表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
小さな聖女は血に誓う  作者: 功刀 烏近
74/74

終章 慈悲深き夜の首飾り

 『魔族の都(ミディアン)』、ガンガルゴナ。

 ゼオラ南部最大の人口を抱える都市にして、かってゼオラを支配せし魔王セイタンねぐら

 鳥瞰ちょうかんによって見下ろせば、都市の威容は巨大な溝のような堀で囲まれた、三重さんじゅうの円を描いている。

 円は外側から数えて、下級市街、上級市街、魔王城まおうじょうの三層を仕切ったものだ。

 ただし魔王城は正確には城跡じょうせき、つまり城であった頃の原型を止めていない。地上部分は半分以上更地となっており、崩壊を逃れた幾つかの尖塔や倉庫は現在のガンガルゴナを自治する行政府ぎょうせいふに市役所として利用されている。自治と言ってもその母体は魔王統治時代から存在した六大神の神殿であり、結果として教会経由で他国から影響を受ける事は避けられないのが実情ではあった。

 ただし、その中でも異彩を放つ神殿が一つだけ存在する。

 魔王城跡の中央を移設される形で陣取じんどふさぐ、夜神ナクトの神殿である。

 かって魔王城本殿【永閃落ゲランフェン】の座していた座標を占める巨大かつ簡素な石造建築は、意図的な継ぎ接ぎで作ったドレスを纏うように、その周辺に無数の色とりどりの天幕テントはべらせている。

 天幕テントの正体は全て難民の保護施設だ。ありとあらゆる人種、職業の人間がそこで迎え入れられ、財産の有無に関わらず最低限の生存と生活を保証される。無論一定の制約はある。だが人族や魔族に課されるのは共同生活に必要なルールと一部の軽労働などで、さほど過酷なものでは無い。

 夜神ナクトは秩序の神々きっての慈悲深き女神であり、ナクト神殿ガンガルゴナ分殿は彼女の意志を代行せんと果て無き慈善活動に邁進まいしんする組織だ。

 ――無論、神殿の力の及ぶ範囲と限度の内側で、だが。


 元々ガンガルゴナでも最大規模を誇ったナクト神殿は、今やカーナガル最北の国家イオニア山水連邦に座する大神殿以上の規模に成長している。その裁量権についてもほぼ同等とされ、ガンガルゴナ、果てはゼオラ全体でも最も強い発言力を持つ組織の一つに数えられていた。

 この強大な神殿をべる神殿長ハリル=マルガは、しかし一見してごく普通の柔和で物静かな中年女性そのものであり、とてもではないが強大な権力を手中に収めているようには見えない。

 事実、儀式の場になおヘリテの選択に再考を求める時も、やや下向きに垂れた目許は儚く悲しげで、うっすらと濡れてすらいた。


「……ヘリテ様、まだ間に合います。思い直す気はありませんか?」


 二人が居る場所は元魔王城の地下階層。かっては魔王があまたの悍ましき儀式魔術を行なった場所であり、儀式の成果として生み出された無数の怪物達を閉じ込めてきた牢獄でもある。その広さは地上に見える魔王城の敷地を上回り、一部では上級市街の半ばまで食い込んでいた。

 ただし二人がいるのは魔王城跡の中央、現在のナクト神殿の真下である。ある意味ではガンガルゴナの真の中枢とも言える場所は、暗く細長い部屋だった。地下故に窓も無く、出入り口も一カ所しかない。床も壁も灰色がかった白い石のブロックで敷き詰められた室内にはベンチの一つも存在しない。あるのは部屋の中央を縦断する、艶のない黒の毛氈もうせんだけだ。

