九章 小さな聖女は血に誓う(24)
頭突きというよりは、突撃と呼んだ方が相応しい。
そんな跳躍攻撃だった。遠目ながら見つめていたクゥエルが不覚にもはらはらしてしまう程に完璧な不意の急所打ち。
(……鼻と上唇の間……大分まずい角度で入ったように見えたが……)
もし手加減無しの吸血鬼の膂力が籠もっていたら、並の人間でなくとも絶命しかねない位置だ。殺人は絶対にヘリテの本意ではない事が分かっているだけに、よろめいたアッシャーの唸り声が聞こえるまで内心でクゥエルは青ざめていた。
意識が残っていればアッシャーの治癒法術はほぼ自動的に機能する。少なくとも殺しはしていない事が分かって、クゥエルは密かに胸を撫で下ろす。
対して幸か不幸か、どれだけの痛撃を放ったのか理解していないヘリテは、姿勢を崩したアッシャーの両手を掴み、勢いに任せて【灰燼剣】をもぎ取った。
「よせ! 適格者でも無いのに、死ぬ気か!」
先ほど押しつけられた時の炎熱の痛みを、まるで忘れ切ってしまったかのような挙動に、アッシャーの方がかえって焦る。
だが取り返そうと伸ばした右手は十分に開かず、そもそもまるで速さが足りずに、あっさりを身を躱されてしまった。
少女が大剣を逆手に握る姿は、どこか喜劇めいて現実味が足らない。だがそんな事は、今のヘリテの気にするところではない。アッシャーの静止にも真っ向から叫び返す。
彼女は、心の底から怒っていたのだから。
「あなたに言われたくありません!」
「何をいきなり、この後に及んで暴れるのか……いや、ようやく少しはやる気になったという事か……?」
「勝手な事を言わないでください、違います! それだけ強くて、それだけ怖くて……なのに、頭の中は子供ですか、あなたは!」
「……その子供に言われましても、ねぇ」
「子供にも相手が自分と同じレベルかくらい分かります! あなたも、クゥエルも、父様も母様も、皆、皆……全部分かっているような顔をして、そのくせ自分勝手の好き勝手に、自分の見たい方ばかり見て!」
無理矢理浮かべた冷笑を一瞬で凍り付かせるアッシャーを尻目に、ヘリテは未だそこに在る聖霊へと目を向けた。
そう、アッシャーの手から剣はヘリテへと移っている。
なのに、聖霊の姿はまだそこにあった。
「聖霊よ、いえ、死神ディスクティトラよ」
ヘリテははっきりと、聖霊に向けて言葉を放つ。
声に込められているのは敬意ではなく、不遜と取られかねない憤懣だった。
「新参ながらも信徒の一人として、あえて不敬を申し上げます。アッシャー司祭の有様は、あなたにも責任があられるかと!」
「おい、いかな神に仕えるとは言え、聖霊も本質は死霊。案山子に説教を求めるのと大差は……」
半ば呆れたようなアッシャーの声は、途中でかき消える事になる。
聖霊の彫刻めいて整った唇が、小さく震えたためだ。
『……いで』
「……は?」
明らかに、それまでの聖霊とは声音が違った。
『……死なないで』
弱々しく消え入るような幼い声で、しかしはっきりと呟いた後、聖霊は完全に姿を消した。
有り得ないものを見聞きしたアッシャーはただ、その場に立ち尽くす事しか出来ない。
「……何の冗談だ、今のは……」
「あのお言葉こそはあなたが間違っている、その何よりの証明です」
ヘリテはアッシャーの呆然とした呟きをさも当然とばかりに捌く。そしてなんと【灰燼剣】を手元から投げ捨て、その場に膝を曲げて座り込んだ。
同時にアッシャーの両腕を取って、引っ張る。
「お座りください、アッシャー司祭」
告解の時から再び、しかし遙かに力強い調子でアッシャーを見上げて、ヘリテは言った。
「只今より、主神に代わってお説教です」
気がつけば腑抜けた有様のまま、アッシャーはヘリテの向かいの地べたに座らされていた。
両腕は手首を握られたままだ。だが逃走を防ぐためというには力が籠もっていない。
何より、麻痺があっても本気でアッシャーが振り解こうとすれば、ヘリテには防げない事は実証済みである。
ただ、当のアッシャーにその気があるかと言われれば、今は答えに窮しただろう。
力なく指摘するのが精々だった。
「……何時まで、他人の手を握っているつもりですかよ」
「少しは楽になりましたか?」
「何……?」
言われて、手に意識を戻す。肘を噛み千切って入れた気合いという名の火事場の馬鹿力は既に効力を失って、力はまたろくに入らなくなっている。
にも関わらず、指が動いた。緩慢ではあるが、ぼんやりと感覚がある。麻痺の最中では、痛み以外についてはまるで石化したような無感覚だったというのに。
そこまで考えて、アッシャーはもう一つ別の事に気付いた。
「痛みが……いや、感覚自体が、鈍くなっている……? ヘリテ嬢、これも君の仕業ですか?」
「はい、触れたところから感覚を共有しています。疲労は消し去れませんが、肩を貸す事で楽にはなりますから」
