三章 南の魔都、それと吸血鬼のどんぶら考
三章 南の魔都、それと吸血鬼のどんぶら考
「目的地はゼオラ魔王国第二都市、ガンガルゴナです」
夜の森を先導しながら、これからの目論みについてクゥエルが説明を始める。
ヘリテとしては本当は洞穴の中で落ち着いて聞きたい事柄だが、自分の準備が遅れて時間が取れなかった事もあり、足を動かしながら聞く事になった。吸血鬼の体質上、夜の間しか十分に移動できない事が歯がゆいが、仕方が無い。
ただ移動を始めて驚いた。身体が軽く、殆ど獣道と言ってもいい山道もクゥエルの後ろ姿を追っている限りは殆ど苦にならない。以前のヘリテならものの数分で息切れを起こしていただろうに、である。
また、山深い夜の森など殆ど無明の闇であるはずなのに、まるで昼間のように視界は明瞭だった。闇の中にあるのは分かっているのに、視界の中で草木やその影に蠢く虫達、時には足元の剥き出しの土や木々の間を渡る風すらほのかに光って見えるのだ。夕暮れの光景では気付けなかったのは、恐らく太陽の光があまりにも強い光だからだろう。
暗闇の中の光は一つ一つ全てが違う色をしていて、見分ける事も容易だった。どの輝きも比べがたく美しく、まるでこの世全ての宝石が埋まった鉱山を歩いている様な気分になる。
先導するクゥエルもまた独自の色に光って見える。どこか煙るような白、あるいは薄い灰色の輝きだろうか。煙水晶という水晶の一つをヘリテは思い出していた。
「ガンガルゴナ……?」
そんな時に始まった説明で、端から飛び出てくる聞き覚えの無い地名に戸惑い、ヘリテはオウム返しにその単語を繰り返した。
ゼオラ魔王国は分かる。カーナガル五大国のうち最南端にして最新の国家。国土の三分の一が群島で構成される、かって魔族を力と恐怖で統べた王――魔王によって統治された場所。その頃は国ですらなくただ魔王領と呼ばれた、事実上現在における人類到達極。
そしてカーナガル唯一の、真なる竜達が住まわぬ土地。
だがガンガルゴナという地名は、初めて聞いた。
「はい。またの名を『魔都』……カーナガルで最も混沌に近い場所とまで呼ばれる、魔族や異賊の一大居住地です」
クゥエルの言葉が一瞬頭に入ってこず、更に困惑するヘリテ。
「魔族や異賊が、街に住んでいるの?」
「はい。もちろん最大多数は人類ですが、それでも半数強と言ったところです」
クゥエルは何時もの憎たらしいほど冷静な口調を崩さない。
魔族とは邪神とは関係のない、生まれながらにして混沌、あるいは魔法の影響を色濃く受けた人間を差す言葉である。影響は独特な肉体的特徴と様々な特殊能力として現れるが、その制御が出来ぬまま周囲の人間、時には自分自身にも被害をもたらす事が多かった。故に、魔族であるというだけで忌避と迫害の対象になる事は珍しくない。
魔族に数えられる異能の使い手は刻印者や邪視者、呪言者、無形者など、多種にわたって存在する。基本的に誰もが一代限りの突然変異であり、異能は基本的に子孫に受け継がれる事は無い。
対して異賊とは、邪神に祈ったか、あるいは偶然にその声を聞いてしまった結果、接触した邪神に応じて変異してしまった人間とその血族に対する呼び名である。
恐るべき事に、邪神に書き換えられた肉体と異能は、遺伝するのだ。
ただしクゥエルによれば、カーナガルに住む異賊についてはそのほとんどが巨暴鬼や屍食鬼の混血だという。彼等の多くは不幸な生い立ちを背負っており、他の人里で暮らせなくなった結果、追い立てられるようにガンガルゴナに集まってくるのだ、と。
流石に純粋な異賊は殆どいない。ごく希に、不運にも邪神の囁きを聞いて強制改宗を起こした後、人としての理性を取り戻してしまうケースが存在するが、彼等の生存率は著しく低く、ガンガルゴナにも滅多に辿り着く事は無い。
「でも、私は……吸血鬼なのよ? 人のいる街中で暮らす事は、難しいのではなくて?」
そう、吸血鬼は分類上、純粋な異賊である。まさに前述のレアケースに該当するパターンだ。
難しいどころか、普通なら無理としか思えない。ヘリテは夢の中で父の声に囁かれた言葉を思い出す。
狼と羊を同じ囲いに入れればどうなるか。
想像する事は、多くの人で同じものになるだろう。
ヘリテの懸念にもっともと頷いた上で、クゥエルは異論を答えた。
「いいえ、ガンガルゴナにおいては手段がございます。夜神ナクトの神殿に保護を求めるのです」
夜神ナクト。闇神ディアルマの義理の娘にしてカーナガル六大神が一角。夜と眠り、安息と沈黙を司る神格にして、未亡人と孤児の守護者。弟に影神ヴェイン、妹に死神ディスクティトラを擁する慈悲深き女神。また過ちを諫め、悔い改める者を祝福する神とも言われている。
