八章 これなるは根の国、死者の国(8)
懐かしく、それでいて見慣れない夜の森に立って、ヘリテは落ち着いた声で言った。
「サウザン。私はやはり、このままガンガルゴナに向かおうと思います」
結局ヘリテが自分の意志を告げたのは、【根の国】から外に出た後になった。
出る時は入った時のように影を潜ることはなかった。ただサウザンの後について道を辿った結果、いつの間にかごく普通の洞窟を歩いていたのである。
洞窟はやがて終わり、二人と一頭は体感としては数日ぶりの地上に立っていた。地に潜ったのがガゼットリアの国境付近だったのが、出たときにはバルボアとゼオラの国境に触れるような位置まで移動してきた事になる。信じられない程の近道だ。
久しぶりに熱量の豊富な空気を浴びながら、ヘリテは空を見上げる。
みっしりと葉を茂らせた広葉樹の隙間で、藍色の空自体が昏く輝いていた。
「そうかい。ま、若い子にはちょっと退屈過ぎるか、やっぱ」
ヘリテが問われていた事を知らないクゥエルが目をすがめて訝しむのを尻目に、サウザンは思いのほかあっさりとヘリテの答えを受け入れた。
「いえ、そういう事ではありません。【根の国】のこと、決して嫌いではないんです。ただ……」
少し言いよどんだ後に、静かにヘリテは付け加えた。
「あそこはまだ、私がいるべき居場所ではない。そんな気がしたんです」
思い出すのは、【根の国】を彷徨う幽鬼達。
彼等はよくヘリテを見ていた。ヘリテもまた彼等を見返した。
行き交う視線が互いを観察する。だが幽鬼は幽鬼同士で見つめ合っている事は一度も無かったのだ。常に彼等が見ているのはヘリテとクゥエル、そしてサウザンだった。
長く同じ場所で同じ時間を過ごしているせいで、見慣れているのかとヘリテは最初思っていた。だが、やがて違うと思うに至った。
【根の国】の幽鬼達は、一切の未練を失っていた。だからこそ【根の国】に入ったのだとも言える。
本来不死者は生の未練を抱く事で結果的にパストーに祈り、発生する。
未練の無くなった不死者は、実質的にはただの死者、ただの死霊だ。
だが、一度不死者と化した死霊は未練を失ったからと言って消えはしない。
いやそもそも、死霊は力を失えば見えなくなるだけで、無くなるものではないのだ。
なぜなら、死霊とは世界に一つの生命が存在した事の記録そのものだからだ。物質も精神も失われたとしても、死んだ、即ち存在したという事実までは消えようが無い。
だからあの幽鬼達は【根の国】に移った。幽鬼として存在するだけでも力は消耗する。もう誰にも影響しない場所で存在し続ける事で、何時か力を使い果たして眠るために。
彼等は死んでいた。死を認めて受け入れ、正しい形に戻ろうとしていた。
言わば世界に忘却されるまでの時間を、彼等は【根の国】で過ごすのだ。
翻って、ヘリテはどうか。
ヘリテがガンガルゴナを目指すのは、死ぬためではない。それならばあの日、燃える屋敷でクゥエルの手を取らないだけで成立した。
ヘリテは生きるためにガンガルゴナを目指している。それは孤独を拒否する事でもあり、自分以外の他者への未練でもあった。
だから幽鬼はヘリテを見た。他の幽鬼は見るべきものではない。自らと同じ死に行くものであり、忘れられる事を望むものだから。
幽鬼達がヘリテ達だけを見ていたのは、自分たちと違うものだからだ。
忘れられる事を拒む者は【根の国】にとって異物である事を、幽鬼達の視線が教えてくれた。
「私はまだ、【根の国】に留まるには……流れる血が暖かすぎるようです」
ヘリテの言葉に、サウザンは僅かに上唇を持ち上げた。
「ま、元々がこっちの一方的なお誘いだ。無理強いは出来ねぇよ。……とはいえ、このまま手ぶらで送り出すのもつまんねぇしなぁ。よっし、そんなら代わりに、選別として何かくれてやろう」
突然の話にきょとんとするヘリテの前で、サウザンは後足で耳の後ろを掻きながら首を傾げた。
視線があらぬ方向を漂っているのは、考え事にふけっているためか。
「何らかの加護は……オレの力は土地の制限を受けるからなぁ、ゼオラに入った後は大した事はできん。精々が一度だけ命の危険を知らせてやるとか、か。どちらかと言えば物の方が融通が効く」
「物、ですか」
「ああ、欲しい物、とりあえず何でも言ってみな。割とお前に都合のいいものも、色々取り揃えてるぜぇ」
そう言って顔を笑みに似た形に歪めるサウザンに、冷たい視線を浴びせる者がいた。
無論、クゥエルである。自覚の有無は不明だが、サウザンの言葉の危険性に執事はいち早く気が付いていた。
だからこそ返答に迷い悩むヘリテに警告しようと口を開く、が。
「っ…………!?」
声が詰まった。
喉どころか、身体全体が指一つ動かない。息だけはどうにかゆっくりとなら出来るが、それだけだ。
分割投射ではない。影縛り――金縛りの一種。それもクゥエルほどの術者を一瞬で固めるほどの。
僅かに動いた目が、こちらを見つめる目とぶつかった。
見られていた。ヘリテと向き合うサウザンの黒い毛並みの中で、あるはずの無い双眸が静かにクゥエルを見つめていた。
クゥエルは即座に金縛りの詳細を察する。
強力な邪視者の使う、魔眼の視線による束縛。麻痺、石化、不動……今用いられているのは恐らくは不動。視線を向けている間だけだが、動くという行為そのものを禁じる視線だ。
ぱちぱちと、毛並みの中で幾つもの目が生まれて瞬いては消えていく。まるでみせびらかすように。
半獣半神となった嗤い犬の身体は、それ自体が魔術の塊とでもいうべき出鱈目な能力を有していた。
『おっと、お前さんは少しだけ静かにしといてもらおうか。今は保護者が口出すタイミングじゃねぇ、お嬢ちゃんが自分で選ぶ時間だからなぁ』
クゥエルもよく使用する遠話の術式である。ただ本来あるべき詠唱を含めた一切の予備動作は見られなかった。
ヘリテの方を向いたままのサウザンの巨大な口元も全く動いていない。目のように体の何処かに遠話用の口を生み出しているのだろう。
よほどヘリテに言わせたい言葉があるに違いない。
クゥエルは動く限りの表情でサウザンを睨みつけながら、しかし内心では冷静さを維持していた。
パストーの従属神と言い出した時から覚悟と警戒はしていたのだ。
どれほど親切な振りをしても、所詮は邪神の眷属。人の道理が通るはずもないだろう、と。