九章 小さな聖女は血に誓う(8)
「うっ……うぅ……うあぁっ!」
溢れ出る声はもはや言葉にならなかった。
獣頭鬼の咆吼ともまた違う。例えるなら、それは赤子の泣き声だった。言葉を覚える前に生まれる不安と悲しみは、文字通り筆舌に尽くしがたい。
それでも言葉にならない思いを無理矢理に言葉に直すなら、ヘリテの心境はこのような有様となる。
――何もかも灰になってしまえばいい。過去も未来も。そうすれば自ずと現在も塵となって消え失せるだろう。
何処まで深く森に分け入ったかも分からぬまま、何時からかヘリテは地面に手をついて這いつくばっていた。
自分が何時から、どれだけの間この姿勢でいるのか、まるで思い出せない。意識に霧、あるいは煙が立ちこめているかのようだった。
「あぁ……はっ……かはっ……はぁ――」
荒らげた呼吸が一向に静まってくれない。
冷たい汗が首筋を濡らし、心臓が割れ鐘のようにけたたましく不協和音を鳴らしている。
吸血鬼となってから、完全に体力を使い果たしたのは初めてだった。別の意味で不自由だった人間の身体に戻ったような気分になって、ヘリテは悲しくなった。
人でも吸血鬼でも、結局自分が居ていい場所など最初から何処にもなかったのでは、そう思わずにはいられなかったからだ。
やがて空気には冷たい湿り気が混じり始める。
消耗した身体が反射的に周囲の熱量を吸い上げて回復を試みているのを自覚して、ヘリテは自分の浅ましい生命力に吐き気を伴う嫌悪感を抱く。幸か不幸かゼオラの木々の生命力は高く、ヘリテの〈熱量収奪〉にもよく耐えた。これがガゼットリアであれば若木の数本が凍り付き、その場で硝子の管のように砕け散ったかもしれない。
不幸だったのは、ろくに熱を補う事も出来ないような環境であれば、この場でヘリテも枯れ落ちるか、人としての正気を手放して結果的に楽になれたかもしれなかった事だ。
そう思った瞬間自分の存在に耐えきれなくなって、ヘリテは一人叫んだ。
「あぁ……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
叫びは何にもぶつかる事無く、大小群れなす木々に吸い込まれて消えていく。
「地神でも夜神でも、吸血神でもいい……教えてください……」
ヘリテはヘリテ自身が呪わしかった。忌まわしかった。
これほど転化して生き残ってしまった事を後悔した事は無い。
前を向けば逃れられない死が、後を振り返れば許されぬ罪が目に飛び込んでくる。
罪と言ったが、もちろんヘリテ自身の過誤ではない。
過ちはヘリテの行動ではなく、ヘリテの存在そのものだった。少なくともヘリテ自身はそう思った。
「私に、何処へ行けというのですか……答えてください。誰でもいいから、答えてよ!」
生まれ出る事について赤ん坊には何の選択権も無い。
故に生まれ落ちた時には既に、ありとあらゆる不平等はその背中に背負われている。
万人は生まれながらにして不平等である。その一点についてのみ万人は平等だった。
インフェルム伯家に生まれた事も、生まれながらにして身体が弱かった事も、全てヘリテが望み選んだ事では無いが、逃れられないヘリテ自身であった。
だからこそ、ヘリテは生まれた事そのものを恨まざるを得ない。
自分が自分である事からは、決して逃げられないから。
だからこそ、せめて誰かに従いたかった。神とは、こういう時にこそすがるものではなかったのか。
「神様でしょう? 神様なら、教えてください! 導いてください! じゃなかったら……何のための神様なのですか!」
だが、その嘆きに応えるものはいなかった。邪神ですらも沈黙を守った。
「せめて……何も答えてくれないなら、せめて……」
湖岸都市の生家にも、ガンガルゴナのナクト神殿にも至れないのなら、残っているのは死ともう一つ、死に限りなく近い【根の国】のどちらかだ。
ホルクースの名を、例え声に出さずとも心の底から呼べば、あの剽軽で優しく、義理深くも恐ろしい嗤い犬はすぐに迎えに来てくれるだろう。その確信がありながら、ヘリテはしかし躊躇っていた。否、恐れていた。
絶望と呪いを抱えたまま、閑かで穏やかな地の底で長い時間を過ごす事を恐れたのだ。存在する苦しみから解放されるまで、一体どれほどの時間を必要とするのか、まるで予想がつかない。
だが正直に言えば、ヘリテは今すぐにこの苦しみから解放されたかった。
「どうか私を……この世から消し去って……。生まれた事すら、無かった事にして……」
心からの願いに、やはり沈黙以外の何も返っては来ない。
聡明なヘリテをして、この時の自分の願いが祈りではない事を理解する事は出来なかった。
ヘリテの願いは呪いだった。自分自身に向けられた呪詛は、その実行を誘い惑わす事は出来ても、決して他者の手によって叶えられる事は無い。例え神であろうと、悪魔であろうとも。
自らへの呪詛を叶えられるのは、呪った本人だけなのだ。
そしてもう一つ、ヘリテには自覚の無い矛盾があった。
本当に心底から消滅を願うなら、ヘリテはただあの恐るべき神殿騎士――アッシャーに自らを預ければ良いのである。
だがそれが出来なかった。考慮する事すらできずにいた。ヘリテの目に映るアッシャーが、絶対的な死と苦痛を象徴していたからだ。
知るべきでは無かった両親の死の真相と、絶対の信頼を置いた執事の嘘に完膚なきまでに心を砕かれてなお。
ヘリテは死を望みながら、同時に死への恐れを捨てきれなかったのだ。
愚かしく、醜く、浅ましくも我が儘に、されど生物として当然の事として。
結局のところ何処へも辿り着かない望みを抱いたまま、ヘリテはしばらくの間一人で泣いた。
「……?」
どれだけ泣いただろうか。後も先も思えない中、もはや時間感覚はあってないようなものだった。
ふとした時、伏した目の前の地面に何かが落ちている事にヘリテは気付く。
少しだけ鬼の血が滲んだ、手の平に乗るような小さな布の塊だった。
ヘリテは弱々しく起き上がり、殆ど無意識に布の包みを拾い上げて膝の上で開いてみる。
「……あ」
出てきたのは淡い琥珀色をした粒子の粗い結晶。
霧の山道で同道した馬車の中で、ハギルの息子がくれた糖蜜の飴だった。
次回、少女独唱続行。されど血を吐く時間は終わり。