 にも関わらず、この部屋は礼拝場れいはいじょうとして使われている。

 それも、このナクト神殿ガンガルゴナ分殿において、最も重要にして機密というべき儀式を執り行うための。

 灯りすら無い室内は真っ暗なはずが、目が慣れればぼんやりと室内を見渡せる程度の明るさを感じられる。四方の石壁が、極めて弱い光を放っているからだった。

 ヘリテの五感でなら殆ど真昼と変わらない。だから少し離れて向かい合うハリル神殿長の悲しげな表情ははっきりと見えていた。

 二人は毛氈の上に靴を脱いで座り込んでいる。下手のヘリテの背後には扉、上手のハリルの後にはただ石壁があるだけだ。夜神の聖印すら描かれていない。

 まるで玄室げんしつのような空間で、ハリルはまだヘリテの説得を諦めてはいなかった。


「貴女は吸血鬼でありながら死神の声を聞き取った。その高潔さと理性は人々に十分な信頼を勝ち取って余り在ります。実年齢はまだ成人に満たないあなたが、今この時全ての未来を賭ける試練に挑む必要は無いでしょう。全ての無理解には私が壁となり間に入ります。だから、どうか……」

「ありがとうございます、神殿長」


 親身という域を超えたハリルの厚情こうじょうにヘリテは感謝を示した上で、やんわりと断った。


「ですが、もう決めました。どうしても、私には夜神への誓約が必要なのです」

「あぁ……」


 ヘリテの固い決意の前に、うれいに満ちた深い溜息と共にハリルは大粒の涙をこぼす。


「貴女のような子供を見る度に、心が潰れそうになります。志の尊さを喜ぶ以上に、世界の冷酷さに嫌気が差します。子供から笑顔どころか涙すらも取り上げる世界に、一体何の意味があるのでしょうか」

「ハリル様、神殿長……お優しい方。貴女はきっと、もうご存じかと思います」


 子供が無理矢理にでも大人になるしかない世界に嘆くハリルを、ヘリテが優しく諭す。実年齢でも立場においても本来は逆であるべき関係性を、咎める者は今この場にはいなかった。


「意味など無くても、人は、命は生まれてくるものです。それがどれほど素晴らしい事であるのかも。そして子供も大人も、一人の人間であるという事には違いありません」


 あくまで毅然きぜんと振る舞うヘリテには泣き落としも通じぬと諦めて、ハリルはようやく躊躇ためらいがちに涙を拭って居住まいを正した。

 ――ハリル=マルガの強さは彼女が巨大な権力を握る神殿長であると同時にか弱い一人の女であり、大勢の子をいだく母親であり、強力な法術を行使し得る大神官であるという事。そしてその全てに自覚的であるという事だった。

 大勢の無辜の人々、特に子供達を守りたいという個人的な欲望――守れる事自体が大切であり、そこに何の大義も彼女は見出していない。見出す必要性すら感じていない――のために、自分の弱さも強さとして躊躇ちゅうちょ無く利用する柔らかくしたたかな戦い方を、意識的に行えるのだ。

 ハリルが自分にとって最大級の尊敬に値する大人であり、見事過ぎる手本である事を、出会ってまだ三日という短時間でヘリテは理解していた。

 ハリルからすれば、ヘリテには後五年はそんな考えを抱いて欲しくはなかったのだが。


「……一度術式が成立すれば、私にも解除は出来ません。それこそ夜神自身か、より高位の神格にしか曲げられぬ事です。本当に、よろしいのですね」

「構いません。お願いします」


 最期の同意を受けてハリルが両手を胸の前で組み、静かに響く声で長い祈祷文きとうもんの詠唱を始めた。詠唱の内容は夜神への誓約の読み上げでもあり、ヘリテが合わせて三度同意する事によって術式が成立する。

