九章 小さな聖女は血に誓う(12)
飴は小さかったから、既に形は失われている。だが今もまだヘリテの口の中に甘みの記憶は残っている。
当分その記憶は失われそうにない。忘れないと思える事がまたヘリテの力になった。
力をまた思考の糧にして、ヘリテは考える。考え続ける。
「私が未だ生きていて、生きた人間だから出来る事は……」
そう、吸血鬼は亜不死者にして永命者。不死者ではない。
故に生きている。人とは少し違う形で。
なぜ不死者と亜不死者が分かれて存在するのか。
伝承によれば亜不死者を生み出す吸血神キヤルゴは元は不死神パストーの従属神だった。だが不死神によって不死化したものは死者である事には変わりなく、故に肉体のもたらす欲求と快感を殆ど失う。意志と思考、個としての行動の永続をパストーが祝福したのに対し、キヤルゴは生に伴う快楽の恒久をこそ祝福した。故に独自に信仰を集めて独立し、新たな邪神の一柱になる事が出来たのだと言われている。
人としての快楽と感覚を維持したまま、人を老いから解放した存在が亜不死者、即ち吸血鬼と屍食鬼。生まれ持った人の生を超越する代償として、様々な制約が求められたのもその自由度のためだった。
「でも私は人を食べたいの? 食べて、一体何がしたいの?」
自問自答するヘリテの脳裏に浮かんだのは少年の掌の暖かさと、クゥエルの常に気遣いに満ちた眼差し。
「違う、私は人を食べたい訳じゃ無い。……ただもっと、人として生きていたいだけ。生きて人の傍に居ることを、誰かに許して欲しいだけ」
少年の血に渇いて、でも奪いたくないからその場を逃れた。
クゥエルの血を与えられながら、自分から奪おうとは一度も思わなかった。
「だから私は……吸血鬼になってから、自分でキヤルゴに祈った事は……」
そこで先ほど吸血神を含めて自らの存在を問い、消せるものなら消してくれと叫んだ事を思い出す。
あれは厳密に言えば祈りではなかったが、今思えば危ういところだったとヘリテの心胆を寒からしめた。
もしも何かを間違えていたら、今度こそ人としてのヘリテは世界の何処にも居なくなっていたかもしれない。
後に残るのはあの悍ましき獣頭鬼に似た、人に仇為す怪物だっただろう。
だが、今はまだ違う。悍ましいと思える自分を、だからこそまだ人間だとヘリテは思うことが出来た。
「少なくとも今は……うん。大丈夫。私は、キヤルゴには祈らない。祈っていない」
ヘリテの意志は、邪神の眷属たる吸血鬼の身体に反して、なおも自由であった。
思えばホルクースもそうだった。
ホルクースもかっては屍食鬼であり、嗤い犬だった。だが【根の国】で長く暮らす内に、新たな知性とともにパストーへの信仰を得て従属神になるに至った。
「ホルクース様は、変わった……いえ、選んだのですね」
その時ヘリテは感じ取った。自分の目的を達するための大きなヒントがここにあると。
自分の中の奥底で一つの扉が重い音を立てて開いていく、そんな気配があった。
「そうか……亜不死者への転化は邪神信仰の呼び水でしか無いんだ……私が望んでキヤルゴが叶えた時に、一つの契約、術式は終わっているのね……」
邪神にとって、人を要求に応じて亜不死者に作り替える事自体に利がある事に、ここでようやくヘリテは思い至った。
自らの在り方に沿った亜不死者を生み出す事は、より世界に強く定着したい邪神に取っての望みでもある。秩序の神々と同じく邪神もまた神格である以上、世界へ干渉するには自らを世界の概念の一部として認め、崇め祈る大勢の信者が必要だからだ。
転化そのものがある種の奇跡――法術だ。邪神と信者――例え仮初めでも心から邪神に祈った者、そして中でも神格との精神的な親和性、法術を行使する資格を持つ者との間で成立する術式である。
