九章 小さな聖女は血に誓う(25)
ヘリテはようやく自分の中で言葉になった答えを口にする事が出来た。
狂信者とは、己の中の信仰、あるいは考え方に固執し、その矛盾や間違いを認めずに暴走する者を示す言葉である。
殉教者は違う。教えの正しさを信じて示すために、己の身を投げ打つ者の事だ。
アッシャーは最初から、自分もまた間違える者である自覚があった。その上で、自分の外にある正しさに正される事を受け入れようとした。
ただ、問題はその受け入れ方に固執した事だった。
対してアッシャーは嫌そうな顔をして、ヘリテの結論を否定しようとする。
「殉教は聖人の領分だ。僕はそんな大層なものじゃない。ただの首切り役人……あるいはその手の刀に過ぎませんよぅ」
「だったらあなたは間違えていません。間違いを悔いる事もありません。それはただの機能で、選択ではありませんから」
刃物は間違えない。触れた物が切れるだけだ。切る相手を選ぶような自由は無い。自由が無いから、選択の責任も無い。
首切り役人は裁判官ではない。ただ法の裁きに従い、定められた刑を執行するだけだ。もしも法を疑い判決に疑いの声を上げた時、そこにいるのは首切り役人という役割を越えた、判断し選択する一人の人間だ。
首切り役人という一つの無機質な役割は、結局のところ刃物と同じ機能に過ぎない。
「あなたは自分が間違ったと考えている。だから断罪としての死を求めている」
「結果として、ですよぅ。過ちが過ちのまま許されては、秩序が成り立たない。僕はただ為した事について責任を取るだけです」
「だから、その責任の取り方が間違っていると言っているんです!」
ここまで穏やかだったヘリテの声に、怒気が宿る。
だがアッシャーは、その怒りを皮肉げな目で眺めて言った。
「言ったでしょう。僕ぁ散々殺しました。その中に罪無き者が居たなら、僕がのうのうと生きている事を許せるはずがないでしょうが」
「死者は誰も恨まず、また誰も許しません。……あなたの方がよく知っているはずです、ディスクティトラに使える神官の先達として」
死神の教義に従うなら、死者とは完成した存在だ。
完成しているという事は、もはや変わらないと言うことだ。
死してなお怒り、嘆き、憎む事に固執する者が行き着くのが、不死者である。
逆に言えば、不死者以外の死者は怒らず、嘆かず、憎まない。
ただそこに在るだけだ。かって在りし事を証すために。
「何より、あなたは同じくらい、いえそれ以上に、大勢の人を救ってきたのでしょう」
「それは……それこそ、誰にも分かりようの無い事ですよぅ、ヘリテ嬢」
「でも確かにいます。私自身それを知っています……あなたが駆け付けてくれなかったら、この村の憐れな少女や大勢の村人はきっと、悲惨な死から逃れられなかった」
「……」
「そんなあなたが自らの行いを理由に死を選んだら、あなたに救われた人や、これから救われるかもしれない人はどうなるのですか。あなたを死なせた罪を、その人達にも負わせる気ですか!」
「……僕一人にどこまでを求める気ですか、お前は!」
たまりかねたようにアッシャーが怒鳴る。
だがその剣幕に負けず、ヘリテも答えを叫んだ。
「たった一つ、求めるのはたった一つです。死なないで。生きてください!」
「……君までそれを言うんですかぃ。そもあれは……何だったんだ……」
「まだ分かりませんか。簡単な事なのに」
聖霊――の姿をした存在の呟きを思い出すだけで顔をしかめるアッシャーに対して、ヘリテはまるで当たり前とばかりに言ってのける。
だがその内容は、普通聖職者が思いつくものではなく、また受け入れられるものでもなかった。
「あれは祈りです。ディスクティトラの、あなたという人に向けた祈りです」
アッシャーが再び凍り付く。だが皮肉を言われたと思ったからではない。
ヘリテが本気で、聖霊の託宣を祈りと呼んでいる事を察したからだ。
察した上で、全く理解できなかった。
アッシャーは、恐る恐ると言っていい慎重さで、自らの疑念を口にした。
「何を言い出すかと思えば……ここに来て頭がいかれましたか、ヘリテ嬢」
「いかれてません、正気です。だって教義とはそういうものでしょう? どうか善く、どうか正しく生きてほしいと、神々が各々の在り方に拠った形で、人に向かって示した言葉、求めた教え。命令じゃないんです、そんな事は神々にはできないから……間違える権利を侵せないから! 自分の手の届かないものへ、どうか届いてほしいと願うのは、それはもう祈りじゃないですか!」
ヘリテは動揺しなかった。
自分の言葉に、一抹の疑念も抱いていなかったから。
神という概念を破壊する行いに、何の躊躇いも感じていなかった。
