九章 小さな聖女は血に誓う(5)
長かった……ようやく、ここまで来たかぁって感じです……切りのいいとこまで突っ込んだらちょっと文字数が普段の五割増しくらいになってますので、時間のある時にゆるりとご覧ください。。
「あの宿場町じゃあ殆どすれ違いでしたからねぇ。ようやくちゃんと自己紹介が出来るってもんです」
そう言うとアッシャーは被っていた猛禽のような兜の覆いを跳ね上げて、素顔を露わにした。
殆ど常に浮かべている、目を細めて微笑んでいるように見える表情。
ヘリテは最初若い男だと思った。だがすぐに分からなくなった。
男が笑っていない事に気付いたからだ。それはただ、木の面に付けた切れ込みが笑顔のように見えるのと同じだった。
それは笑いを表現する記号だが、感情の発露としての笑いとは別物だ。
人の良さそうに見える仮面を、ただ効率がいいからと被っているだけの人間の顔。
ヘリテは時折、屋敷に出入りする商人の中に似た表情を浮かべる者を見つけた。
その顔をする商人は大抵寒気を覚えるほどに打算的で、呼吸するように嘘をつく獰猛さを持つ者だった。
「お初にお目にかかります。ディスクティトラ神殿ベイベルノート分殿所属、紫花槍遊撃騎士団元副団長、アッシャー=ダストと申します。どうぞよしなに、ヘリテ=インフェルムお嬢様」
一息の自己紹介。
ベイベルノートはバルボア炎帝国の第二都市だ。バルボアの魔法学院も存在する、カーナガル有数の魔術実践研究の街。ヘリテも行った事は無いが、名前だけは聞いている。
元、という言葉に引っかかりを飲み込んで、どうにかヘリテは状況に相応しい言葉を選んだ。
「あ、あの……ありがとう、ございます。助けていただいて」
「いやぁ、礼には及びませんとも……なにせほら、この通り」
血に濡れて怯えながらも感謝を述べるヘリテに、アッシャーは感謝を断りながら笑って、首元から首飾りを取り出してかざした。
ヘッドには親指の先ほどの大きさをした琥珀の塊がはめ込まれている。
琥珀の茶色がかった金色を目にした時に、理由も無くヘリテの背筋がわなないた。
「曙光よ、在れ」
アッシャーが呟いた次の瞬間、首飾りが白金の色に輝いた。懐かしく恐ろしい輝きを目にした次の瞬間、激痛と共にヘリテの視界が暗転する。
「ひっ……きゃあああああああああああああああああああ!?」
ほんの一瞬でヘリテの顔は眼球ごと黒く焼き付いていた。
首飾りの琥珀から放たれた光は、封じ込められていた日光だったのだ。器物に溜め込んだ日光を合い言葉で解放する術式は、太陽神ソラスの力を借りる共有法術の一つである。
灰燼に帰すには流石に短い照射だったものの、全身の痛みと頭の中を塗り潰す恐怖に耐えきれず、ヘリテはその場で身体を小さく丸めて蹲る。
憐れな格好で打ち震えるヘリテを見下ろして、まるで変化の無い微笑を浮かべたままアッシャーが言い放つ。
「別に、貴女を助けるつもりじゃあなかったんですからねぇ」
そして前触れ無く、大きくその場から横に跳んだ。
丁度直前までアッシャーの首があった場所を、薄布のような黒い影が音も無く通過していく。
無言でクゥエルの振るった〈透過暗刃〉だ。ほんの少し飛び退くのが遅れていればアッシャーの首は肩から転げ落ちていたかもしれない。
アッシャーの真後ろからヘリテの前に移動した執事は、何時もにも増してその面から表情を消していた。
顔の形をした虚無とでも評した方が分かりやすいかもしれない。
まだ記号として笑いを浮かべるアッシャーの方が、人間らしく見えた。殺されかけたとは思えないほど朗らかに、視認したクゥエルに向かって語りかける。
「怖い怖い、問答無用で首狙いですか」
「貴方に向かって費やす言葉があるとでも、アッシャー司祭?」
殺意を凍らせて文字の形に切り出したような声に、しかしアッシャーは何の感慨も湧かないようだった。
「僕自身には無いかもしれませんが、少しは周りにも気を遣っては? 誤解されちまいますよぅ……いや、ただの理解かもしれませんねぇ?」
いつの間にか、アッシャーとクゥエル、そしてヘリテの周囲に、遠巻きに村人達が集まっていた。
先ほどアッシャーに両断されたのが、村で暴れている獣頭鬼の最期の一頭だったのだ。
その事が返ってヘリテ達にとっては悪く作用した。村人を救う事を望んだヘリテにとっては特に皮肉な事に。
再生が始まり痛みが和らいだヘリテが、自分を守って立つクゥエルを見るために顔を上げた。その顔から黒く焼け焦げた皮膚が剥がれ落ちて、新しい青白い皮膚が現れる。再生能力が発動した余波で、美しい瑠璃色の瞳が禍々しい赤に染まっていた。
光に焼かれ、瞬く間に再生する人の形をしたもの。
ゼオラにあってなお、異賊の王と呼ばれるその怪物を目にして悲鳴を上げずに済む一般人は、『魔』に否応無く慣れきったガンガルゴナの民ぐらいだ。襲われた集落の住人の多くは、隣国のバルボアで成立した開拓団が出自なだけに尚更である。
「え、あ…………」
「ば、吸血鬼……?」
「に、逃げろ! ばらばらに、少しでも遠くに逃げるんだ!」
焼け爛れた状態から瞬く間に再生していくヘリテを見て、村人達は盛大に悲鳴を上げながら逃げ惑った。蜘蛛の子を散らすという言葉そのものの、一目散の逃走である。
