に素早く深い×の字を刻んだ。完全に削り取らずとも、しっかりとした否定を刻む事でも力ある象徴としての効果はほぼ消し去ることができる。
インフェルム伯家の所業と繁栄がある以上、これらの邪悪な印は見方によっては邪神の加護を発揮した、という謂われを得てしまっている。この手の謂われは魔術的に後々禍根を残しかねない。綺麗に焼き尽くせれば良かったが、大抵そうは上手くいかないのものだ。アッシャーとしては無関係の人間が要らぬ悲劇に巻き込まれないように、可能な限り処分しておきたかった。
「業の深いことですねぇ、全く」
アッシャーが溜息混じりに呟いた。
溜息の対象はインフェルム伯である。歴代の当主の中でも、当代は栄華の盛りにあったはずだが、それでも飽き足らず邪教に手を出して破滅した。だが、多くを得た者ほどさらに多くを求めることもまた、世の常ではある。
あるいは多くを得た者ほど、失う事への恐れもまた深まるのかもしれない。
中道とか分を知るとか言う言葉は結局、実践が難しいからこそ言葉になって残っているだろうとアッシャーは感慨にふける。何せ文字で見ていると当たり前のように見えるというか、とても地味だ。
同時に、自らの主神たるディスクティトラが禁欲的と言われ、今一つ一般大衆の受けが悪いのもこの辺りに端を発するのかもなぁ、などと他人事のように思ったりもした。
「……遠ざかりし遙かなる創世の矛と慈悲を尊び敬い、太陽の剣、月の大鎌、黒天の槍の威と恩に限りなき感謝を捧げん……」
歩き回っている殆どの時間、アッシャーは祈りの言葉を口にし続けている。
この冒頭の祈りは、秩序の神々への祈りではよく共有されるものだ。一般的に選択される主神の代表たる六大神――火神アイゼン、水神ヴェランナ、地神エステル、風神トーラス、雷神イルス、夜神ナクト――の、更に上位におわすとされる三天神――太陽神ソラス、月神ヘイレン、闇神ディアルマ――へと捧げられる感謝の祈り。
アッシャーを含む神殿騎士達が奉ずる神の立ち位置はと言えば、六大神の夜神ナクトに付き従う従属神に当たる。
死神ディスクティトラは人の寿命の最大値――天命を量る神とされ、人は生きるべく生き死ぬべくして死ぬ事にこそ平穏有りと説いている。生は死をもって完結するものであり、死の無い生は虚無と混沌に至る道でしかない、とも。またその上で贅沢や無用な殺生も戒めている。自らの命を思うなら他者の命にも思いを巡らせるべし、という教義なのだ。また物への執着についても慎みを求めている。
故に死神は人の生死を歪め無辜の命を奪う者として不死者、亜不死者、そして悪魔と魔神に対し否定的であり、信徒もまた主神に倣って積極的に討滅する方針を掲げている。これらの無限者は際限なく自分以外の命を搾取しがちだ。定命を持たない者は有限者の儚さを理解できないか、いつの間にか自分も有限の者であった事も忘れてしまうのだろう。
そんな死神教会にとって目下最大の敵とは、五大邪神とその信徒たる深淵教徒達だ。
五大邪神とは強力な力をつけた上で人族の信奉者を一定数得た事により、神格を保持するに至った大悪魔達を差す。五柱の内訳は暴虐神モーグ、不死神パストー、報復神ザナエル、吸血神キヤルゴ、獣智神シュムビル。中でもパストーとキヤルゴは自らにすがる者を気紛れに、それぞれ不死者と亜不死者に転化するため、死神教会には殊更に敵対視されている。
「……むぅ?」
何処か茫洋と彷徨くような歩き方をしていたアッシャーが、不意に首を廻らせ、足早に歩き始めた。
瓦礫の只中から、何かがうごめく気配を感じたからだ。
屋敷の中央、玄関から二階へと上がる大階段が合った場所の片隅に、気配の主が居た。アッシャーからすると“在った”とか“遺っていた”という表現になるが。
「ア、アァ……」
恐らくは、騎士団の襲撃に驚いて階段の影に隠れたまま、火事から逃げ遅れた侍女の一人だったのだろう。
