九章 小さな聖女は血に誓う(26)
ヘリテが身を引くと同時に、力尽きたようにアッシャーがその場に項垂れた。
もはや喋ることすら難しそうな姿を静かに見下ろした後、ヘリテは掴んでいた手をようやく放し、深く溜息を吐く。
言った内容には何の悔いも無い。だが、ヘリテの苦しみはヘリテにしか分からないように、アッシャーにもアッシャーだけの苦労が無数にあったであろう事は想像がつく。
その一切を無視してアッシャーの心情を蹂躙した事については、罪悪感を感じられずにはいなかった。
だとしても、アッシャーの心に付いた傷を癒やすのは、自ら正論の刃を振るったヘリテに出来ることは無いのも確かだった。
だからより相応しい相手に任せる事にした。
「……後は、お任せできますか」
「……こちらこそ、身内が大変なお手数をおかけしました」
森の中から六人の人影が姿を現す。一人を除いた全員が、ぼろぼろになる前のアッシャーとよく似た鎧に身を包んでいる。肩口に刻印された死神の聖印まで同じだ。
ヘリテに答えたのは、一人だけ長衣の上から部分鎧を来た長髪の男――神官にして死霊魔術士、ガルズその人である。
――実を言えば、ヘリテが森の中で出会った少女を預けたのは彼等だ。
強化された五感でアッシャーとクゥエルの戦闘を察知したヘリテは、しかし少女を森に置いてきぼりにする事も出来ず、途方に暮れていた。仕方なく近くまで連れて行こうとしたところで、隠形用の術式を解除したガルズ達が姿を現し、少女の保護を申し出たのだ。
ヘリテも一瞬警戒するものの、先にガルズが自分達の目的を明かした上で、少女の安全をディスクティトラの名にかけて誓約したため、任せる事にした。
彼等は一度拠点とする神殿に報告を入れた後、新たな使命を帯びて必要最低限の人数だけが引き返していたのだ。使命の内容はアッシャーの監視と、可能であれば拠点たる神殿への送還。無理な場合は終末兵器【灰燼剣】だけでも回収する手はずになっていた。
無理な場合とは要するにアッシャーが死亡した場合である。どちらにしろ、ガルズ達も所属するディスクティトラ神殿もアッシャーの五体無事は想定していなかった。力による強制がアッシャー相手に通用しない事は、彼等が最もよく理解していたからだ。
その意味では、ガルズ達は結果的に思いつく限り最良の結果を手にした事になる。
それも、ヘリテに全ての苦労を押しつけた上で。
「お前ら……恥ずかしくないんですかぃ。ずっと高みの見物と洒落込んでやがって、今頃のこのこと……」
故に、肩を貸して自分を立ち上がらせたガルズに対するアッシャーの声が恨みがましいものになったのも、仕方のない事だろう。
これでアッシャー達の神殿はヘリテに対して大きすぎる借りが出来た事になる。支援する事はあっても、邪魔をする事は組織として金輪際出来なくなった。
神殿の背景組織である教会は必ずしも現場主義の神殿と足並みを揃える訳ではないが、ヘリテの件に関しては沈黙するはずだった。実在する神を仰ぐ集団として、自らその威信に泥を塗る事は許されない。ヘリテが神官となった以上は尚更である。
「我々も分は弁えています。……彼女の存在が破格過ぎるとも言えますが」
「……ちっ。悔しいが、その点は同意しますよぅ。あの娘は、僕等が束になっても敵わんでしょうねぇ……桁が、違う」
ガルズの言葉に、不承不承アッシャーは同意した。
「しっかし……【灰燼剣】を取り戻しに来たのなら、反逆のかどで途中で割り込みゃもっと手っ取り早く済んだでしょうに。ここまで借りを作らずにも済んだ」
「何か勘違いされているようですが、終末兵器の回収は最低条件です……忘れないうちに、こちらをお返ししておきます」
そう言ってやや乱暴な手つきでアッシャーの首にかけられたのは、神殿に返却したはずの聖印だった。
ややあって、自分がまだ破門されていない事実を飲み込んだアッシャーは渋面を作ってぼやく。
「……馬鹿な事を。これじゃ示しがつかんでしょうが」
対するガルズの言葉は、アッシャーの不平からは大分逸れたものだった。
「誰よりも深く激しく不死者と深淵教徒を憎悪しながら、貴方は私を疎んじも軽んじもした事が無い」
「……有用かつ必要だからというだけです。それに、死霊魔術そのものは不死者を生み出す物では無い。使い手が邪道か、事故を許すほどの未熟か、そのどっちかだ。……ガルズ、お前はどっちでもないでしょう」
「そう言えるのは貴方が徹底して理性的だからですよ……それと同じ事です。やはり、我々にも貴方はまだ必要だ」