 二人の祈りに合わせて、儀式の成否せいひを見守るべく参列者達が姿を現した。

 黒い毛氈の左右に無数と錯覚するほど長く整然と居並ぶ彼等は、その裸足はだしを床には着けずに浮遊している。

 並んでいるのは死霊レスター……聖霊ホーリースピリットだ。純白の僧衣をまとう彼等の背格好、性別は様々だが、全員に一つの共通点がある。

 首の根元から上が綺麗さっぱりと消失している事だ。

 誓約術式〈慈悲深き夜の首飾りマーシフル・ナイトチョーカー〉。

 術式が担保たんぽする誓約の絶対性は何のことはない、術式を受けた者が聖霊の監視対象になるという機能的な事実によるものだった。

 聖霊は被術者から一時も離れる事は無く、被術者を攻撃する者に警告を与える。攻撃が続けば聖霊は反撃を許す。だがそれ以外の場合で被術者が二つの禁則のうちどちらかを破った場合、術式は即座に刃となって被術者の首と胴を切り離し、絶命させる。無論この術式による切断は決して治癒しない。どれほど強力な治癒法術であっても、吸血鬼の無尽の再生力でも、決して。

 そして違反した者は誓約に従い、その最期の姿を死霊として残し、術式に協力する聖霊の列に自らも加わる事になる。

 禁則の一つ目は許し無く人界の法律を破る事。ここで言う法律は雷神イルスの神殿で策定された五大国全てで共有される基本法を指す。無論命の危機にあって自分の身を守る行為は法によって許される。が、被術者が聖霊の許可無く反撃する事は許されない。

 二つ目は、一つ目の範囲外、つまり法律に定められない行為によって他者から奪う事。奪うものは有形無形に関係ない。また強奪に限らず、落とし物を拾って掠める、あるいは消費する事でも引っかかる。吸血鬼で言えば、誰かが地面に零した血を誰の許しも無く舐め取るだけでも禁則を犯した事になる。

 どちらも本人の自覚は重要視されない。全ての判断は誓約の規範を焼き付けられた聖霊によって客観的に行われる。

 あまりにも厳しく苛烈ないましめ。しかし逆に言えば、夜神ナクトはこれほど厳格な誓約であっても、人が全うする事を可能と信じているのだ。

 人が神に祈るように、神もまた人に祈る。だが両者の視座は異なる。

 夜神の慈悲とは無邪気な人への祈り、残酷なまでに純粋な人の可能性への信頼によって成り立つものだった。




「それでも多分、私は二年を大きく越えて生き延びるでしょう。無論絶対とは言い切れませんが……思った以上に不安を感じられなくて、自分でも驚いています」


 儀式を追えた次の日の夜。まだ客人として割り当てられた寝室に、ヘリテとクゥエルは居た。二人がガンガルゴナに到着したのが四日前。アッシャーとの対決からはそろそろ三週間が経とうとしていた。二週間余りの旅路にも小さな事件は幾つもあったが、それでも旅路の全てを見渡してみれば、平穏で順調な旅路だった。

 ガンガルゴナに到着したその日に二人はナクト神殿でハリルと直々の面会が叶った。もう少し手間取るかと思っていたヘリテにとっては若干拍子抜けだったが、後から聞けば何者かがディスクティトラ神殿を経由して、ヘリテに関する申し入れを入れてくれていたのだと言う。そのおかげで、ナクト神殿での受け入れ態勢は既に整っていた。

 なお、当のディスクティトラ神殿ガンガルゴナ分殿は極めて規模が小さい。そのせいでヘリテは死神の神官でありながら吸血鬼用の宿坊を今後もナクト神殿に間借りする事になっている。

 地下に設けられた専用の部屋も明日には準備が整うという事で、ヘリテは地上での当分最期の夜を堪能たんのうするように備え付けの小さなテラスで夜風を浴びながら、クゥエルと今後について会話していた。

 今現在ヘリテの細い首元には黒く複雑に滲んだような線の紋様がぐるりと廻っている。〈慈悲深き夜の首飾り〉、その象徴たる刻印ブランドだ。刺青のように見えるこの刻印が、ヘリテが誓約を破った時にはヘリテの首を切断する一本の切線せっせんに集約する。

