九章 小さな聖女は血に誓う(23)
クゥエルの解説を聞き終えたアッシャーの表情は、これまで見せた事の無いものだった。
糸目を真ん丸に見開き、口を半開きにした、唖然のお手本のような顔。
「んな……いっくらなんでも……この局面で、疲労の限界だと? そんな阿呆な話がありますか!」
「阿呆でも何でもありません。生物として当然の生理現象です。……加えて、ご安心ください、アッシャー司祭。貴方が人間である事は私が保証します。亜不死者ならそこまで疲労する前に飢餓衝動を引き起こし、発狂するでしょう。連中の限界はもっと即物的だ、意志力だけでさほどに耐えられるものではありません」
「うるせぇ! 今はンな事ァ聞いてねぇんですよぅ!」
一方的な憤激と共に重ねられたヘリテの手を振り払い、立ち上がろうとするアッシャー。だがまるで生まれたての子鹿のように、震えるばかりの四肢には力が入らない。ヘリテによって押さえられた両腕に至ってはびくともしなかった。
その体から湧き出していた煙は、剣を落とした瞬間から止まっている。
「第一おかしいでしょうが! こんな針の一撃が切っ掛けになるなら、今の今まであちこち灰にしながら動けるはずがない!」
「逆です、司祭」
「何が逆だと!」
「私の攻撃にも同じ事が言えますが、貴方を死に至らしめる……つまり致命傷では貴方を止められない。死に近づいた時の感覚を、貴方自身も無意識に利用していたのですから」
クゥエルの言葉に、アッシャーの激昂が不意に止む。
言わんとした事を察したアッシャーの声には、隠し切れない軽微な震えがあった。
「……僕が動けていたのは、生存本能だったと言うんですか……」
確かに、アッシャーの立つ戦場では命の危険に晒されていない時間などほとんど皆無だ。動きを止める、特に意識を失う事は治癒法術の途絶をもたらし、避けられない死へと直結する。疲れた、休みたいなど考える事自体が自殺願望に等しい。
肉体が休養を求めるのは、極論生存のためだ。長期的には休まないと死ぬ事は間違いない。
だが短期的に休めば死ぬ状況では、本能は逆の事、休まず動き続ける事を求める。あくまで同じ生存という目的のために。
つまりアッシャーは、『休みたい』という神経の悲鳴を『死にたくない』という本能の絶叫で打ち消す事で行動不能に対する緊急避難を無意識に繰り返していた。
クゥエルは呻くアッシャーに向かって頷き返す。
「左様です。故に【潜影呪針】である必要がありました。決して貴方の命を脅かし得る術式、死に至る傷であってはならなかった。……更に言えば、今の貴方にとってその【灰燼剣】は握っている事自体が死に近づく行為です。手放す理由に本能が飛びつく事は、決して責められないでしょう」
そこまで聞いて、アッシャーは小さく頭を振った。
「……なるほど。分かりました。よく分かりましたよ」
表情からは激怒による皺が取れていた。口元の笑みこそ戻らないものの、表面上は穏やかさを取り戻したように見える。
あくまで、表面上は。
今ならクゥエルにも、アッシャーに止めを刺す事が出来るかもしれない。そう思えるほどに無力な様をアッシャーは晒している。
だが実際はクゥエルも満身創痍のままだ。全身の骨には罅が入ったままであり、先に極限まで術式行使していた脳は短い休憩で蓄えた余力を【潜影呪針】で使い果たして、気を抜けば意識が飛びかねない。術式そのものは軽易なものでも、十歩以上先にいて動く相手の経穴を射貫くのは生半可な精度では成し得ない。
文字通り針の穴を射貫く神業に、クゥエルは精も根も尽き果てていた。とても動ける状況ではない。
だから唯一動く口で、言葉で差し切る他に術が無かった。
だがその言葉が、アッシャーに一つの光明を与えてしまう。
