九章 小さな聖女は血に誓う(1)
歩き出してすぐに分かった。
紛れもなくヘリテは今、異国の、いや異郷の森にいる。
ホルクースが立ち去った後、二人は洞窟の入り口から真っ直ぐに正面に広がる森の中へと入っていった。
クゥエルが今居る場所に土地勘があったのだ。影神教会の密偵として活動していたクゥエルは特にガゼットリア以南の地理に詳しかった。彼にとっては周囲の地形と星の位置で進むべき方向を割り出す事など、朝食の支度と比べる事すらおこがましいのだという。
ヘリテからすれば天体は好きだが地理というか地図が苦手だったので、素直に尊敬の念しか湧かない。
クゥエルがこれからの道行きについて説明する。
「お嬢様。国境にほど近くはありますが、ここはまだバルボア国内です。これから両国を跨いで存在する森林を抜けてゼオラへと入ります。またしばらくは道なき道を行く事となります。疲労や飢餓感を覚えた際には随時お伝えください」
「分かりました。森を歩くのは随分久しぶりな気もするので、少し楽しみなくらいです。……森を出たら、ついにゼオラなのですね」
「いえ、お嬢様。おそらくはご想像のようにはならないでしょう」
「え?」
感慨深く溜息交じりだったヘリテの言葉を、クゥエルがやんわりと否定した。
否定の意味が分からず小首を傾げるヘリテに、クゥエルが曖昧に聞こえる回答を返す。
「森の中でも、我々が国境を越えた事はすぐに分かります」
「森の中に、関所や標識があるのですか?」
「いいえ、お嬢様。ゼオラという土地は明確に他の国とは違うのです。入ればすぐに分かる程度には」
言われた時は、正直に言えばヘリテにはよく意味が分からなかった。
だがそうして踏み込んだ森の異様さに、ヘリテはすぐに目眩を覚える事になる。
そこは森でありながら、ヘリテの知る森ではなかった。
ガゼットリアの森は豊かで深い。奥に進めば進むほどに背の高い大木が増えていく。古くから手が入っている事もあって、土地ごとに適した樹種が整然と幹を並べている様は壮観で壮麗ですらある。
バルボアの森は険しく厳しい。平地ではそも木がまばらだ。岩盤の分厚い土地も多い。そんな環境で生まれる森は、密度が高いがガゼットリアに比べれば大木が少ない。少ない土壌を争う木々は、風や乾燥に耐えるために葉を細くし枝を捻って自らを強固に、あるいは頑固に変えていた。棲むのも小型の動物が殆どだ。草食も、肉食も。
だがゼオラの森はどちらとも違う。森の中ほどにあっても高木と低木が入り交じって斑を描いている。高木が朽ちて生まれた隙間かとも思ったが、にしては両者が噛み合い過ぎていた。
斑の境界を過ぎ去る度に、恐怖をはらんだ驚きがヘリテに訪れた。
「こんな……こんな森が。いえこれは、本当に……私の知っている森なのでしょうか」
時にそれは隙間だった。だが低木の集まりのど真ん中を、明らかに異常な成長速度で育ったとしか思えない高木が食い破って伸びていた。影に入った低木は程なくして陽光を失い枯れるだろう。
時にそれは捕食だった。低木は高木の根元に生えてその幹に絡みつき、水分と栄養を奪い取る寄生樹だった。ここでは逆に、成長のままならなくなった高木がやがて低木に喰われて覆い尽くされるだろう。
時にそれは共生だった。高木に寄り添う低木の正体は、実際は樹ではなく菌類――茸の類いだった。ヘリテの身長をゆうに超える大きさに育った茸は珊瑚のように細かく枝分かれしながら、硬く尖った笠を上に向けて小さく広げている。これほど剣呑な形をした巨大茸は、実際は普通の小さな茸と同じく周囲の落ち葉や枯れ枝を吸収分解して、豊かな土壌を育みながら慎ましやかに生きていた。日光を厭うのも同じで、隠れる高木を失えばやがて乾いて朽ちるだろう。
動物達の数は多く種類も多様で、ただしその大半は昆虫とその仲間だった。不安定な環境で生き残るなら、なるべく小規模で単純な方が有利だからだろうか。
ただし小規模という言葉が、あまり当てはまらない個体も度々目に入ってきた。
蝙蝠のような羽根を広げた蛾が樹から樹へと滑空して飛び移る。
大蛇のような大きさの百足が餌を探して地面を素早く蛇行する。
その百足に中型犬ほどもある黒い光沢のある外皮の甲虫が樹上から襲いかかり、両者は玉のようにもつれ合いながら茂みの奥へと消えていった。
ゼオラの森は異常であり、獰猛であり、狡猾であり、懸命だった。
同時に森の有り様はこの土地の在り方を如実に示しているとも言えた。
ゼオラ魔王国。
カーナガルで最も歴史浅き最新の大地。七つの内五つ目の【滅亡期】『大海神嘯』の過ぎ去った後に忽然と姿を現した未開の地。秩序世界最強の生命体、祖龍の支配が及ばぬ唯一の場所。人族よりも魔族の方が多かったとされる旧魔王領。
現時点においてなお、地上で最も混沌に近いと言われる国。
即ち、地上で最も秩序に遠く、自然法則が当てにならない空間。
ガンガルゴナはそのゼオラの第二都市であり、かっては魔王の居城が存在した王都にして【魔族の都】とも言われた街である。
そして今でも、その通り名は返上していない。
恐るべき森を渡る中で驚きと恐怖を少なからず感じながら、同時にヘリテの中には畏敬のような気持ちも湧き上がっていた。
過酷な環境にあってなお、ゼオラには濃密な生命の気配があった。目に映る何もかもが、生きる事に対して純粋だった。
生きるという事の強靭さをこうも強く感じるのは、吸血鬼と化してから初めてかもしれない。
ヘリテの目に映るゼオラは、恐ろしくも美しかった。
バルボアとゼオラの国境を抜ければ、ガンガルゴナまでは十日もあれば辿り着く。また夜だけ進む遅々とした歩みで、それでも二人はゼオラを進んだ。
再びクゥエルの血に頼る事にはなったが、不思議と感じる飢えは以前よりも弱まったように思える。
また一つには、ゼオラという土地のおかげでもあったかもしれない。
草木をかき分けるようにして進む。少し離れた場所には街道が通っているとは思えない未開の森は、ガゼットリアの森が整備された庭園だったように思えるほどの難路だ。
なのに歩けば歩くほど、ヘリテは自分の身体が暖まっていく事に気付いた。
〈熱量収奪〉の常駐術式が、周囲の熱量を吸収して活力に変えてくれている。ゼオラの生命は草木も虫獣も皆強靭で、力に溢れていた。発散されたその余波は他の土地とは比較にならない程強く、豊かだったのだ。ヘリテの渇きをしばし忘れさせてくれるほどに。
【根の国】とは違う意味で、ゼオラはヘリテに優しい土地だった。
しかし穏やかな道行きの中、突如遠くから悲鳴が二人の耳朶を叩く。
それはゼオラがもう一つの面、あるいは隠していた牙を剥き出しにする合図だった。
獲物を一跳びの間合いに捕らえた肉食獣の唸りのように。
もしくは非情な戦争の始まりを告げる、角笛と銅鑼の音のように。
遅くなりましたが、ぼちぼち最終章更新です……とはいえ、やはりスムーズにはいかなそう。
それでも完結まではどうにか持って行きますので、何卒今しばらくお付き合いくださいますよう、よろしくお願いします。