 この恐るべき印に触れて、なお自分はこの試練を乗り越えられるだろうとヘリテはクゥエルに語る。

 自分は本来の吸血鬼とは違う、例外的な存在だからと。


「私のようなものは、本来発生するはずが無いのかもしれません。邪神に祈り叶えられる者は、精神の在り方から邪神に同調する者しかいないはずですから。……例外があるとすれば転化した後に何らかの強い切っ掛けを得て改心するか、私のように事故的に転化した者くらいでしょう」


 ヘリテが誓約を受け入れたのは自分が生きるため、前者のように後から人として生きる事を選ぶ亜不死者の一助いちじょになるためだった。

 例え不死を望んで得たとしても、生きている間に永遠にむ者も有り得るだろう。永劫の孤独を嘆く者もいるだろう。

 心から悔い改めたその時に示される道が無ければ、かえっていたずらに世界そのものを憎悪する怪物が生まれるだけだ。

 秩序の神々が実在するカーナガルにおいて、信仰が無力であってはいけなかった。

 だからヘリテは、そのような者達が進むべき道を見つけるための標になる事に決めたのだ。

 方向性としては逆だが、ある意味ではアッシャーの生き方に倣ったとも言える。

 過去の罪から逃げず悔い改める道が険しくとも、その先に立って手を差し伸べる者がいるなら、やがては後に人は続くと信じて。

 そう言って、ヘリテはガンガルゴナの夜景から、室内に控えるクゥエルへと視線を向ける。まるでしつらえたかのように、クゥエルは一本の蝋燭だけが照らす暗く質素な部屋に調和していた。


「……本来なら、私とて吸血鬼になる事は有り得なかったでしょう。何も起きないか、精々無理矢理キヤルゴの声を聞かされた挙げ句に理性無き怪物になるのが関の山。……クゥエル。あなたが私に説明した内容が事実であったのなら」


 ほぼ万全と言っていい状態のクゥエルからは、動揺の気配はない。

 それでも、ヘリテは静かに告げる。

 最期に、二人だけで答え合わせをしておきましょう、と。

 お互いの、これからの選択のためにも。


「あの夜、駆け付けたあなたは、間に合わなかった、と言いました。あれこそが真実だったのです。……逆だったのでしょう。最初から父様も母様も、自分たちの転化のためではなく、私に不死を与えるために吸血神キヤルゴに祈ったのです。いえ、契約したと言うべきでしょうか」


 つまり厳密にはインフェルム夫妻は深淵教徒では無かったとヘリテは考えている。

 二人には深淵教徒、それも吸血神キヤルゴを心から信仰するための素質が十分にあったとは思えなかった。

 吸血鬼ヴァンパイアは本来、真の深淵教徒の中でも選りすぐりの邪悪な敬虔けいけんさを持つ者にしか転化を許されないはずなのだ。でなければ不完全な屍食鬼グールばかりが多く生まれるはずもない。


「父様も母様も、二人とも私同様キヤルゴの声を聞くほど身勝手になれる人格ではなかった。だから出来たのは、キヤルゴを本来の在り方……混沌より飛来した高次存在――悪魔デヴィルとして扱い、生贄を初めとする対価を捧げる事で願いを叶える事でした。実質的には悪魔召喚術式デヴィルサモニングに近い儀式魔術によって、私を永遠の存在――吸血鬼に転化させようとした。私に何も伝えないままに」


 ヘリテは生まれながらに病弱だった。子を為せないだけでなく、恐らくはそのままでは長くは生きられないと二人は思っていた、あるいは何らかの確信があったのだろう。そうヘリテ自身が考えている。

 でなくては、二人が手を汚す必要は無かったはずだから。

 全てはインフェルム家直系の最期の一人となるであろう、ヘリテを永遠とわに長らえるために。

 アッシャーが言及していなかった以上、事前に降霊尋問に対する対策も取っていたのだろう。間違ってもヘリテが罪に問われぬよう、全ての動機は自分たちの利己的な欲望だったと見せかけるための、万全な準備をしていたはずである。

