八章 これなるは根の国、死者の国(3)
通路は果てなく延々と続く。
サウザンに先導されるがままに真っ直ぐ歩いているだけのはずだが、ヘリテには段々と直進している自信が無くなっていた。
何処か、歩いているのにふわふわと浮いているような、不確かさを感じるのだ。
足元の土が不意に無くなって硬く滑らかな石の床を歩いている。だが気がつけば土の感触が戻っていた。
周囲の壁が、いつの間にか巨大な円柱が密集し連なったものに変わっている。僅かな隙間から柱の向こう側の光景が覗く。
壁に打ち込まれた鎖に両手を繋がれて項垂れる、半ば朽ちながらも高貴な衣服を身に纏った男性らしき人影。
沢山の本棚をコの字型に並べた中央で、黄色い燐光を頭に纏わせて只管に本の頁をめくる、比喩で無く干からびた顔の学者風の男。
もっとよく見ようと目をこらした時には、柱の群れは根に覆われた石壁に戻っている。
そんな事が、何度もあった。
「さぁて、一先ずここで休みな」
やがてサウザンが二人を案内したのは、通路から外れた場所だった
通路の脇にぽっかりと洞が空いたような空間があった。ちょっとした舞踏場ほどの部屋の、半分以上を青黒い水面が占めている。
隅にサウザン自身もどっかりと座り込む。ヘリテが水面に目をやると、青白い人影が一瞬下を向いて立ち尽くしているのが見えた。一つ瞬きをした後には消えている。
同じものが見えたのだろう、クゥエルが至って冷静な感想を口にした。
「……この水は、飲料にはしない方がよさそうですね」
「おいおい、何言ってんだ。調べりゃ分かるが清浄さも味も抜群だ、保証するぜ。身体が残ってる奴は水辺には基本近づかねぇし、無い奴は幾らいたって問題ねぇよ」
「……」
「観念しな、根の国で死者のいない場所を探す方が無理があるぜ!」
絶妙に嫌そうな顔をするクゥエルを諭すサウザンは、何処か楽しそうだった。
「ああそうだ、この先について軽く説明しておく。お前ら、ゼオラのガンガルゴナを目指してるんだよな?」
「……何故それを?」
「こう見えて、っていうか見たまんまか。犬だけに耳も鼻も長ぇのよ、オレは。……ま、実際のところは追い出す前に生き残ってた連中に吐かせたんだけどな。あれで奴らもそれなりに魔術を使う。霧に変じられなくても、自分たちの生み出した霧の中を遠くから見聞きするくらいの芸当は出来たのさ」
どうやら、クゥエルが襲ってきた屍食鬼達を皆殺しにした時の事も知っているようだった。あるいは屍食鬼達から聞き出したというのも嘘で、自らずっと事の成り行きを眺めていた可能性もある。
少なくとも、クゥエルは目の前の嗤い犬を完全に気を許していい相手とは到底思っていなかった。
主人の警戒心が薄れてきているのは察するだけに、クゥエル自身の箍は締めた上で見せつけておく必要がある。そう考えていた。
そんなクゥエルの内心を知ってか知らずか、サウザンは話の先を続けた。
ただその内容は、正直なところクゥエルも驚くようなものではあった。
「で、だ。オレの案内で根の国を通れば、少なくともここにいる間あの化け物騎士団におっかけられる事はねぇ。バルボアとゼオラの国境線まで送ってやるから、それでもってウチの馬鹿共の手打ちとしてくれや」
「それは、助かりますが……」
思っていた以上に有り難い申し出に、しかしヘリテはやや悲観的に思案する。
根の国は今のところ気温が常に低く、おまけに水以外を補給できそうな場所ではない。この空間でバルボア一国を横断するほどの日数を移動する事は、ヘリテはともかくクゥエルが持ちこたえられるだろうか。ヘリテが望めばクゥエルは答えるだろうから、尚更自分が慎重に判断しなければならない。
そんなヘリテの不安は、次の瞬間想像もしない形で瓦解した。
「付くまではざっと体感で四日ってところかな。流石に根の国の端にある出口だから、それなりにはかかっちまう」
「四日……!?」
バルボアとゼオラの国境までは、本来なら宿場町から少なくとも半月はかかる行程である。どんな強行軍なら可能だと言うのか。
そんなヘリテの懸念をサウザンは笑い飛ばす。
「【根の国】は厳密には地下じゃねぇ、地下に似せた異界だ。人間の生きる秩序世界より混沌に近い分、時間も空間も曖昧なんだよ。だから時間の流れも違う。こっちで四日過ごしたら上に出た時には二週間……は経ってないが、一週間前後は経ってるかもな」
