九章 小さな聖女は血に誓う(11)
最初はただの休眠期、あるいは閑散期とでも言うような任務だった。
湖岸都市インフェルム、その領主たるインフェルム湖岸伯の元に派遣されたのは四年前、ヘリテはまだその時八つの誕生日を迎えていなかった。
湖岸都市に深淵教徒の影がちらつくとは言われていたが、当時はまだ活動と言えるほどのものは無い。短期間で複数の任務をかなり豪腕な手法で達成した後のクゥエルからすれば、ただの監視など欠伸の出そうな退屈なものだった。
執事として雇用された後も、その印象はしばらく変わらない。
クゥエルから見たインフェルム伯は公私のバランスの取れた好人物ではあったが、身内にかなり甘い傾向が垣間見えた。往々にして、この手の人間こそ起きた悲劇に耐えきれず邪神信仰に転げやすい事をクゥエルは知っている。神殿の見立もある以上、時間の問題かと冷ややかに観察していた。無論生真面目な堅物の青年執事として振る舞いながらだ。
鋼のような冷徹に狂いが生じたのは、任務に就いて初年度のある嵐の夜だった。
ヘリテの体調は十歳を過ぎた頃から安定し始める。逆に言えば十歳以前は起きているよりも横になっている時間の方が長いほど、些細な理由で体調を崩した。
天候による影響も受けやすく、乾いた晴天が続いては倒れ、重い曇天が来れば熱を出すといった有様である。
だからその晩も、例に漏れずヘリテは高熱に浮かされてベッドに伏せていた。
この時インフェルム夫妻は外出中だった。遊んでいた訳では無い。湖岸都市というだけあって水害には敏感な土地である。災害対策の陣頭指揮には屋敷に籠もっていては不便だから、街中の指揮所に詰めていたのだ。夫人もインフェルム伯を補佐するため同行していた。娘の傍についていたい気持ちも無くは無かっただろうが、領主とその片腕として公務を優先させた形だ。
季節は夏。
降り注ぐ強い雨も空気を冷やし切るには足らず、室内であってもうっすらと汗ばむ程の蒸し暑さだった。
閃光が分厚いカーテンを抜いて室内を一瞬照らす。次いで鉄塊が激しくぶつかり合ったような雷鳴が轟いた。間隔は短い。落ちたのは屋敷から遠くない場所だろう。
天蓋付きの豪奢な寝台の上にはシーツの上から薄い綿入れの上掛けが掛けられて、ヘリテはその中で横たわっていた。
安静にしているはずなのに、巨大な寝台に埋もれるように横たわる小さく華奢な身体は、怪物の顎に飲まれんとする生贄のようにも映る。
普段が薄桃色の肌は熱で薔薇色に染まっていた。額においた濡れタオルを井戸水で冷やしたものに取り替えてやると、多少は楽になるのか寝顔の険しさが幾らか和らぎ、苦しげな息も少しの間落ち着いた。
一人屋敷に残されたヘリテに付く事を命じられたクゥエルは、甲斐甲斐しく看病しながらも淡々と思考する。
(この娘も、長くは無いだろう)
孤児だった頃から、似たような人間を見てきたからこその感想である。
弱い命は気配で分かる。生物としての本能のようなものだった。
魔術法術も万能ではない。生まれつきの虚弱体質である以上、下手に神官に治癒法術を頼む事も出来ない。自然な有り様を無理矢理に収めようとすると、天命を悪戯に消耗してさらに寿命を縮めてしまいかねないからだ。
魔術の方はといえば、そも人の身体を癒やす行為は極めて難易度が高い。大雑把な言い方をすれば不自然こそが魔術の本質、自然を自然なまま調節するのは本義ではないのだ。
あるいは、術も無く彼女を失う事こそが湖岸伯を決定的に転ばすのかもしれない、と冷ややかに考察していたその時。
もはや何度繰り返したかも憶えていない、新しく絞ったタオルを額にあてがう手に、熱く柔らかいものが触れる。
小さく熱を持ったヘリテの指先だった。
高熱に朦朧としていたヘリテが意識を曖昧の浅瀬に浮上させて、クゥエルの手を儚い力で掴んだのだ。
看病の邪魔にならぬよう、どう指をもぎ離すか思案するクゥエルに、ヘリテがか細い声で言った。
「……ありがとう」
一言一言を口に出すのにも閉口しながら、それでも懸命に言葉を繋ぐ。
「でも、わたしは、だいじょうぶだから……あなたも、もう、やすんで……ね……?」
しばしの間を空けて、クゥエルが答える。
「……お嬢様がお休みになるまでは、ここにおります」
曖昧な状態でも、ヘリテに言葉は届いたようだった。
その証拠に、少しだけ開いていた瞼が閉じて、その目尻に涙が浮かぶ。
クゥエルの手に添えられていた手が、ほんの少しだけ握られた後に上掛けの下へと引っ込んでいった。
「ありがとう……ごめんなさい」