 同時に他の深淵教徒アビシスト達にも儀式への協力だけ求め、最期まで自分たちの真意を告げなかった。彼等もまた隠れ蓑だったのだ。夫妻が深淵教徒を酸鼻極まる饗宴きょうえんで歓待したのは、自分たちの意図を彼等の欲望に紛れさせるためのものだった。

 インフェルム夫妻の準備とその隠蔽は、ほぼ完璧と言っていいものだったのだろう。

 さもなくば、クゥエルが見逃したはずもない。


「だからこそ、クゥエル。あなたもまた勘違いしたまま、二人の真意に直前まで気付いていなかったのですね。そして自分たちを吸血鬼に転化させるための儀式であれば素質も対価も足らず、確実に失敗すると見積もっていた。……放っておいて自滅させる事で、私を出来る限り関与させずに影神教会の執行者エンフォーサーとして任務を達成するつもりだったのでしょう」


 クゥエルは何も言わない。肯定も、否定もしなかった。

 だがその顔の無表情は何処か力なく、覚悟と諦めから来る静けさを漂わせていた。


「だから直前で気付いたあなたは、慌てて二人を自分の手で殺害し、儀式を止めようとして、しかし間に合わなかった。……それでも本来なら、儀式を一方的に成立させるのは困難だったはずです。ですが貴方が殺した二人が結果的に生贄の列に加えられて儀式の強度が増し、そして何よりも運悪く、私は屋敷の火事によって死に瀕して恐れ戦き、心の底から生存を願う最中だった……これを、事故と言わずして何と言いましょうか」


 そう、クゥエルは儀式の妨害に失敗した。

 自らが選んだ結果でヘリテが生贄に捧げられる事を防げたなら、決して『間に合わなかった』という言葉はクゥエルの口からは出てこない。

 ヘリテがクゥエルという執事を心から信用してきたからこそ、到達した結論だった。


「全て知った上で、あなたは真実を私に告げなかった。惨劇と多くの死の原因が、そもそも私のために生じたものである事実を隠すために」

「お嬢様、私は」

「クゥエル。あなたに罪があるように、私にもまた罪があります」


 思い詰めたクゥエルが何かを口にするのを遮って、ヘリテは言葉を続けた。

 常ならば人の言葉に自分の言葉を重ねるような事をヘリテはしない。

 明らかに、クゥエルに何も言わせないための行動だった。


「全ての真相を知って、父様と母様が多くの無辜の命を勝手な理由で摘み取った事を理解した上で……それでもまだ私は二人を両親として愛し、また娘として愛されていたと感じている事です」


 ヘリテの口にした言葉は、真意から出たものだ。

 多くの犠牲を、頼んだわけでも無くヘリテの為に費やした。事前に知ったならヘリテはそれこそ自害してでも止めただろう。両親も恐らくヘリテが決して受け入れないだろう事を分かっていたはずだ。

 だからこそ両親は何も伝えず、一方的に事を進めた。

 明らかに畏れ多く身勝手なその行いを、それでもヘリテは愛だと認めた。

 他の何かと認められなかった。


「例え二人の愛が呪いであったとしても、その呪いとそのために犯した罪の半分は私が背負います。……私は生涯、その呪いを愛と呼ぶでしょうから」


 口にした言葉の壮絶さとは裏腹に、ヘリテの顔に浮かぶ表情は穏やかだった。


「……もし叶うなら、クゥエル。もしこれからも私に仕えてくれるというのなら、あなたに一つお願いがあります」


 途中から視線を伏せていたクゥエルが、願いという言葉に反応し顔を上げる。


「私は結局、本来の寿命を越えて生きる事になりますが、生まれ持った体質自体は変わっていません。何よりこの身は信仰に捧げましたもの。結婚出来ない以上、我が子を抱く事などとても望めないでしょう」


 そこで一度言葉を切って、ヘリテはクゥエルを見つめる。

 不思議な目だった。深い深い水底みなぞこのような、穏やかさの中に凍るような冷たさを湛えた眼差し。氷よりも冷たい水は、しかし凍らずに瑠璃るりさかずきの中で揺蕩たゆたっていた。