光明というにはあまりにも痛々しい、鉛色の鈍い輝きではあったが。
「礼を言いますよ、従者クゥエル。おかげで、僕もやるべき事が分かりました」
アッシャーはそこまで言うと、腕を引く代わりに体を捻り、右腕をヘリテの手から抜き取った。ヘリテも押さえた手を緩めた訳ではなかったが、まさかまだ動こうとするとは思っていなかったために、反応はどうしても遅れてしまう。
アッシャーは力を入れようとしてもただ痙攣するだけの己の腕を、それでもどうにか持ち上げ、更に自分から頭を垂れて肘の内側に顔を埋める。
関節部分を覆っていた肘当ての部分は、動きを阻害しない構造上、耐久性は他より低い。クゥエルとの激闘、ヘリテに対する【灰燼剣】の使用、そのいずれかも分からないが、金属製の部品も革の当て地も失われた右肘は肌が剥き出しになっていた。
「司祭、何を――」
ヘリテの疑念の声に重なるように、薄気味悪い濡れた音が響く。
同時にアッシャーの顔を鮮烈な赤が覆った。
ヘリテの五感を一瞬陶酔に似た甘い感覚が襲い、次の瞬間凍えるような寒気によって全て塗り潰された。
死神への告解のおかげで衝動は弱まっている。それ自体は喜ばしい事ではあるが、まるで喜べる状況ではなかった。
「アッシャー、司祭……」
「……何のことはない。結局、僕の怠慢だって事じゃあないですか」
顔の下半分を自分の血で染めて、アッシャーは再び薄く笑みを浮かべる。
自ら食い破った肘裏の裂け目は地面に小さく溜まるほどの出血を見せている。明らかに太い血管が千切れていた。
だが構う事無く、アッシャーは血塗れの右腕を【灰燼剣】の柄に伸ばす。
その指先が、動いた。力なく、柔らかくではあるが柄に巻き付く。
「動かざれば死あるのみ……僕の覚悟がそこから離れたなら、喝を入れてもう一度そこに心身を叩き込めばいいだけの事」
クゥエルもまたアッシャーの無謀を越えた暴挙に目を見開く。
「……無理矢理動かしても、限界が来ている事実は変わらない。加えて既に相当量の血を失った体でその出血……どちらにせよ長くはないぞ、司祭」
「だからド阿呆がつってんですよぅ。あの【灰燼剣】を抜いた時点で、僕が自分の命を惜しんでるはずねぇでしょうが」
返すアッシャーの声は掠れて、ところどころで引き連れたように消えかかっていた。
肉体の意志に対する造反は続いている。衰弱を自覚した神経はまだ不自由なままである。それでも、這いずるようにアッシャーは動く。傷口自体は既に半自動的に走る治癒法術によって塞がっているが、腕からは既に噴き出した分の血の滴が、今も未だのろのろと伝い流れている。
吸い込んだ昏い地面をさらに黒ずませる流血を見下ろしたまま、ヘリテは動けなくなっていた。
アッシャーはヘリテの様子を一瞥した後、興味を失ったように視線を右手の触れる剣へと向ける。
ここに来ての意気喪失なら、所詮そこまで、ここで終わる定めとばかりに。
「そういえば、自分の心臓は止められないとか、言ってましたねぇ」
低く呟きながら、アッシャーは自らの右手に同じく震える左手を重ねて、大まかな形に柄を握り、
「暗殺者風情が、不死殺しを舐めんじゃねぇですよぅ。必要ならば止めもしよう……このように!」
剣の上にのしかかるようにして、全体重をかけた。
ぐちり、と肉が潰れる悍ましい音が響く。地面を向いたまま反射的にヘリテは怯えたように瞑目した。距離の離れたクゥエルさえもあまりに凄愴な音に目をすがめる。
アッシャーは柄を握った手を、握りしめた形に無理矢理押し潰したのだ。結果麻痺で固まっていた腱が強引に、強制的に伸縮し、その一部を破断させた。。
だがそのままの形でアッシャーは治癒法術を発動し、破壊された部分を修復。
