九章 小さな聖女は血に誓う(21)
膝当ての隙間から灰の混じった煙が吹き出し、アッシャーの歩みが一瞬だけ傾いで止まる。だが即座に走った治癒法術が削げた肉と骨の一部を修復し、何事も無かったように歩みは再開した。
似たような現象が、ヘリテに見える内外でアッシャーの身に立て続けに起きていた。
否が応でも、ヘリテは始まりの、燃える屋敷を思い出さずにはいられない。いつ何時その全身が炎に包まれ、崩れ落ちるか分からない。
アッシャーの焼失は、ヘリテにとっての勝利のはずだった。彼女を阻む最期の障害が完全にこの世から消え去るということなのだから。
にも関わらず、ヘリテには高揚感などまるでない。あるのは切迫感だ。いずれ訪れるアッシャーの破局が、ヘリテにはどうしても勝利とは思えない。
逆だと思った。
今ここでアッシャーが死ぬことは、ヘリテにとっての敗北だった。
ヘリテが生を望んだせいで、この神殿騎士は死ぬ。
(駄目だ)
自分が生きるために、人が死んではならない。
ヘリテにとって正しい道とは、人を殺して通るべきものではなかった。
それでは無辜の人の血を啜って営む不死と、本質的に変わらない。
だから叫び、訴えた。
「司祭……駄目です! これ以上その剣を振るっては、先にあなたの方が……!」
「それこそが秩序、それこそが因果応報だ……後の世の為にこの身が灰と化す程度、安い、安い!」
「違う、違います! それは正しくない、正しい報いではありません!」
とっさに口にした言葉は、深く考えてのものではなかった。
なのにヘリテは自分の言葉にはっとなった。未だ言葉にならない結論の輪郭が垣間見えたように思えたのだ。
アッシャーはしかし不敵に笑ったまま、五度目の振りかぶりを行った。
その顔の半分が一瞬、立ち上る灰神楽の中で髑髏と化し、即座に蒸気を吹き上げながら肉と皮膚を再生させる。
アッシャー自身は不死喰らいの渾名を拒絶したが、何も知らぬ第三者が見れば今のアッシャーとヘリテのどちらが不死の怪物か、判断するのは至難のわざだろう。
「後二度……多くて三度と言ったところか。さぁ、最期まで逃げ仰せてみせるがいい。ヘリテ=インフェルム!」
獣頭鬼を両断した時からは見る影も無いほどに精彩を欠いた動きながら、それでもアッシャーの剣は並々ならぬ迫力を秘めたまま、ヘリテに向かって奔る。鬼気迫るという言葉がこれほど似合うものもない、まさに命がけの太刀筋。
そしてヘリテは――逃げなかった。
「あ、あぁ……ああああああああああっ!」
徐々に回避を見切られてはいた。だがそれでも、まだ十分に反応できた。
にも関わらず、ヘリテは刃が自分に届くよりも早くアッシャーに向かって飛びかかるようにして、【灰燼剣】の鍔と柄をアッシャーの手ごと掴み止めた。そのまま吸血鬼の力に任せて剣をアッシャーの腕ごと押さえ込もうと試みる。
ヘリテの頭部から拳一個半の位置で剣は止まった。だが一時的なことであり、その証拠にじりじりと大剣はヘリテに向かって迫りつつあった。急拵えの半吸血鬼と歴戦にして異能の神殿騎士。地力の差は歴然としていた。
「くうぅぅぅ……うぅあぁぁぁぁぁ……!」
痛みに耐えきれずにヘリテが悲鳴を上げる。刃とヘリテにはまだ距離があるのに、顔の表面が焼け付き、激しい痛みを訴えてくる。加えて刃に直接触れていない両手も。
少しずつ、真っ赤に焼けた炭火を近付けられているような恐怖と苦痛。
それでも、ヘリテは逃げない。手も離そうとしない。
アッシャーが燃え尽きるよりも前に、自分が燃え尽きるとしても。
アッシャーの死を傍観する事は、自分の正しさからも逃げる事だった。
「いけない……あなたは……あなたは、まだ……駄目です、こんな終わり方を、してはいけない!」
「ははは! ならば、貴女が終わりますか! この後に及んでなお、正しさを貫く覚悟も持たぬまま!」
燃えさかる顔で嗤うアッシャーは、異賊よりも恐ろしい悪鬼そのものだった。