赤黒く焼け焦げた人の上半身を象ったものが、乾いた板をへらで擦るような声を発しながら、爪のない指で灰の積もった地面を掻いていた。
無論、人が生きていられるような損傷では無い。そもそも既に生きてはいない。
それは不死者と呼ばれる存在になりつつある、動く死体。眠り損ねた死霊。より細かい分類としては自らの死に場所に縫い止められた地縛霊と言えるか。
「タス……ケテ……」
「おやおや」
からからに乾いたうめき声の中に、かすかに言葉の破片のようなものが残っていた。だが、その欠片には文字通りの意味は残っていない事を、アッシャーは知っている。
知った上で、彼女を焼いた火を放つよう指示した男は跪き、足掻くその両手を取った。
取り上げた瞬間に、真っ黒に焦げた指がアッシャーの手の平に食い込んだ。必死を越えて、人の限界を遙かに上回る握力は、あまりの強さに掴んだ側の指が枯れ枝のような音を立てて折れる程だった。
死への拒絶。生への渇望。そして既に死んでいるが故の限界の消滅。生きていた頃には決して出せなかった力を、不死者は際限なく発揮できる。
当然、掴まれた側の手も無事なはずは無い。はずは無いのに、アッシャーは涼しい顔で掴まれるに任せていた。
「タス、ケ……」
「随分頑張りましたねぇ、苦しかったんでしょうねぇ……こんなになって、まぁ。おまけに運が悪かったですねぇ、パストーに声が聞こえちゃうなんて」
不死神パストーは自分に祈る者に不死への道を開く邪神だ。キヤルゴと違うのは、死者を死者のまま活動出来る形で世界に留める事。既に死んでいるが故に、彼等は決して死なない。不死者の活動を止めるのは完全な消滅か、完全な忘却か、あるいは活動に必要な熱量を失った後に訪れる、再び起こされるまでの間の眠りだけ。
つまり、他の死者と全く同じだ。
「もう大丈夫ですよぅ、僕がここに居ますからねぇ」
「ア……」
耳も鼻も、髪の毛すら残っていない頭部に、アッシャーは怯む素振りも無く自らの額を触れさせた。決して力を込めて押しつけはしない。そんな事をすれば首がもげてしまう。不死者も起こされた死霊も、等しく自分の死には気付いていない。いや、自立的に活動している限りは気付けない。思い出せばその苦痛と恐怖に耐えられず、例外なく錯乱してしまうからだ。
だからこれ以上人の形を損なわないように支えながら、アッシャーは届くかも定かでは無い言葉を紡ぎ続ける
「疲れたでしょう、少しおやすみなさい。貴方が眠れるまで、このまま手を握ってますからねぇ」
そう言ってそのままの姿勢で慰霊の祈りを口にする。自分の憶えている限りで、もっとも易しい祈祷文を選んだ。彼女が何歳で死んだのか、今の状態から判断する事はもはや難しいからからである。
……裳裾の上に、頭を垂れよ
白菊の冠受け取るために
膝を濡らすを畏れるなかれ
花の朝露零れる事の、何の罪深き事のあろう……
祈りとともぴたりと死霊の動きが止まる。両目の有った場所に空いた虚ろから、さらさらと何かがこぼれ落ちた。涙のはずはない。遺体からは高温によって一切の水分が飛んでいる。残っているのは頭蓋の中で蒸し焼きになった灰でしかない。
黒ずんだ色の灰は流れ出る程に段々と色を薄めていく。やがてはアッシャーを掴んでいた炭色の指先も残らず白き灰と化し、跡形も無く地と風に溶けていった。
執着と共に力を手放し、一体の死霊が過ぎ去った時間の底で眠りについたのを見送って、アッシャーは頭と膝に付着した灰を払い落としながら立ち上がる。
「……貴方の声がパストーに届いたのは、貴方も恐らくこの家の正体を知っていたからでしょう。邪神の中でも、パストーとキヤルゴは縁が繋がり易いですからねぇ。なので僕は貴方に謝りませんが……貴方がここで亡くなった事だけはずっと憶えていますよ。それだけは、死神の鎌に誓いましょう」
まるで古い友人の墓を見舞うような、明るく乾いた語調。そこには何の気負いも負い目も感じられなかった。