九章 小さな聖女は血に誓う(17)
「……そうか、死神の神官たる僕に立ち会いを依頼したのは誓いの正当性を高め、告解そのものを逆転化を引き起こせる誓約術式の域まで引き上げるためか。……普通、思いついたからと言って実行しますかねぇ、それを。見当違いなら生きながら聖なる火に焼かれて灰と消えたというのに」
「それならまだ、私にとってはましな結末です。呪われた飢餓に負けて、罪もない誰かを歯牙にかけるよりも」
剣を突きつける側と突きつけられる側の奇妙な構図で行われる会話は、しかし言葉と意志を刃として見る事が出来たなら、全く逆の光景が浮かび上がっただろう。
ヘリテの首に大剣を添えたまま、追い詰められた無力さを滲ませて、アッシャーが告白する。
「認めましょう。ヘリテ=インフェルム。貴女の在り方は死神の御心に叶ったと」
だが事実上自らの否を認めながらも、アッシャーは構えた剣を退かそうとはしなかった。
むしろ柄を握る手には力が込められ、籠手の指先が滑り止めに捲かれた革を擦ってぎりぎりと鳴いている。
「ですが。人は弱く、脆く、移ろいやすく……時に愚かです。この僕を含めて」
「司祭、待て! 己が主神の祝福を侮辱する気か!」
状況に気付いたクゥエルが、混乱を覚えながらも焦って叫ぶ。
叫びながらも、正直半信半疑ではあった。いくら何でも、神官の為そうとする事では無い。
秩序の神の声を聞いた者が、自ら不条理そのものになろうと言うのか。
「ええ、恥臆面なく前言を撤回しましょう。彼女の事例はあってはならぬ、残してはならぬものだ」
そう宣うアッシャーの声にはまだ灰汁のように苦い迷いが浮いている。だが迷いの下には、ヘリテの示した理に負けて折れたはずの鋼の意志が取り戻されつつあった。
「不死者、亜不死者、須く悉くこれを滅するべし。その志に迷う余地あれば、迷い故に誤り死ぬ者も現れましょう。なれば一切の例外は不要。全ての責めは僕が負います……正にこれこそ我が惰弱。僕は、神ほどには人を信じられない」
力の無い相手なら、まだ迷う猶予もあるだろう。
だが、力の無い振りをしているだけの怪物に、慈悲の心をもって刃を鈍らせれば、起きるのは悲劇である。
ならば迷う余地など認めてはならない。救えると知らなければ、救おうとして生まれる犠牲も無い。
人はあまりにも弱いから。欺す方にも欺される方にも、いつ転げ落ちても何の不思議もないのだから。
あまりにも修羅場に身を置く事が常態化したアッシャーによる、冷徹非道にして実戦的すぎる結論だった。
「やめろ――――」
心臓が砕けるほどの恐怖と緊張に、クゥエルの喉が渇き、掠れる。口腔に比喩でなく血の味がした。一度砕けた骨に傷つけられた肺から、残っていた出血の名残がこみ上げたのだ。逆流した血液が気管から喉と鼻を通過して、クゥエルは無様にむせた。
現実問題として、瀕死の重傷を負ったクゥエルにはまだ割り込むだけの力は戻っていない。
だがそれ以前に動く事は出来なかった。ヘリテが、動かなかったからだ。ただ一瞬、視線が横目にクゥエルを向いて、すぐにまたアッシャーへと戻された。
まだ待て、と声で示されたようだった。
そも、最期まで信じて見守れという命令は、まだクゥエルの中で生きている。
もうこれ以上クゥエルにはヘリテを裏切れない。自らの死よりよほど激しい恐怖もまた、己に課された罰と諦め受け入れる事しか、クゥエルに出来る事は無かった。
「貴女にはこれで私を恨む正統な正答が出来た。冥府から好きなだけ呪うがよいでしょう。――だが、返す返すも残念です。出会い方さえ違えば、僕が貴女に教えを受ける事も有り得たでしょうに」
死神の信徒として最期にせめてもの敬意を示し、アッシャーがヘリテからの視線を真っ直ぐ受け止めたまま、首に添えた剣を渾身かつ細心の太刀筋で引いた。せめて少しでも痛みを与えずに済むようにと。
大の男の手の平よりも広い刀身である。ヘリテの細首を摘むのに拳二つの引き幅も要らない。
それを柄頭を脇にぶつかるほどに引きつけた。
だがしかし、ヘリテの首は健在だった。
一抱えの木の幹を稲穂のように跳ね飛ばす剛剣が、ヘリテの首筋より薄紙一枚の距離を滑るのみに終わったのだ。
一瞬何が起きたのか、アッシャーには全く分からなかった。
「……何?」
夢うつつ、というよりはもはや悪夢のような状況に、アッシャーは反射的に大剣を振りかぶり、声にもならぬ気合いと共に今度こそ渾身の力でヘリテの首に叩き付けた。
だがまたしても、手にした剣は触れた首筋に全ての力を吸い込まれたような不思議な感触を残して、ヘリテに傷一つつけずに止まった。
平然と、ヘリテは座したまま姿勢も変えずにそこに居た。
まっすぐ、アッシャーを見つめたまま。
明らかにこの状況をヘリテだけは理解している事に気付き、ようやくアッシャーも恐慌を脱して、この不気味な手応えを経験と記憶から拾い出すに至る。
だが自分の身体が思い出した結論は、さらなる困惑をもたらしただけだった。
「これは、不傷不殺結界……〈聖堂空間〉だと!? 僧正級の大法術が、何故……!」
それは〈法力弾〉と同じく全ての神に仕える神官が習得し得る基礎的な法術でありながら、滅多に到達する者の現れない最高位の法術。術式範囲内における一切の致傷行為を物理法則の書き換えによって封じる、世界そのものに干渉する大不殺界咒。
究極の奇跡の一つに数えられる結界術式が、何故こんなところで発動しているのか。
そもそも、発動したのは直近のはずだ。でなくては、この場においてクゥエルとの戦闘も成立し得なかったのだから。
(有り得るとすれば、この土壇場で隠れた何者かの介入か……馬鹿な! これだけの高位法術の使い手が、身を隠す理由がない! そも、〈聖堂空間〉は深淵教徒には使えない……)
一瞬でそこまで思考した上で、アッシャーは辿り着いた答えに愕然となる。
この場でつい先ほど、秩序の神々に凄烈と言ってもいいほどに過酷な祈祷の行を成し遂げた者に思い至ったのだ。
困惑と恐怖の混じる視線を向けられて、ヘリテは視線を逸らさぬままに平然と答える。
「……告解の前に、あなたは仰いました。アッシャー司祭。邪神への介入と助力の機会を、私が許すと思うのか、と」
「何を……何が言いたい!?」
「では、こうは思われなかったのですか。邪神ではなく、秩序の神々に私が祈った時、果たして介入と助力は得られないのか――」