「……すぐに止めろ。人の痛みを勝手に奪うんじゃねぇですよぅ」
「お気遣いなく。この程度、太陽の光や終末兵器の熱さに焼かれるのに比べれば、羽根で撫でられているようなものです」
「こ、んのクソガキ、が……」
皮肉とも取れる言葉に対し、アッシャーには舌打ちと悪態以上の抵抗は出来なかった。言い返そうにもすっかり毒気が抜けてしまっている。
今ヘリテと向き合っている事自体に現実味が無い。聖霊の、聖霊にあるまじき言葉を思い出すだけで気が狂いそうになる。あれは何だったのか、分からないし分かりたくも無い。なのに思考は考える事を止めてくれない。もはや完全に状況がアッシャーの理解を越えている。
そんなアッシャーの胸中を知ってか知らずか、ヘリテは互いに跪いて向かい合う姿勢のまま、まっすぐにアッシャーを見上げて言った。
「まず、あなたの仰った事について、私には少なくとも一つ反論があります」
澄んだ瑠璃の瞳は、穏やかに凪いで唇を噛み締めるアッシャーを映す。
「あなたは神は間違えないと言われました。ですが、私は違うと考えています」
ヘリテはここまでの旅の中で、少しずつ積み上げられてきた自らの経験と、そこから生まれた考えを開陳する。
「地神エステル、吸血神キヤルゴ、【根の国】の守護者にして不死神パストーの従属神ホルクース、そして死神ディスクティトラ……多くの神格に、私は僅かずつではありますが触れました。そのおかげで、分かった事があります。それはどのような神格にも、出来る事と出来ない事があるという事実です」
エステルは信徒たるヘリテを死から救う事はしなかったし、出来なかった。ヘリテはエステルの神官ではなく、他にエステルの加護の拠り所となるものが間近に存在しなかったから。死に瀕してもエステルの声が聞こえないヘリテには、エステルの力が通り来たるべき道がなかった。
キヤルゴは、ヘリテの肉体を吸血鬼の肉体に変え、肉体から生まれた衝動で自らへの信仰を促した。だがヘリテの信仰をいきなり力尽くで書き換える事は出来なかった。キヤルゴも邪神とはいえ神格であり、自らへの信仰を強制するような精神への改変は行えない。信仰はあくまで人の権利であったから。
ホルクースは、自分の庇護する屍食鬼達の暴走を先んじて止める事は出来なかった。彼の行動は【根の国】の法に基づくものであり、法を破ろうとする者の取り締まりは彼の権能には含まれていないから。
ディスクティトラは、ヘリテの祈りと誓いを聞き入れた上でヘリテを完全な人間には戻さなかった。戻せなかった。罪とは過去であり、神とて過去そのものを無かった事には出来なかったから。
人に意志と行動を許すが故に、人の間違える権利までも神々は奪わない。奪えない。
これこそが神の限界。例え神の教えから見て間違った結末に至る事を知っていても、神には介入できない。強制できない。
人と神の間に横たわる、決して越えられない境界線。
「故に、この世界において、全ての神々は全能ではありません。如何に人に比して万能であろうとも、間違える事を許し許される、有限の一個体です」
「……っ!」
間違えるという言葉は正確ではないかもしれない。
だが、神々に止められないものがある以上、神の理には必ず綻びが生まれる余地があるという事だ。
つまり、神は絶対ではない。それだけでも、人によっては神への侮辱だと激怒するには十分な意見だ。
にも関わらず、顔を強張らせた以上の反応を、アッシャーは見せなかった。
「私を涜神者とは呼ばないのですね。……あなたもまた、同じ思いでいらしたのですか」
「別に同意見という訳じゃ無い……ただ神が全能なら、この世界の苦痛も不幸も理不尽も、全て意味がある事になってしまう。そんな事を認めたら、僕達……いや、全ての力無き者の祈りは何処にも辿り着かないでしょうが。んな事ァね、絶対に認められないんですよぅ」
苦々しい顔と口調で、アッシャーはそれでも自らの考えと意志を述べる。
これまで誰にも口にすること無く、秘め続けた信仰への思いを、言葉に換える。
「頭を垂れて、ただ全ての人が最期の審判を待てなんて話が呑めるほど、僕は悟ってないんですよ。だがそれでも、絶対の正しさは人間に必要だ。例え本当はただのまやかしだとしても……じゃなきゃあやっぱり、希望なんてなくなっちまいます。善行も自制も何処へも届かない天然自然の中で、ずっと頑張れる人間なんざ、そうそういやぁしねぇんですよぅ」
「だとすれば、あなたの矛盾もそこにあるのですね、アッシャー司祭」
全てを理解しているような口を利くヘリテを、アッシャーがきっと睨み付ける。
「何が言いたい……!」
「あなたは狂信者なんかじゃない……あなたが自身に任じた役割は、殉教者です。ただし、間違った殉教の」




