九章 小さな聖女は血に誓う(9)
警告、というほどのものでもないのですが……。
今回、前回以上に殆ど地の文でございます。それも大分こねくり回してます。
一気に読もうとするとお疲れになるかもしれませんので、適度に休息を挟みつつごらんくださいませ。
後は後書きがないのでここで書きますが、次回場面変わります。
独唱、執事パートへ。
「……」
洗練された高級菓子に慣れ親しんだヘリテにとって、決して見目の良い食べ物とは言い難いはずの代物。
なのにヘリテの目には、それがまるで黄金を満たした宝石のように見えた。
ヘリテは、のろのろと鈍化した思考のままに宝物のような飴玉を口に入れる。勿体ないと思う心も少しはあったが、もはや疲れて擦り切れた理性には衝動的な行動を押し止めるほどの力は残っていなかった。
「……甘い」
最初に浮かんだのは、ただただその一言だった。
同時に少年の笑顔を思い出して、ヘリテは再び湧き上がるままに滂沱と涙を流す。
少年をきっかけに、旅の様々な思い出がヘリテの脳裏に去来した。
悪夢に揺り起こされた洞窟での眠り。初めて歩く深い森の景色と匂い。
渡河のために背負われた背中の硬さと暖かさ。懐かしい香草茶の香りと、曖昧になった味覚への落胆。
ハギルとその家族の暖かい会話。悍ましき屍食鬼達の哄笑。
巨大な嗤い犬として出会い、半神とは思えぬ愛嬌と半神に相応しい畏怖をばらまいたサウザン――ホルクース。冷たく静かな、湖の底のような【根の国】で過ごした緩やかで寂しい時間。
一月にも満たない間に起きた事々が、遠い昔の記憶に思える。現実味を失って幻のような思い出となって、それでもヘリテの胸を締め付けた。
どこか朧気ながら久しぶりの甘味に無心で飴を口の中で転がした後、ヘリテの内心にふとした疑問が浮かんでくる。
「……なぜ、私はこの飴を甘いと思うのだろう」
自問自答が口から零れた。
ヘリテは吸血鬼になっており、通常の栄養素の不足では死なず、代わりに人間の生き血を摂取しなければやがて死ぬか、嗤い犬のように人としての知性を失った怪物と化す。
事実クゥエルの血を呑む時いつも熱さと香しさ、そして溶けるような甘さを感じる。だが、飴玉とは違う甘さだ。自分が吸血鬼という人喰いに転化した以上、飴を甘く感じる必要は無いはずなのに。
今もなお、口の中の飴は甘い。
「……おかしい」
強い違和感があった。
ヘリテの中で、これまで全く無関係に散らばっていた知識と記憶が、急に見たことのない断面を垣間見せていた。
甘いとは本来、食べた物が自分にとって滋養がある事を示している。
これは確か父たるインフェルム伯がティータイムに教えてくれた事だ。母の厳しい視線から逃げるようにして、父は焼きたてのスコーンにクリームと糖蜜を挟みながら、苦しい弁明をヘリテに教える形で遠回しに主張していた。
普通の食べ物で飢えを満たす事が出来るなら、吸血鬼が無理に血を吸う必要は無い。
だから吸血鬼の身体は、血を摂取させるために吸血衝動を引き起こす。
でもだとしたら、毒性を知らせる苦みや酸っぱみ、痛みの延長である辛みは残しても、血以外のものに塩味や甘みを感じさせはしないはずだ。
ここまでが、飴が甘いと感じる必要が無い理由。
そこから現実には飴を甘く感じる理由について考え始めた時、ヘリテは新しい矛盾にも気付く。
吸血鬼の常駐術式、〈熱量収奪〉だ。
人の身の枷を大きく取り払った吸血鬼の身体は、代償として動くための熱量を過大に欲する。
熱量の要求こそが飢餓であり、無意識に〈熱量収奪〉を発動させ、吸血衝動を引き起こし、飴を甘く感じさせる。
これが示す事は、吸血鬼はそもそも血液だけで全ての栄養を補うようには出来ていないという事だ。
つまり吸血行為は、単純な食事行為ではない。血によって得るものは多いが、必ずしも生存に必要な行為ではない。
その可能性に思い至った時、ヘリテは頭部に雷が落ちたような衝撃を覚えた。
「私は、吸血鬼は……本当は血を吸わなくても、人を襲わなくても……生きて、いられる?」
