九章 小さな聖女は血に誓う(19)
だらりと力なく、剣を握ったままアッシャーの腕が垂れ下がった。
常なる顔の笑みも、どこか乾いて弱々しく映る。
「……完全に僕が見誤ってましたよぅ、ヘリテ嬢。僕よりも、そこの従者よりも、この場で最も人間離れしているのは貴女だ。半吸血鬼の体では無く、貴女の精神と理性こそが人外……例えるなら竜の類いです。はっきり言って、正しさでも賢さでも、僕じゃ逆立ちしたって勝てそうも無い」
アッシャーの言葉は、事実上の敗北宣言と言えるようなものだった。
「既に僕の司祭としての正当性は貴女の理に、神殿騎士としての力は貴女の備えと覚悟に破れました。……でも貴女は、まだ僕を見ている……警戒していますねぇ」
そう。
自らの負けを告げるアッシャーを、ヘリテはまだ正座の姿勢のままで見上げている。
真っ直ぐに見据える眼差しは、一向にたたえた力を緩めてはいなかった。
遠くの空に立ちこめる暗雲から、これから来るであろう嵐を想う眼差しが、じっと疲弊を滲ませる神殿騎士の顔を見つめている。
「貴女は、僕がまだ何か貴女に立ちはだかる……いや、楯突く根拠を残していると考えているのですか?」
「はい」
アッシャーの問いに、ヘリテは清々しいほどの即答で返した。
「それが何かまでは分かりませんでした。ですが……最初に私を討とうとしたあなたの奥底には、もっと重くて、もっと強固なものが横たわっている。でなくては、あなたがそれほどに頑迷で露悪的に振る舞うはずがない。私はそう感じました」
自らにも明確な根拠は無い事を認めた上で、今度はヘリテの方からアッシャーに向かって問いが投げかけられる。
「アッシャー司祭。今度は私から伺います。あなたの中に最期まで残った、あなたの本質とはなんですか?」
迫力を失った棒立ちのまま、アッシャーは小さく首を傾げた。まるで今日の夕飯の献立でも聞かれたかのような暢気さで。
「そうですねぇ……振る舞いと貴女は言ったが、頑迷な悪辣さこそが僕の本質とは思わないんで?」
「思いません。もしそうなら、あなたはきっと神官ではいられないはずです」
「……甘いですねぇ。やはり幼子である以上、その理知をもってしても経験だけは埋められないようだ……いやまぁ、当たり前ですか、そりゃあ」
何処か安心したように苦笑してから、アッシャーは朴訥な口調で自らについて語り始める。
「僕は不死殺しの神殿騎士です。散々亜不死者を殺し、不死者を滅してきた。その中に、ヘリテ嬢、君のように正しい生と死を望んだものがどれだけいたか……貴女に分かりますか?」
「……いいえ、分かりません。きっとそれは、誰にも分からない事です」
「そうかもしれません。あるいは神々なら知り得たかもしれませんが、特に教えてもらった事も無いし、止められた事もありませんしねぇ」
「それは……」
「分かってますよ。神々が一々そこまで介入していたら、人が首の上に頭を乗っけている意味がありませんからねぇ……でもね」
わずかに、声と言葉の質が変わった。
「だからこそ、過ちは人の領分であり、人の責任であるべきです」
「……!」
アッシャーの一言が、ヘリテの中でぶつかり、跳ね返る。
何かが触れた。アッシャーが今口にした事の中にアッシャー自身の本質がある事をヘリテは感覚した。
だがまだその本質の形が分からない。
名付けるべき名前が見つからない。
そうこうしている間にも、アッシャーの言葉は続いていた。
「そして間違い罪を犯したのなら、それは償われるべきだ。善行が報われるべきであるように。人が神に祈るのは結局世界そのものが理不尽だからです。理不尽が辛くて苦しいから、僕等は秩序に祈るんです。因果応報よ在れ、とね」
善き行いに善き報いがあるように。正しい努力が正しく実を結ぶように。
人には知性があり、知恵がある。故に明日を思う。まだ見ぬ明日を。
明日が知れない事は幸福であり、不幸でもある。
次に目を覚ました時に自らの行いの全てが無為になる未来を見てしまったら、もう人は起き上がる事を望めないから。
だから未だ見ぬ明日に祈る。未だ見えぬ存在に向かって祈る。
悪い事が起きるかもしれないけれども、今日善い事をした分だけ明日起きないように。
失敗するかもしれないけれども、今日した苦労の分だけ明日成功するように。
自分達の行いがきっと誰か偉大なものの目に止まり、その分が報われる事を。
見えない明日に、見えないからこそ求めるのだ。
「だけど僕個人は思うんですよぅ。聖職者が神と信仰を背に負う者である以上、僕らがそれじゃあ駄目だろう。報われる事を願うのではなく、裁かれず償えぬ事をこそ恐れるべきだってね。……絶対の正しさの側に立つ者として、ねぇ」
そういうアッシャーの声は、静かな力強さと、拭いきれないほのかな寂しさをまとっていた。
「故に、僕も最期に残った役割を全うしましょう。人たるが故に預けられた滅びの一端を、人なるが故に罪にて振るう者として。……そして、裁かれるべき罪の証明として」
「司祭、それは……」
「お立ちなさい、ヘリテ=インフェルム。これが最期です……見事、燃え残れたなら貴女の完全な勝利です」
ヘリテの言葉を遮ったまま、アッシャーは踵を返して数歩遠ざかり、振り返ると同時に大剣を構えた。切っ先は目の高さに。肘は僅かに曲げて内側に軽く絞る。片足を半歩前に出し、左右は肩幅に開いた立ち姿。
正眼の構えを取ったまま、アッシャーは唐突にも高らかに叫んだ。
「請願! 終末兵器【灰燼剣】、抜刀許可申請!」
アッシャーの背後、何も無かった空間に突如として半透明の人影が浮かび上がる。
たなびく白き衣を纏った尼僧の幽鬼。その正体はアッシャーとその手の大剣を監視するため神の御使いとなって現世に留まった死者――聖霊。
そして手にした武骨な大剣から立ち上る、幾筋もの細い煙。
ヘリテにも、空気が急激に乾燥していくのが分かった。
鈍色の剣が火の代わりに、熾火の熱だけを発して燃えている。
燃えている。空気以外の何かが剣に焼かれている。煙の中では時折白い光がちらついていた。
それは目にしたヘリテにとって美しく、儚く、恐ろしい光だった。
太陽の光の恐ろしさとは違う。陽光はヘリテにとって体を焼く痛みだが、煙の中の燐光は何か大事な物が燃え尽きていく、喪失の恐怖だ。
「ご照覧あれ、これこそは我が象徴。永命者共を殺し尽くすためには、時に神格保持者と相対する事もある。故に大罪者としての名代と引き換えに帯刀を許された、不遜なる神殺しの一刃を!」
アッシャーが吠える。だがその言葉はまるで祈祷の文句だ。
まるで壇上で謳う役者の如く、なめらかに言葉を繋いでいく。
「鬼の身で人たらんとするその放縦、通したくば見事越えてみよ。信仰のために涜神為す、罪深き狂信こそは我が本質にして最期の試練。なればこれなるは争いでは無い、応報だ! この道通りたくば、我が過ちを正し殺して通られよ!」