「あの、サウザン、様。……厚かましいお願いとは分かっていますが、もしも出来ることならば、ガンガルゴナの傍まで根の国を通らせていただく事は叶いませんか?」
思わずヘリテはそう懇願していた。根の国を通る限り、クゥエルにも旅路で出会う他の人間にも、負担が少なく出来る。
自分に支払える対価なら何を支払ってでも、希望する価値はありそうだった。
だがサウザンはゆっくりと巨大な首を振った。
「サウザンでいい、この呼び名にゃ敬称も含まれてるようなもんだから『サウザン様様』になっちまうよ。んで、オレもそうしてやりたいのは山々なんだが……残念ながら根の国の出入り口はゼオラ魔王国の国内には無い。ゼオラは一番新しい大地、根の国の生まれた後に出来た場所だからな。何れは開通するだろうが、まだ時間が足りないのさ」
サウザンの説明に納得出来てしまったが故に、ヘリテは内心がっくりと肩を落としながら、それでもなんとか礼の言葉を述べた。
「そうですか……いえ、十分です。本当に、ありがとうございます……」
「気にすんな、全部こっちの都合だ。とはいえ、そっちの従者は不満そうだな?」
「不満ではありません。ただ、仰られた事全てが履行されるかという点において、保証が無い事を懸念しております」
「クゥエル!?」
ヘリテを動揺させても、クゥエルはあくまで不確かな甘言には乗れないという態度を崩さない。猜疑心を示すのは自分の役目であると心に決めていた。
「ヒヒヒ、従者はブレねぇなぁ! ……とはいえ、何か目に見える形で証明してやれる術は何かあったものか……」
サウザンは思案するように首を傾げる。
「オレはこの地の管理者であり、このオレの言葉以上にこの地で権威を持つものは他に無い訳だが、それじゃあ従者は納得せんしなぁ……かと言ってオレはお前らを邪険には出来ん。なんといってもお前らは被害者であり、加害者はオレの身内な訳だ。これを帳消しにしようと言うなら、相当の無礼と横暴が必要だしなぁ……従者のそれじゃあまだまだ足らん」
「……それで十分かと思います」
「おん?」「お嬢様?」
ニヤニヤ笑いを浮かべていたサウザンと、すわ加害者側が脅迫かと言い返そうとしていたクゥエルの双方が、驚いてヘリテの方を振り返った。
二人の視線を感じながら、ヘリテは素直に自分の考えを述べた。
「肉体を持つ半神とはいえ、神格を持ち根の国の一部を管理する方が、ただの人間……と吸血鬼に、こうして対等に話す事を許してくださる。あまつさえ、私とクゥエルの無礼な物言いまでも不問にしてくださるのですから。私達を慮ってくださる、これ以上の保証は無いと私は考えます」
言うべき事を言い切って、ヘリテは申し訳なさをなるべく隠して、クゥエルの表情を伺った。
クゥエルが自分のためにサウザンを相手取って交渉してくれようとしていた事は分かっていた。だが、これ以上無理もしてほしくなかったのだ。
「クゥエルも構いませんか?」
「……一切異論ございません。私の浅慮でございました……サウザン、失礼な発言をお許しください」
クゥエルはヘリテにお辞儀し、またサウザンに向かっても無礼を詫びて頭を下げた。
クゥエルの謝罪に対してサウザンが居丈高な態度を取る可能性もヘリテは覚悟していたが、何故か鼻を一つ鳴らして低く唸ったのみだった。不満げだが、ヘリテにはそれは何処か物足りなげな、退屈に対してふて腐れたような態度にも見える。無論思っても口にはしない。
サウザンはそのまま腹這いからごろりと寝転がり、仰向けに姿勢を変えた。そして逆さまの巨大な顔をヘリテに向ける。
「……おっかねぇ。お嬢ちゃん、転化し立てだからほとんど見た目通りの年齢だろう? この状況でその言葉が出てくるのは、ちっと末恐ろしいぞ」
「そ、そうでしょうか……」
「お嬢様の聡明さと公正さは、屋敷に仕える者出入りする者、皆が一目置いておりました」
戸惑うヘリテに対して、表情こそ平静だが言葉に明らかに誇らしげな様子がにじみ出るクゥエル。
対するサウザンはと言えば、仰向けのままゆっくりと身体を左右に揺すった後、ぼそりと呟くに留まった。
「……こいつ、大分重症だな……」
身体を揺すったのが、呆れて首を左右に振る代わりだと気付いた者は、幸運にもその場にはいなかった。
多分ですが、根の国編は全体を通しても最も平穏な時間になると思われます……しょっちゅう不死者が顔を出す以外は。。
次回は長い蘊蓄といいますか世界観語りになりますので、まぁ気軽に流して見ていただければ……。