だが、術式の成果が転化そのものである以上、変じた後は呪いのような制約は無い。対価は既に支払われているが故に。
だから、ホルクースは元屍食鬼でありながら、キヤルゴではなくパストーの従属神となったのだ。【根の国】の存在に意義を感じ、その守り手となる事を選んだから。選ぶことが出来たから。
変われたのだ。変わる事が出来たのだ。それが意味するところは一つだった。
「私もまた、選ぶことができる。……それは私が吸血鬼で、まだ生きている、人間だから」
同時にヘリテの弱みにつけ込んで肉体を作り替えた邪神が、外法の力をもってしても奪えなかったものが一つあった事にヘリテは思い至る。
それはヘリテを人たらしめるものの一部であり、邪神が邪神であるからこそ、触れる事ができなかった場所。
ヘリテの中に、既にないはずの選択肢がまだ息をしている。
全ての前提が、ヘリテの中で覆っていった。
その中で次々にひっくり返っていく認識の果てに、ヘリテは始まりの問いに対する新たな答えを得た。
何故自分が吸血鬼になったのか。キヤルゴを信仰したのは両親であり、ヘリテではないというのに。何故死に直面したヘリテが、吸血鬼に至る資格を有したのか。
違ったのだ。父にも母にも、自分にも。本当は皆、そんな資格は持っていなかった。
そうして辿り着いた結論に、ヘリテは最期にもう一度、大きな声を上げて泣いた。
泣き顔に誘われたように、すぐ傍の茂みが揺れる。
ヘリテは我に返り茂みを凝視したあと、驚きに目を丸くした。
現れたのは、集落で自分が庇った少女だった。ヘリテと同じように血と土で汚れた姿のまま、おっかなびっくりの腰の引けた態度で姿を現す。
そして開口一番に尋ねた。
「……だい、じょうぶ?」
「貴女は……え、何故、ここに?」
状況も質問の内容も理解できず、ヘリテは聞き返すのがやっとだった。
「逃げなかったのですか、それともまさか……アッシャー司祭が、貴女に何かを?」
「ううん、騎士様は、戻って来た他の巨暴鬼と戦ってて……わたしは、あなたが森に入っていくが見えたから……」
つっかえながら辿々(たどたど)しくも、少女はヘリテを追いかけて森に入った事を説明する。獣頭鬼は正確には巨暴鬼の劣化した亜種だが、一般的には混同されて語られる事も多い。
ただ、少女が何故そんな行動を取ったのか、その理由がヘリテには分からなかった。
しかしただの人間である少女が、異賊の存在する森に留まる危険性は無視できない。
ヘリテは言葉を選びながら、自分の心配と懸念を少女に伝えようと試みる。
「そうですか……いえ、ここもまだ危険です。他の無事な方と一緒に避難するべきです。……何より、私と一緒にいるのは」
「なんで……?」
返ってきたのは今にも泣き出しそうな疑問の声だった。
困惑するヘリテに向かって、少女は顔を歪めて問いを重ねる。
「なんであなたは、まだ、わたしの事を……見捨てないの?」
「そんな、見捨てる理由こそありません」
「わたしは、あなたの事を怖がったのに?」
思いもしなかった言葉に、ヘリテは背筋を一つ震わせて凍り付く。
確かに、少女の恐怖にショックを受けた事は事実ではあった。
だがあのような修羅場で、自分の感情が相手に伝わっていた事にヘリテは酷く動揺していた。
「あなた、すごく驚いて……泣きそうな顔をしてたの、憶えてる。それでも」
少女は顔をくしゃくしゃにしながら、ゆっくりと、一歩ずつ前に歩き始めた。
「わたしのために、異賊の前に立って……」
やがて少女はヘリテの前に立り、しゃがみ込んでいた。
そしてそのままヘリテの肩から背に手を回して、抱き締めた。
いけない、とヘリテの心の何処かが警鐘を鳴らす。