ヘリテの声は先ほどよりも弱々しく、喉に何かを詰まらせたように掠れていて、苦しげだった。
何を謝っているのだろうと、クゥエルは内心で首を傾げる。
苦しいのはむしろ自分の方だろうに、よくも他人の負荷に気が回るものだと。
自分の頬を静かに熱いものが流れているのに気付いたのは、少し経ってからだった。
たったこれだけ。たったこれだけだ。
たったこれだけの事に、初めてクゥエルは他者に自分の中にも無かった“人間”を見つけた。
十人に聞けば十人が何をそれしきの事で、と鼻で笑う。そんな世界で生きていたからこそ、クゥエルにとっては天地が逆転するにも等しい衝撃だった。
血統や生殖欲求による本能的な執着ではない、利他の心。
欲望では無く理性を根底に持つ人格。
当人が最も苦しい時に発露する優しさは、クゥエルからすれば正に奇跡だった。
そんな不合理を持つ生き物が存在するなど、クゥエルは知らなかった。
ヘリテはこの時からクゥエルにとっての人間の原型器となる。
そして三年と少々をヘリテの傍で過ごした結果、クゥエルは更に一つの結論を出すに至っていた。
「――“人間”とは、私にとってこの世でヘリテ様、唯お一人を差す言葉です。私の知る限りにおいて、他は全て人間と呼ぶに値しない。私自身を含め、所詮は言葉を操る程度の唯の獣です」
ヘリテが吸血鬼に転化してなお、この認識は揺るがなかった。
刷り込みという表現は正しいだろう。でなければクゥエルの認識はある種の妄信、あるいは狂信と呼ばれても仕方が無いのだから。
――実際には、ハギルとその家族のような存在はクゥエルにとっても例外的に判断の揺らぐ相手であり、という事はクゥエル自身の視野と経験の不足は否めない。だがクゥエル自身の世界を広げるには、世界は過酷過ぎたとも言える。何より人の秘めた内心に、一体誰が非を咎められるだろうか。
「故に、例え拒絶されようとも、私はヘリテ様の従者であり続けます。もはや他の何者も、私にとっては主たり得ない。執事の主人は人間であり、獣でも化け物でもないのだから」
段々げんなりと疲れた顔を見せていたアッシャーを一顧だにせずに、クゥエルは最期まで自分の思いを言い切る。
「ヘリテ様に生き続けていただく事。ただそれだけが私の欲望であり、私にできる贖罪です」
「……久しぶりですね、質問したのをここまで後悔したのも。僕も相当イカレてる自覚がありますが、従者クゥエル。君は正直、軽々と僕の上を行きそうですよぅ」
「好きに比較されるがよろしい。ですが、そもそも貴様らの傲慢も棚に上げて良いものではないでしょう」
ついに溢れ出した慇懃無礼の綻びに、少し面白そうにアッシャーが片眉を上げる。
「ほう、というと?」
「ヘリテ様が吸血鬼に転化したのはヘリテ様の罪ではありません。キヤルゴに傾倒したインフェルム伯夫妻、見境無く屋敷に火を放った貴様ら死神教会と、何より貴様らを屋敷に招き入れ、果てに夫妻を手に掛けた私自身の罪です。お互い、何の罰を受けないというのは虫が良過ぎるかと」
「流石にそいつは拡大解釈の濡れ衣だ、と言いたいところですが……まぁ、僕のやり方はよく仲間内にも怒られますしねぇ。今更否定するのも白々しいか」
にやりと笑って、アッシャーは改めて大剣の柄を握りしめる。
「だとしても、どんな情状酌量も、自由に吸血鬼を闊歩させる理由にはなりませんよぅ……正直なところ、本当に思ってるんですか。僕が君に止められると」
対するクゥエルは、不意に美しく正し過ぎる立ち姿を取った。真っ直ぐにその場に直立し、顎を軽く引き、腕を後手に組む。
浮かぶ表情もかって屋敷に仕えていた頃の、端正な無表情へと戻っている。
ただ、その全身が放つ鋭利な気配だけが違っていた。
「私は影神の信徒、深淵教徒ではありません。……だが、彼等の息の根を散々止めた私が、彼等より悪辣でない証拠もまたありません」
「ははは、それは遠回しな皮肉ですか?」
「いいえ、私が言いたいのは……これは一方的な狩りではない。肉食獣同士の闘争だ、という事です」
クゥエルの姿が、自らの影法師と一体化したように黒々と染まる。
次の瞬間、自分自身を投げ打ったのかという速度で、執事は神殿騎士へと躍りかかっていた。
確かにその姿は人と言うよりも獣か、あるいは一振りの凶器そのもののようであった。
うん、書いておいてなんですが……お前本当にそれでいいのか……いや人間本当にそんなもんだと思ってるから書いてるんですけど……。
世にも珍しいアッシャーのドン引きでございました。
次回、再び少女独唱……から、輪唱?