そんな事よりも、遙かに大事な事があると信じていたから。
「人が神に祈るように、神も人に祈っているんです。神も人も、どちらか一方では成り立たないから。お互いにお互いが必要なんです。秩序による世界が続いて、さらに先へと進んでいくために」
「そんな……そんな、馬鹿な話が……っ」
「何より、あなたはずっとあの声を聞いていたはずです。聞こえるのにずっと無視してきただけでしょう」
「……っ」
アッシャーは咄嗟に否定しようとして、出来なかった。
喉を掴まれたように声が出ない。
何の術式でもない。アッシャー自身の中で、意志に離反した腕と同じく、アッシャーの意志で支配仕切れない何かが言葉を止めさせた。
幾度となく遠くから響いた諫める声を、例え何度無視したとしても、無かった事にだけはしてはならない、と。
「だから言ったんです。自分勝手の好き勝手、見たい方ばかりを見てるって」
一度言葉を切って、ヘリテは居住まいを正す。
だがその美しい姿勢は、礼儀というよりも構えであった。
アッシャーが大剣を振りかぶる代わりに、ヘリテは一番大事な言葉を目の前の勘違いした大人に叩き付けるために、姿勢に力を溜めたのだ。
「僭越ですが、私もまた浅ましき吸血鬼にして神官たる御身の後進として、罪と務めを果たしましょう」
手を取ったまま、膝を立てて顔を寄せる。勢いが付きすぎて額と額がかち合った。目から火花の出そうな衝撃を受けながら、それでもヘリテは真っ直ぐにアッシャーの目を覗き込んだままに。
吠えた。
「聖職者、それも正しき生を守護する死神の神官が! 自分のものとて、いや、自分のものなればこそ!」
旅の中でずっと彼女の中に降り積もってきたものが、ここへ来て胸の奥で激しく燃え上がり、轟音を立てて爆ぜていた。
ヘリテの中で耐え忍んでいた正しさへの渇望が、ついに火を噴いたのだ。
人に正しさを押しつける事は時に凶器である。だからこそ、本来誰も傷つける事を望まないヘリテにとって正論とは恐ろしく、触れがたいものだった。
だが今だけは、その刃を振り下ろす事を決めた。
必要だと自分が信じたから。目の前の神殿騎士が振るった破壊の剣のように。
「生きる事を、命を蔑ろにしてなんとしますか! 死神の説く死は正しき終わりであり、罪の清算やそのための罰では無いことを、あなた自身が誰よりも知っているはずです! 後に続く者のためにも、道を違えてはなりません。償うために死の淵に身を投げさせる事を、正しさと見做してはなりません!」
「君が……いや、貴様が、それを……!」
「言います。何度でも言います! どれだけ残酷で傲慢でも、正しく告げる事が勤めならば、我が身の何を惜しみましょうか! 殺さず、生かすためならば尚更です!」
手足を萎えさせたままでなお、肉食獣も逃げ出しそうな気を吐くアッシャーに、ヘリテは額を押しつけたまま真っ向から言い放つ。
「あなたが犯したかもしれぬ罪全てを背負って、なお生きなさい、アッシャー司祭! 繰り返します。死神に仕える司祭にして神官が、死を自らの安易な逃避に貶め、蔑する事は許されません!」
「~~~~~~~~~~~~~~~~ッ!」
声にならない絶叫が、アッシャーの口で噴火した。
痴れ者が、どの口がほざくか青二才の吸血鬼が。
どれほどそう怒鳴りつけてやりたかったことか。
だが出来ない。自らの歯をかみ砕かんほどに食いしばったとしても。
自らの楽のために全ての生命を、誰かの無垢な人生を愚弄する事だけは出来なかった。
数多の罪を犯した自覚はある。だが誰かに押しつけるくらいなら、自ら背負う事に迷った事は無い。より多くを救ったとて、犯した罪が相殺されるものでは無い事も分かっていた。死によって濯ぎ切れるとも思っていない。どのような責めでも負う、その覚悟を一度たりとも忘れた事は無いつもりだった。
だからこそ、自分の死が安楽を求めての逃走であるとすれば。生きてしか償えぬものがあるとしたら。
何よりも、自分の終焉が自分の後に続く者へも自己の否定を強要してしまうものだとすれば。
もはや自らの祈りも信仰も、怒りと覚悟すらも、何のためにあるのか分からなくなってしまう。
ずっと、すぐ傍に在る事を知りながら、目を逸らしてきた事だった。
どれほどの苦痛と絶望、憤怒と狂信に塗れたとしても。
“自分と同じ悲しみと苦しみを、もう誰も抱かずに済みますように”。
深淵教徒による名も無き邪神を降ろさんとする儀式を止めるため、必要な生贄を損なうために。
拷問の果てまだ息のあった姉の心臓を貫き、自らの胸を同じ短刀で引き裂いた後。
少年がかって死の淵で捧げた祈りは、どれほど血と泥に汚れても、その精神の奥底に横たわったまま、一度として曲がってはいなかった。




