九章 小さな聖女は血に誓う(16)
炎の中から、涼やかな声が続けた。
「人から吸血鬼になっても、自分が人だと思う限り残っているものがありました……信仰の自由です」
やがて荼毘の火は焼くべきものを焼き尽くしたとばかりに、生まれた時と同じく音も無く消えていった。
輝きの失せた後には、告解の前と変わらぬヘリテの姿がある。
いや、正確には服装の色だけが変わっていた。白かったブラウスも黒染めの前掛けとスカートも、混じり合ったように燃え尽きた後に残る白みがかった灰の色に統一されている。染みついていた無数の汚れは、全て焼き浄められたかのように無くなっていた。
服装以外はそのままだ。青白い肌も、亜麻色の髪も、吸血鬼となってからの変わらない色合いのままである。
だが全身から放つ気配は、明らかに今までのヘリテとは違っていた。落ち着いた佇まいからは不安や恐れが感じられない。同時に少女らしさとも言うべき柔らかい幼さと儚さもまた失せてしまっていた。
アッシャー=ダストの目の前に跪いているのは、もう少女とは呼べない、少女の形をした何かだった。
「その上で、私は亜不死者の身体をキヤルゴという神に与えられた事を思い出しました。ならば同じように、神に返す事も出来るのではと思ったのです……吸血鬼の有り様は邪神を信仰するように仕向けられたものだからこそ、人の正しい生を司る死神ディスクティトラに帰依すれば私を人に戻してくださる事も出来るのではと考えました。結果は、この服の変わりようと同じです」
肩の刃を退けようともせず、膝を折った姿のままで、ヘリテは灰色に染まったエプロンドレスの裾をつまみ、少しだけ持ち上げて見せた。
「私は今、半分が吸血鬼、半分が人間です。私が死を拒絶し邪神に縋った過ちは完全に無かった事にはなりませんでした。この身は未だ日光に焼かれ、流れる水を渡れず、血を飲む事から完全には逃れらません。飢えの果てには運が良ければ死、悪ければ理性無き獣への堕落が待ち受けます。……ですが、以前ほどの衝動は無く、量もはるかに少なく済むでしょう。ゆっくりとですが、やがては老いて死ぬ定めと引き換えに」
真っ直ぐに向けられたヘリテの視線に、アッシャーが身じろぎする程度に身体を反らせた。しかし視線を逸らす事は出来ない。まるで蛇に睨まれたカエルのように、アッシャーはヘリテの静かな視線に掴まれていた。
放つ声の居丈高な響きも、明かな虚勢だった。アッシャーは、例え魔神本尊を前にしても感じなかった感情を、まだ受け入れられずにいた。
恐怖ではない。
畏怖である。
アッシャーは、目の前のヘリテが畏れ多い存在に見え始めていた。
「馬鹿な、そんな事を吸血鬼が……選べるはずがない! 意味もない! 死を永久に拒んだ者こそが不死者であり、永命者だ!」
悲鳴じみた抗弁に対し、ヘリテはただ小さく首を横に振る。
「そもそも、私は最初からキヤルゴの信徒ではありません……吸血鬼も屍食鬼も、本来は不死を望んで求めた結果です。私はただ、独り無為に死ぬ恐怖に耐えきれなかっただけでした……だからこそ、この道を選ぶ事が容易かったとは思いますが」
元から永遠を求めていなかったヘリテだからこそ、不要な永遠を手放す選択に思い至れた。
希有な一例である事は間違いない。そもそも、望まぬまま吸血鬼になる者などそうそう現れるものではない。
だからこそ、ヘリテは今まで苦しみ続けたとも言えるのだが。
「私は吸血鬼に墜ちましたが、それでも生きている以上、何時か死ぬ存在である事には変わりありません。ならばディスクティトラへと祈り願う事には意味と意義がありました。心から改めるのなら、最初から許されないはずはなかったんです」
定命無き亜不死者が死神に祈る行為は、一見すると矛盾する。だがそれは違うとヘリテは言っていた。
何故なら、死神ディスクティトラはただ死を告げて与える神ではない。
人としての自然な命を全うする事を祝福する神格だ。
亜不死者や不死者の歪な永遠は不自然な生命、あるいは生命に似て否なる在り方であり、だからこそ死神はこれを許さない。
だがここで不死者と亜不死者の違いが意味を持つ。
不死者は死者であり、その存在自体が相容れない。だが亜不死者は未だ生きている以上、死に得る者であるには違いなかった。
もしもヘリテが不死者であり、にも関わらず死神へと祈る行為が成立したなら、そこには消滅しか道は無かっただろう。
「……確かに、全ての人間にはどの神に祈るかを選ぶ、改宗の権利が常に認められている……吸血鬼になっても生者であればこそ、死神に帰依する権利は失われない……いやしかし、そんな事が、起こりえるというのか……」
「起こりえると、私が証明しました。……人は、命は変わります。変われます。生きている限りは」
苦虫を嚙み潰したような渋面で、未だ目の前の現実を受け入れる事を拒否しようとするアッシャーに向かって、ヘリテは自分の胸元に手を当てる。
今ここに在る自分を見て欲しいとばかりに。
「ですが、私の信仰と意志だけで人として生きていくには、吸血鬼の習性と衝動はあまりにも危険で、不便でした。アッシャー司祭。あなたの懸念と心配は私のものでもあったのです。だから考えました。私が人の傍で生きるために、何が出来るのかを」
自分の人としての信仰を示すだけでは足りないと思った。
自分の在り方を、人に寄り添い易いものに変えたかった。
そして思い至った。まがりにも祈りによって得たものである以上、祈りによって手放す事は出来るのではないかと。
結果として、ヘリテは試し、不完全ながら望むものを得たのだ。
「私はこのまま人を喰らわず、ただ許し与えられた血だけを口にして、ガンガルゴナの地で人として生き人として死にます。……その誓いを、死神が認め、助けてくださいましたから」