手は剣を握った形で固まった。麻痺を利用して剣を掴んだ状態で固定したのだ。
ゆらりと、幽鬼の如くアッシャーは立ち上がる。失血で死を自覚し直した体に鞭打って、手にした大剣を半ば引きずり、半ば寄りかかるようにして。
その姿は死に瀕した獣が毛を逆立てて牙を剥く、最期の虚勢のようであった。
「さぁ、審判の続行だ……! 請願は終わっていない。審査を再開しろ、聖霊!」
血の気が引き、明かな憔悴を浮かべながらも傲然と見下ろすアッシャーに、ヘリテは地面に視線を落としたまま顔を上げようとはしなかった。
ほとんど間を置かずに、再びアッシャーの背後に現れる純白の尼僧の幽鬼――聖霊。
僧衣の頭巾を深く被った姿から辛うじて顔が覗くだけ、髪型までは分からない。
それでも、かって人であったかを疑いたくなるほどにその顔は整っている。彫刻のような容貌は目を固く閉じたまま、灰色がかった薄桃の唇だけが、唐突に震えるように動いた。
『審査終了。請願棄却、申請却下』
「……何?」
アッシャーは背後を振り向いた。
自らが耳にした言葉を信じられずにいるのは明白だった。
だが確かに、【灰燼剣】からもアッシャー自身の体からも、灰成す煙が立ち上る兆候は現れない。熾火もすっかり冷めきったように、朝の空気を暖めはしなかった。
アッシャーの驚きを知ってか知らずか、聖霊は全く変わらぬ平板な、それでいて聞く者の背骨を撫でるような冷たく麗しい声で託宣を告げる。
『終末兵器【灰燼剣】、適格者アッシュ=グレイ。この場における吸血鬼の滅殺は対象の危険度が極小である事を鑑み、更なる適格者の損耗、損失という代償に見合わないと判断されました。再申請の一切はこれを却下します』
一瞬、クゥエルによって神経の限界を告げられた時以上の虚無がアッシャーの表情を覆った。信じていたものに最期の最期で裏切られた人間の、滑稽なほどの茫然自失。
だが、瞬時に虚無は憤怒の炎に取って代わられた。
「……っざけるなァ、聖霊! 貴様らは貴様らの仕事をしろ! 目の前に欠片と言えど吸血鬼が居て、退く死神の使徒があるものか! 例えディスクティトラの御心に連なったとて、元適格者の貴様らからその判断が出るはずがない!」
――アッシャーが怒り狂う理由。それこそは聖霊の出自にある。
代々の【灰燼剣】を受け継いできた適格者、その中でも特に死神と高い同調を示した者の死後なお続く献身。それこそが【灰燼剣】と当代の適格者を監視し、その判断を審判し承認する、神格の直通端末たる聖霊へと書き換えられた死霊の正体である。
アッシャーにとって聖霊とは監視者であると同時に、同じように自らを灰にして戦い果てた、共感する同胞であり尊敬する先達だった。
だからこそ、裏切られたと感じた。同じ道を歩く事を、拒絶されたのだと。
「いいから僕を使い潰せ! 今だろう、その時は!」
「アッシャー司祭!」
すぐ傍から放たれ、自分の咆吼すらかき消す程の鋭い怒声に、アッシャーは反射的に息を止めた。
アッシャーが聖霊に怒鳴りつけている間に、ヘリテはその場で立ち上がっていた。
少女の目尻には小さく涙の玉が浮かんでいる。にも関わらず、その眦ははっきりと吊り上がっていた。青白いはずの頬にもわずかに朱が差している。
アッシャーは、ヘリテのこの表情を知らない。クゥエルですら、旅の間でも一度しか触れていない。ホルクース相手に自爆する覚悟を見破られた時の、一度きり。
ヘリテ=インフェルムの、本気で怒ったときの表情。
「いい加減に――」
あまりの剣幕に何事かとゆっくり振り返ったアッシャーの顔に。
「なさいませ――っ!」
「ご、ぉ!?」
勢いよく飛び跳ねたヘリテの頭頂部が、ものの見事に突き刺さった。