あくまで可能性であり、まだ仮説でしかない。
だが、他にも裏付けるような現象があった。
嗤い犬の存在だ。
彼等は皆、元は屍食鬼だ。吸血鬼と同じく、永久の生を求めた人間がキヤルゴに祈り転化する亜不死者。
屍食鬼が人肉を長く摂取出来なかった時、屍食鬼は知性と人の形を失って嗤い犬になる。
亜不死者として屍食鬼と吸血鬼は大枠において同じものだ。どちらになるかは主に転化する前の適性に拠ると言われている。同じ神に祈る人間の中で、神の声が聞こえるものと聞こえないものがいるのと同じ事だろう。
であれば、亜不死者にとっての人肉食は同じ目的であるはず。
つまり、人としての理性と人格を維持するため。人から外れた身体は、放っておけば内面までも人では無いものに引きずっていってしまう。だから人を取り込む事で、人の形を亜不死者の血肉に思い出させるために。
――ヘリテの思考がそこまでは回らなかったが、同時に吸血神にとっても共食いや吸血行為は自らへの信仰者を囲い込むために有益だった。人を喰う者は人の社会にとっては有害であり、排除すべき対象である。疎外された者達はされた者同士の集団を形成する。
すると集団にとって有益な神をますます熱心に崇めるようになり、また仲間を増やそうと画策する。
根本が人間という社会を作る生物であるが故に、利害を共有する集団は大きくなるほど生存し易くなるからだ。集団が生存するために振り向けられる人力が増すが故に。
「飴を甘いと感じるのは、それを栄養に出来るから。栄養を消費して、熱量を使って生きているから」
ある程度形を為した思考が、水底に生まれた泡のように浮上し、口から溢れる。
「熱量以外に、人の血肉を求める……亜不死者を人に留める鋳型として」
亜不死者だけでなく不死者もまた〈熱量収奪〉によって熱量を求める。それは多くは生きている人間や他の生物の体温を初めとした生気である場合が多い。だが彼等は人肉や血液を求める事は無い。
それらを求める肉体が無いからだ。死体に宿ったまま動く屍鬼も、食事や呼吸を必要とはせず、〈熱量収奪〉やそれ以外の魔術的な方法で熱量を確保するだけだ。
不死者は死者だから。肉体があってもそれはただの居場所であり、生命活動の一切はすでに終了している。だから肉体は精神に影響しない。もう変化しない物だから。
亜不死者は生者だ。ただ死を遙か向こうに遠ざけただけの。だから肉体は機能し、変化し、影響する。
「本当に必要なのはそれだけ……だからもし、鋳型から溢れ出る私を、人を害さない方法で留める事が出来るなら……」
衝動に勝つ限り、吸血鬼が人間の範疇に収まるという可能性。
夢幻、あるいは都合のいい妄想かもしれない。
だが、だからこそ想う価値が有った。
「私は……血を欲さない。血を欲していない今の私は……多分きっと、人間で」
例えば誰かの助けを得て少量の血を摂取し続けられるなら、後は身体能力と寿命の長さ以外に、吸血鬼と人間を隔てるものは無いのではないか。
そこまで考えて、しかしヘリテは頭を振った。
考慮が足らない。常に安定して血を分けてもらえると考えるのは危険だ。わずかな時間でも発生した飢餓の衝動は理性を砕き、結果的に人を邪神の眷属に変える。
そうならないための戒めが必要だった。
「私は人でいたい。人として生きたい。人と共に生きたい。……そのために、必要なのは」
森を吹き抜ける風が、暖かくヘリテの頬に触れた。
自分の中に際限なく落ち込んでいた意識が、久しぶりに外界を感覚し始めていた。
「私を人の形に縛る……強い枷。あの子がくれた飴の甘さが私に人を思い出させた……身体が精神を引っ張るように、精神もまた身体を引っ張るから……あ」
枷。
求める物は、最初から目的地に在った。
ならば後に残るのは、ガンガルゴナまで辿り着くために目の前の試練を乗り越える事。そのために何が出来るかを考える事だった。
あのアッシャーに、普通の説得が通るとは思えない。
強い盾が必要だった。あの狂信の激流を耐えるに相応しい、強固なる大義の盾が。