止めなくては、と理性の上澄みが訴える。相手はクゥエルではない。万が一、何かの拍子に自分が強く動揺したら、目の前の少女は瞬く間に凍り付いて、そのまま砕け散ってしまうかもしれない。
ハギルの息子の時は運が良かった。だが幸運は続くとは限らない。
頭では分かっていた。なのにヘリテは動けなかった。凍り付いたように、指の一本すらも。
「ごめん、ごめんね……助けてくれたのに。あなた、私よりも年下でしょう? 顔を見たらすぐに分かった。村の、小さな子供と、泣き顔、そっくりで」
暖かかった。少女の頬から首筋に滴った涙に至っては、火傷するかとすら思うほど熱かった。
本当に久しぶりの、全身で感じる、クゥエル以外の人間の体温だった。
屋敷に住んでいた頃は、こうして誰かと触れ合える事は当たり前で、だからこそ吸血鬼に転化した後のヘリテには、まるで世界にはたった二人しかいなくなってしまったようにすら感じたのに。
「あなたは、私を助けてくれたのに……怖がって、ごめんなさい」
「……いいえ、いいえ」
ヘリテはようやく再確認する。
自分が寂しかった事を。
クゥエルの嘘にあれほど激昂した理由を。
クゥエルがホルクースに捨て身の一撃を仕掛けた時と同じだ。
ヘリテにとっての世界は、たった二人には広すぎたのだ。そこからさらに一人に放り出される事は、底の見えない崖下に身を投げるに等しかった。
おずおずと、ヘリテも少女に手を伸ばす。少女よりもよほど臆病な仕草で。砂で出来た緻密な城に触れるように、そっと。
触れたら消えてしまうのではないか、そんな恐怖を除けなかった指先は、しかし確かに少女の背中の実在を伝えた。麻の服は血と泥で固まって、お世辞にも良い手触りとは言えない。
なのに、思い切りしがみつきたくなる衝動を抑えるために全身が震えた。不意にこの手応えが消えてしまうのではという恐怖に頭が痺れた。
「私の方こそ……怖がらせてしまって、ごめんなさい……」
気がつけば、ヘリテの声も涙で潰れていた。
「そんな、そんなつもりは……なかったんです……」
「大丈夫、わかるよ……うん。あの時は、あんなだから、びっくりしちゃって……でももう、大丈夫。分かるから。今はもう、分かってるから」
そっと頭を撫でてくる手に、さらなる涙が溢れた。
母にされたように、幼子として宥められる事に喜びと罪悪感を覚える。
クゥエルとの関係は根底に執事と主人という上下が存在し、それ故にヘリテは遠慮無く甘えるのと同時に心の何処かを戒めていた。
だからこそどうしても見せられなかった弱さが、今溢れ出している事を自覚する。
愛される事に欲深く、関係を我が儘に利用する卑怯者。
それもまた自分である事を認識して。
――本当はそんなものは、罪に感じるような年齢では無かったとしても。
「あなた、吸血鬼なのね?」
「……はい」
少女の質問を、ヘリテは素直に肯定する。
実際に生きた年月の割に強すぎた理性は、今白い多幸感と金色の安心に溶けてしまっていた。
「もし、他の人を襲うのが怖くて、森に逃げたなら」
少女の提案の先を予想して、ヘリテは何度目かも分からぬ大きな驚きに目を見張り。
「わたしで良かったら……少しなら、大丈夫だと」
「いいえ、いいえ。大丈夫、何もいただかずとも、平気です」
最期まで言わせる事無く固辞した。
心からの笑顔と共に。
「私はもう、欲しかったものは、十分にいただきましたから」
若干甘く、そして長めに、ヘリテの少女としてのほぼ最後のパートが終了でございます。どういう意味かが伝わるように頑張って書いてまいりたい。。
次回、狂犬共の戦場へトンボ帰り、その後はエピローグを除けば本当の最終局面へ。
さらに加速して参りたいと思います。よろしくお願い致します。