「だから、もしあなたが結婚して、奥様との間に子供が出来たなら……一度でいいですから、その子をこの手に抱かせてくださいませ」


 一瞬、クゥエルの呼吸が止まるのをヘリテの目が捕らえる。

 捕らえた上で一切揺れる事無く、その事実を受け止め、放流する。

 二呼吸の後、クゥエルは一礼と共に冷静な声で答える。そのむしろ冷静に過ぎる声は、まるで消えかけの死霊レスターのように平坦で、そして何処か安堵しているようでもあった。


「……確かに、確約の出来るお話ではございませんが……御意とあらば、善処させていただきます」

「はい。その答えで十分です」


 返事を受け入れたヘリテの微笑は、何時もの柔らかく暖かいものに戻っている。


 こうしてヘリテは自分の幼い憧憬しょうけい慕情ぼじょうに、自ら罰を下した。

 これからも自分と共にあるであろう、消えぬ罪の証人と同時に。




 ――ヘリテの考えは実際のところ、大分甘い見通しだったと言える。

 人類史に永遠に残る事になった彼女の名は、ヘリテ=インフェルム=テスタルテ。

 【誓血の聖女マゼンダ・テスタロッサ】、猟犬達の女王、南極の夜を統べる者、竜返し(ドラゴンリバーサー)など、数多の名を贈られた麗しき大吸血鬼。

 同じ〈慈悲深き夜の首飾り〉を受け入れた亜不死者や元深淵教徒、禁呪使いを初めとする重犯罪者達の群れを、海の如く深き慈愛と慈悲を以て統べ、導き、その恐怖と愛慕、忠誠と狂信を一身に受けた地下社会の愛らしき首領シャフト

 そして人族との平和的な共生を掲げた魔族と異賊の混成集団【共存派サードパーティ】の名高き始祖として。

 ガンガルゴナの地下における活動期間は三百年とも四百年とも言われて定かでは無い。

 その最期すら、長き生による狂気の果てに神殿騎士の手にかかったとも、巨大な黒犬に跨がって遠くへと去ったとも、【根の国(ルートランド)】へと降って地の底の女王として君臨したとも、どれもおとぎ話の範疇を出ない有様だ。

 だが何代にも渡って常に彼女に影のように付き従った、名も無き執事の一族について語る記録は、ごく僅かしか残っていない。



 終わり

ここまで長く不器用な物語に付き合っていただき、誠にありがとうございます。

一応この話はここで終わりなのですが、続編のような案も幾つかあるので、もし以下に読みたそうなタイトルがございましたら番号を感想ででもお伝えいただけると幸いです。


①小さな聖女は灰を撒く~二年越しの里帰り編、湖岸都市インフェルムの影~

②事件屋執事クゥエルの憂鬱~忌々しき嫁探しの始まり~

③教導騎士アッシャー=ダストの苦難~新人研修は実務実戦二人旅~

④その他(ハギルの息子の一人立ちの話とか、他なんでも。これだけ具体例いただきたく)









結局、私は最初から最後まで「生きたい」と叫びたいだけでした。

何度目かのうつと健常の往復の後、希死念慮の住み着いた脳みその後ろから「死ね、早く死ね」と囁かれる度に、誘惑と抵抗の間で身を捩じる日々を過ごしています。

それでも本を読めている時と書けている時だけは、声を忘れる事が出来ました。

今は誰の役にも立たぬこの身も、きっと生きる事自体に何か意味があるのだと、それを自ら投げ打ってはならないと、そう信じたかったのです。

だから物心ついて以来、ずっと心の片隅にあった「祈り」について話を書きました。

多分、これからもいつも何処かで「祈り」を考え続けながら、書き続けると思います。

もし何処かの書店でその祈りが皆様の目に留まるなら、それ以上の喜びはございません。

その時はまた、お目汚しをお許しください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