吸血鬼としてのヘリテの全力をもってしても拮抗は確実に破れていく。重ねられた手を払いもせずに、アッシャーは鍔迫りの容量でじりじりとヘリテへと大剣を寄せていく。
「違う……そんなものは、正しさじゃない……!」
自分ではアッシャーの膂力に勝てない事を悟ったヘリテは、ついに叫んだ。
最期の、そして最初からずっとすがり続けてきた希望に。
「クゥエル、お願い!」
ついさっきまで重傷のあまり立つ事も出来なかった、己の執事に向かって、ヘリテは無茶を承知で願った。
「お願いします。司祭から、剣を取り上げて……!」
「御意のままに」
対して執事は未だ地面に膝をついたまま、静かにはっきりと応答する。
ヘリテの傍に立つ時ほとんど常に浮かべていた、あの生真面目な無表情で。
練りに練っていた魔力を込めて、術式を選択するクゥエル。
体は無論万全では無いが、術式の行使には支障の無い程度には回復している。
アッシャーによる止血が、悔しいが効いた。あれが無ければ間に合わなかっただろう。
それはつまり、森から戻ってきたヘリテに治癒法術を施される前に失血死するか、そうでなくても行動不能からの復帰がもっと遅れただろうという事だ。
ヘリテは森の中で死神ディスクティトラに祈り、声を聞いた。
故に、クゥエルに駆け寄った時点で既に癒やしの奇跡を呼べるようにはなっている。
だが、告解前のヘリテは神官としては最弱の部類でしかなかった。施せた治癒は限定的なものである。だがそれでも、砕けた骨の応急処置には十分だった。
以降はこれもヘリテの命令通り、クゥエルは重傷を装ったまま密かに自分の自己治癒力を賦活し、呼び出しのかかるのをじっと待ち続けていた。
全ては自分の性能、自分の存在意義を再び主に示せる機会のために。
「『一から四へ。穿孔よ、現れよ』」
主からの命令はアッシャーの握る大剣を排除する事。
とはいえヘリテ自身を巻き込む事はともかく、虚数魔術ではアッシャーを行動不能のレベルまで破壊する事が難しいのは実証済み。
求められる機能は必中、高速発動、そして必要十分の威力と効果。ただ剣を手放させるために、クゥエルが選択したのは【潜影呪針】。
先に命中した状態で発生する、影の投げ針を生み出す術式だ。
そして夫妻の心臓を穿った因縁深き呪術でもある。
だがアッシャーは、それが自分の目を一瞬だけ潰した術式と知って失笑した。
「は、やるだけやった振りですかねぇ? 確かに針は防げやしませんが、今の私じゃあ当たった事すら……」
嘲笑するようなアッシャーの言葉には、自分自身に言い聞かせる鼓舞の役目も含んでいる。だがはったりのつもりもなかった。事実、自分の両腕に突き立った状態で現れた黒く長い針を見た瞬間は、何の痛痒も感じなかったのだ。
だがそれは、ほんの一瞬の事だった。
「ぐ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
アッシャーの視界が白んだ。
目をやられた訳ではない。クゥエルの術式が穿ったのは、確かに両腕だ。
視界が白く染まるほどの苛烈な痛みがアッシャーを襲っていた。
目を潰されようと、骨を砕かれようと、腹を貫かれようと、アッシャーには傷に行動を阻害された経験が殆ど無い。何しろ傷は一瞬で塞がる。どれだけ激しくとも痛みを耐える必要がある時間は短く、そしてアッシャーにとって痛みとはもはや連れ添って歩く伴侶のように身近なもの、のはずだった。
腕から背骨、そして頭の中へと走る痛覚の電撃は、アッシャーの知るどの痛みとも違う鮮烈なものだった。
しかも、痛みは持続している。
傷は既に治っているにも関わらず、である。
がらん、と重い音を立てて大剣――【灰燼剣】が地面に転がった。
同時に背後の聖霊がかき消え、辺りを焼き続けていた熱も嘘のように消えてしまった。
アッシャーの手から離れた事によって、終末兵器としての機能が封印された状態に戻ったのだ。