再生の様子を間近で見てしまった少女は、動かなかった。
恐怖による負荷が精神の限界を超えたために、気を失ってしまったためだ。
「これが正しい吸血鬼に対する反応という奴です。早めに知っておいた方がいいですよ? ちゃんと正しく死ぬまで、ずぅっとつきまといますからねぇ」
「貴様……」
呆然とするヘリテを尻目に、残酷な事をどこか愉快そうに喋るアッシャー。それを睨み付けるクゥエル。
ヘリテはといえば、痛みと悲しみに涙を流しながらも、アッシャーに向かって掠れた声で問いを放った。
「なぜ……なぜこんな事をされるのですか」
「ほう?」
興味を惹かれて視線を返すアッシャーに、ヘリテは懸命に訴える。
「分かりません、なぜ放っておいてくださらないのですか。私は、私には人を襲うつもりはありません。ただガンガルゴナで、夜神の加護の下、誰にも迷惑をかけずに生きたいだけです」
「誰にも迷惑をかけずに生きたい、だけ……ふ、くく……ははは!」
ヘリテの言葉が、どのような琴線に触れたのか。
アッシャーは声を出して笑った。仮面の笑顔ではなく、愉快さ故の笑い。
まるで滑稽な喜劇の観客のように笑って、アッシャーが短く告げる。
「二年」
「……?」
「保護を求める罪人に対し、代償として夜神ナクトとその教会が課す誓約術式〈慈悲深き夜の首飾り〉。この誓約を受け入れた後の平均的な余命、それが二年です」
「誓約術式……?」
ヘリテは思わずオウム返しに繰り返した。
誓約術式という言葉を知らない訳では無い。使命術式や制約術式を含める、被術者になんらかの行動を強制する術式だ。魔術にも法術にもこの手の術式は存在する。
確かに、神殿の保護を受ける上で何らかの誓いや身の証は必要だろうと思っていた。対象が魔族や異賊なら術式による制限も分からなくは無い。
だが、誓約の結果が二年とはどういう意味か。ヘリテは意味を掴みかねた。
「何十年と生き続ける化け物を含めての数字ですからね、殆どの罪人は二年にも満たないという事です。いや、下手をすると結構な数が一年保たずに違反してるんでしょうなぁ」
呆然とするヘリテに向かって、アッシャーが首を傾げる。
「誓約に違反した代償は逃れる術無き即死である事、そこの執事から聞いていませんかね?」
「二年も、保たない……その代償が、死……?」
「お嬢様、違います! そのような誓約は……」
クゥエルが咄嗟に割り込むが最期まで言わせず、アッシャーが言葉を引き取った。
「必要ない。そう、そもそも課す気が無い。そこの執事はね、最初っから貴方をナクト神殿に連れていく気などないのですよ」
凍り付くヘリテに、アッシャーは顔だけはにこやかに語りかける。
「だってそうでしょう? ここまで苦労して連れてきた相手を、そんなあっさりと死地に放り出すと思いますか」
周囲に誰もいなくなった集落で、アッシャーは芝居がかった仕草で両手を広げてみせた。右手に大剣をぶら下げたまま。
「ガンガルゴナは別名【魔族の都】。そもそも夜神の神殿で殊勝に暮らす異賊や異端は少数派です。そんな事しなくても、街中で人族に混じって生きてる連中はざらですし……なんといってもガンガルゴナの地下には、カーナガル唯一、五大邪神の神殿があるんですから」
「ふざけるな! 私はお嬢様をそんなところに連れて行く気はない!」
「ほう? ではどうやってヘリテ嬢を生活させる気ですか? 吸血鬼である以上、人の生き血は必要だ。でなくては飢えて死ぬか、もっと過酷な運命を迎えるしかない。……ああ、まさかとは思いますが、君が縁を切ったはずの古巣へと連れていく気ですか? あの魔族による暗殺結社に」
「……!」
「暗殺結社……?」
「そこな執事の前職は職業暗殺者ですよ。流石にご存じないでしょうが」
職業暗殺者。確かにクゥエルの魔術と体術による戦闘力は尋常では無いとヘリテも思ってはいた。
だがそれでも、暗殺者という黒い単語はヘリテに衝撃をもたらした。
「飼い主にして頭領だった吸血鬼と派手に喧嘩別れしてそっちは足を洗ったはずですが……確かに、連中ならヘリテ嬢を匿うだけの組織力はあるでしょうね。君が復帰するといえば、確かにそれくらいの見返りは用意しかねない。人族の虚数魔術士として随分重宝されていたと聞きますしねぇ」
「……」
「クゥエル、そんな……そんな事は……」
沈黙するクゥエルに、ヘリテはどう言葉をかけるべきか迷う。
かって彼が暗殺者であった事以上に、ヘリテのために彼が暗殺者に戻ろうとしている事の方が辛い。もしもそれが本当ならば、どうか止めて欲しい。
だがその時、自分は一体どうするのだろう。どうする事が正解なのだろう。ヘリテには分からなかった。
悩むヘリテにまるで同意するように、アッシャーが肩を竦める。
「正直私にも信じられませんよ。祈る神は違えこそ、同じ灰の軍勢として、君を理解するのは難しい。何故貴方はヘリテ嬢のためにそこまで身体を張るんですかねぇ、従者クゥエル」
そして投じられる、事実という名の最期の短剣。
「執事にして探索士を仮の姿とする、影神教会お抱えの隠密部隊『暗楔殺』……その執行者の一人にして、インフェルム伯夫妻をその手で殺害した貴方が、ねぇ……?」