アッシャーはますます眉間の皺を深くする。
だが、反論を口にはしなかった。
沈黙を了解と取って、ガルズが言葉を続ける。
「それと騎士団長より伝言です。『命令違反並び独断による単独行動のかどで、一先ず無期限で本部詰めに異動とする。溜めていた休暇も合わせて謹慎中に消費しろ』との事」
「はっ、今まで散々こき使っておいて、よく言う……」
小さく吐き捨てながら、アッシャーは大人しく部下の肩を借りたまま集落を立ち去ろうとして、ふと空がもう菫から茜へと色を変えている事に気付く。
そして振り返って、想像通りの光景に小さく唇を曲げた後、隣の副官を軽く引っ張って静止させて言った。
その時の顔は何時もの仮面の笑みよりも、少しだけ悪戯っぽかったと、後にガルズに指摘される事になる。
「……被疑者護送用の聖別紗、ありますかねぇ……?」
アッシャーを見送った後、ヘリテは急いでクゥエルの元に駆け付けた。
魔術は修復は得意だが治療には向いていない。応急処置のまま魔術を行使したクゥエルはどうにか命に別状こそないものの、とても動ける状態ではなかった。
旅の中何度も浮かべた泣き出しそうな表情を、クゥエルは眩しそうに眺めていた。だがふとした瞬間に、とんでもない非常事態に気付いて瞠目する。
【灰燼剣】を抜いたアッシャーのように、ヘリテの肩や髪の毛が小さく煙を上げ始めたのだ。
勿論原因は違う。
長い夜がついに明けて、徐々に朝日が昇ってきたためだ。
本来は激痛が伴うはずだが、半分人間に戻ったヘリテの感じる苦痛は以前とは雲泥の差。おまけにクゥエルという目の前の重傷者を癒やす事に頭がいっぱいで、自分の事にまで頭が回っていなかった。
「お嬢様……っ!?」
だが苦痛が軽くなったからと言って、無論無事に済む訳も無い。燃え尽きるまでの時間が延びただけだ。咄嗟の事に、遮蔽用の結界術式よりも先に思わず警告の声が出かかる。
万全のクゥエルなら起きなかっただろう。彼の自認する執事としては無様な失態だ。
だがそこへ、綺麗に畳まれた一枚の布が投げ込まれる。
咄嗟に受け取ったクゥエルが出所を見れば、そこには億劫そうに大剣を背負い直したアッシャーの姿があった。
「……割と高級な日除けだ。餞別代わりにくれてやるから、はよ被せておやんなさぃ」
それだけ言って立ち去り――損ねて千鳥足でよろめいて、慌てて両側から部下達に支えられる羽目になる。それでもどうにか、朝日を背にして歩いていった。
後ろ姿を一瞬複雑な顔で見やった後、気を取り直してクゥエルは受け取った布を急いで、かつ念入りに確認する。ここに来て流石に罠が仕込まれている可能性は低かったが、それでもノーチェックであの男の持ち物をヘリテに触れさせる事は、クゥエルには耐えられなかった。
魔術的にも薬物その他の仕掛けについても問題が無い事を確認した上で、アッシャーはヘリテの頭に広げた布をそっと被せた。
布は細かい刺繍の入った純白のヴェールだった。その正体は日光など弱点を持つ種族を護送する際に使用する、保護のための術式が織り込まれた魔道具である。被っている限りは半日程度、日光やそれに準じる光の影響を受けないで済む。欠点は再利用できるとはいえ消耗品である事、そしてすこぶる貴重な高級品であり、クゥエルと言えども入手困難な非売品である事。
ヘリテはと言えば、ヴェールの下できょとんとした表情を浮かべた後に、徐々にその頬を恥ずかしげに赤く染めていく。布を被せられるまで、自分が朝日に焼かれている事にまるで気付いていなかったのだ。
やがてクゥエルの治療が終わってヘリテも落ち着くと、頭から胸元までを覆うヴェールを興味深く眺める余裕が出てきた。自分で被る角度を繰り返し調整した後、不意にクゥエルを見上げて楽しげに小さく笑い出す。
怪訝な顔になるクゥエルに、悪戯っぽくヘリテが笑いかけた。
「結婚式で花嫁の方が被るヴェールも、こんな風に素敵なものなんでしょうか」
「……申し訳ございません、お嬢様。一般的な式次第については記憶しておりますが、実際に儀式中の花嫁を視認した事がありませぬ故、比較検証は困難かと」
「あら、残念です」
懐かしさすら覚えるクゥエルの憮然とした表情に笑みを深くしながら、ヘリテはヴェールを透かして、再び目にする事は無いと思っていた暁の光を眺めた。
夜空の端が徐々に青く薄まって、やがて全てが余さず赫々(あかあか)と焼き尽くされる、美しく儚い空の一瞬。
「お嫁さん、ちょっと憧れていたんですけどね、私」
遠く、眩い輝きに細めた眼差しの隅で、ほんの僅かな透明の滴が静かに輝いていた。




