九章 小さな聖女は血に誓う(7)
突如として少し離れたところ、開拓村の奥から悲鳴が聞こえた。
加えてついさっきまで耳を塞ぎたくなるほど煩く響いていた、獣じみた怒号も。
先に森に逃げた村人を追いかけていた獣頭鬼の一部が、沈静化した村の様子に気付いて戻ってきたのだ。
再び集落に恐怖と混乱が満ちていく。
気付いたアッシャーが騒がしくなった方を見て、眉をひそめた。
「おっと、流石にこいつは放っておけませんねぇ。仕方ありません」
まだ残っていた異賊を掃討するため、アッシャーは大剣を担ぎ直した。
そしてその場を立ち去り際に、思い出したようにヘリテに指を突きつけて一言二言を小さく呟く。
ヘリテの首にちりと小さく痛みが走り、次いで肌に三日月のような刻印が浮かぶ。〈探索者の印章〉と呼ばれる探知術式の一種。刻んだ者に居場所を知らせる見えざる灯火だ。
「それは死神の神官以外には消せません。今から何処に逃げようと、必ず追いつきます。無駄な抵抗はしない事をお勧めしますよぅ」
もはや俯いたまま動かないヘリテに向かって、アッシャーは一方的に通告する。
「ガンガルゴナに着いた貴女は、生き続けようとする限りいずれ間違いなくキヤルゴ神殿の門を叩くでしょう。であれば僕がここで見逃す理由はありません。放っておけば貴女が生きているだけで際限なく血が流れます」
遠ざかりながらも、血と泥で汚れた背中は燃えるような威圧感を放っていた。
ヘリテでもクゥエルでも、ここで破れかぶれに襲いかかったとて一瞬で首が落とされる、そんな予感を覚える程に。だが二人とも、そもそもそれどころでは無かった。
幸運な事に。
――事実それはアッシャーの誘いだった。精神的に参った相手の衝動的な攻撃なら、一瞬の交差で事足りる。引っかかってくれれば振り返り様の一太刀の後、手間が省けたと笑っただろう。
自分から仕掛けようとしないのは、より優先すべき事柄が目と鼻の先にあっただけの事だった。
「明日の未明には迎えに来ます。それまでに選んでおきなさい。自ら穏やかな死を受け入れるか、抗って我が剣の錆となるかを。どちらにせよ、僕は貴女の死を見届けずに帰る気はありませんので、あしからず」
それだけ言い残して、アッシャーは再び響き始めた悲鳴と咆吼に向かって駈け出した。
茫然自失となるヘリテの前に、跪くクゥエル。
「お嬢様」
「クゥエル……」
日光に焼かれてから、ずっとヘリテは地面に膝をついたままだった。
未だ立ち上がれないまま、呆然とした顔で小さく震えながら、ヘリテはクゥエルを見つめる。
一抹の希望にすがって。
「本当に貴方が、父様と母様を……」
「……はい。あの騎士の口にした内容は、事実です」
希望は、あっけなく途切れた。
目から光を失ったヘリテの首筋、〈探索者の印章〉に指を触れてクゥエルが目を閉じる。低い詠唱をしばらく続けた後、クゥエルは手を引いた。
確かに印章は対抗魔術で消せるようなものではなかった。クゥエルの技量をもってしても、である。
クゥエルは傅いたまま、静かに言葉を続けた。
「今まで黙っていた事をお詫び申し上げます。もはや贖うにも限度がありましょうが、この責はガンガルゴナに着いた後、影神に誓って如何様にでも受ける所存です」
「……」
「その上で、どうかお聞きください。……あの死神の神官が述べていた誓約とその代償についても、また事実なのです。〈慈悲深き夜の首飾り〉は極めて厳格な誓約術式です。課せられた者は時に無意識のまま誓約を破り、死にます。猶予も再審も無い、およそ人に耐えられる術式ではありません」
「……」
「ですが、必ずしも誓約を結ばずとも、ガンガルゴナであれば亜不死者が生きていく事は可能です。邪神の教会に実際に参加する必要もありません。全ての教会から一定の距離を維持している、魔族の互助会にツテがあります。まずはそこを頼れば……」
「……んで……」
そこまでずっと黙りこくっていたヘリテの口が動いた。二度三度と、ただ開閉するだけの文字通りの動作を繰り返した、その後で。
「なんで今更……そんな事を言うの!」
堰を切った激流のように、言葉が溢れ出す。
「なぜいっそ最期まで、欺してくれはしなかったの!」
言葉は勢いも意味も、まさに激流だった。数多の負の感情で濁りに濁りきった、言葉の濁流。
ヘリテの理性が一人の少女としては強過ぎたが故に、ずっと水底に沈められていた泥のような思念が、今激しい流れの中で捲き上げられていた。
「今更です、今更過ぎます! ここまで来てそんな事を知って、貴方は私にどうしろと? 何もかも忘れて、生きろと? いくらなんでも勝手すぎる!」
「ヘリテ様……」
「卑怯者! 父様と母様を返して、返してよ!」
初めて、ヘリテが拳を握ってクゥエルを打った。
打ったと言っても、幼子が振り上げた拳を何度も振り下ろす仕草そのものだ。およそ力のこもった打撃ではないが、それでも吸血鬼本来の膂力に頼っていたなら、人間の骨くらいは容易くへし折れはしただろう。
だがヘリテの殴打は、実際に幼子の癇癪とまるで大差のないものだった。
そしてその無力さが、かえってクゥエルの心を強く痛めつける。
自分が一体誰を、どれほど傷つけたのかを、否応なく思い知らされて。
所詮はまだ幼い少女たる主が、どれだけ自分を信頼し、今もなお信じたがっているのかを理解させられて。
「私は……私は、吸血鬼になりたかった訳じゃない! あの時は死にたくなかった、だけど……結局は死ぬなら、せめて人のまま死にたかった!」
強い理性故に高圧で押し固められていた負の念は留まるところを知らない。
泥は何時しか熔岩になっていた。自他を焼き溶かす鈍重な高熱の奔流。
「二人を殺してまで助けて欲しいなんて、絶対に私は言わなかった! 父様と母様を貴方が殺したと知っていたら……きっと、貴方の手なんて取らなかった!」
クゥエルの肩がほんの一瞬小さく震えるのを目にして、ヘリテは口にしてすぐに自分の言葉が嘘だと分かった。
火の海の中で燃え尽きようとしていた自分には、差し出された手以外の何も見えなかったのだから。あの手は文字通り、孤独に死ぬはずだったヘリテにとっての救いの手そのものだった。
だが理解してなお、罪悪感におののく理性とは裏腹に、吐き出す言葉は止まってくれない。
ヘリテはクゥエルを信じていた。信頼していたし、今もまだ信頼しているのだ。だからこそ止まらない。止まれない。
寄りかかった心が衝立を失って、バランスを取ろうと無様に両手を振り回す。掴まるものを探すが、虚空をただ攪拌しただけだ。そこにあると思っていた無償の人の善意は、憐憫と罪悪感で膨らませただけの張りぼてだった。
今はただ、そうとしか思えないでいた。
「一人にして! もう、私の事は放っておいて!」
そう叫んで憤然と立ち上がり、何処とも知れずに走り出す事が、この時ヘリテに出来る最善にして唯一の行動だった。
不断の従者たるクゥエルも、流石にこの時彼女を追える足は持っていない。
だからもう一つ、森の中へと逃げ込むように走る彼女の背を負う視線がある事にも、また気付く事が出来なかった。
修羅場収束……収束? してなくない!?(お前が言うな)
次回、ヘリテ独唱。