主神に倣って夜神教会は力無く寄る辺も無い人々への支援を広く行っていた。だが、魔都ガンガルゴナにおいてはその規模がまるで違う、とクゥエルは説明する。
「あの都市はゼオラが魔王の支配下にあった時代の第一都市、つまり王都です。当時のガンガルゴナにおける魔族達の比率は、今を遙かに上回っていたと言われています。そして魔王が討たれても、庇護する対象は増えこそすれ減りはしませんでした」
故にガンガルゴナのナクト神殿には、未だにありとあらゆる種族の保護と保全が可能な仕組みが残されている。無論神殿の仕来りに従う旨の誓約は必要になるが、それはどの神殿に駆け込んでも求められる一般的な様式でしかない。
他にも近い条件を揃える場所はあるかもしれないが、クゥエルの知る限り確実に吸血鬼が生き残れる環境はガンガルゴナだけだった。
「ガンガルゴナ……そんな場所の話は、初めて聞きました。クゥエルは本当に何でも知っているのね」
何気ないヘリテの感嘆に、前を行くクゥエルの背中が一瞬震えたように見えた。
反射的に何か悪いことを言ってしまったかと不安になって、ヘリテが問いかける。
「クゥエル、どうかしたの?」
「いえ、失礼致しました、お嬢様。説明を省略しておりました。私がガンガルゴナについての知識を有している事には、個人的な理由がございます」
「理由……あ、えっ!?」
続きを聞こうとして、不意にヘリテはその場につまずき倒れかける。手をついて起き上がろうとするが、急激に萎えてしまって力が全く入らない。先ほどまでは疲れもまるで感じなかった手足が、今は鉛に変わってしまったように意のままにならなくなっていた。
「お嬢様!?」
異常に一瞬遅れてとって返してきたクゥエルを、ヘリテは震える手を掲げて押し止める。最初はもう身体が血を欲しているのかと青くなったが、しかし少しずつ冷静になってみると、あの激しい飢えや凍えるような寒気は感じられない。
ただ、手足の自由だけが利かない。まるで身体がこれ以上先に進むのを拒んでいるかのように。
その事をクゥエルに伝えると、青年執事はすぐにはっとなってヘリテの傍にしゃがみ込んだ。
「申し訳ございません、私の落ち度でございます。この先の地形について失念しておりました」
そう言ってヘリテに背中を向け、おぶさるよう丁寧に促した。
ヘリテは一瞬躊躇ったが、今は自分の身体が冷気を発していない事を確かめた後、おずおずとクゥエルの背中に身体を預け、その首にやんわりと手を回した。
「どうかしっかりとお掴まりください。これよりしばらくは騎上を余儀なくされます故に」
「騎上って……クゥエルはお馬さんでしたか」
「馬か驢馬かはご判断にお任せします」
大真面目に言う台詞ではない。ヘリテは一瞬だが状況を忘れて微笑んで、首にしがみつく腕に少しだけ力を込める。
その上で、先のクゥエルの言葉で気になっていた点について確認する。
「地形……と言っていましたか? この先には、何が?」
「川です。大きなものではありませんが、かと言って迂回出来る長さでもありません」
「川……あっ!」
「流石、ご存じでしたか……お嬢様の症状は、吸血鬼特有の性質によるものです」
肩越しの会話なのに、まるで屋敷で受けていた講義のようなやり取りになっていた。
ほんの少し懐かしさを感じつつ、ヘリテは自分が書斎の物語で得ていた知識から解答と思しきものを口に出す。
「吸血鬼は、河川……流れる水を渡れない」
「その通りでございます。恐らく、既に無意識にせせらぎの音を知覚出来る距離に入っていたのでしょう」
ヘリテを背負ったクゥエルは、しかしむしろ歩く速度を上げていた。それでいて背負われたヘリテはまるで揺れを感じない。馬よりもよほど乗り物としては上等だと思って、流石に失礼すぎる感想だとヘリテは内心で自分を戒めた。
同時に、体力はついても山歩きの覚束無い自分の歩調に合わせてくれていた事に、若干の複雑な気分も抱いていたが。そこは指摘した上で、もっと早く背負ってくれてもいいのではなかろうか。そんな気持ちを込めてちょっとだけ、しがみついたベストを皺がつくように掴んでみるなどした。
ほどなくして清流が視界に現れた。夜の水面は吸血鬼の眼をもってしても暗く黒く、冷ややかだ。ただし、さほど深いようには見えない。幅も大人なら大股に歩けば五歩もかからなそうだ。
そんな小川に、しかしヘリテは脱力と軽い麻痺が四肢から全身に広がっていくのを自覚した。同時に驚くほど強く本能的な恐怖が背筋を走る。クゥエルの背中に無ければ情けなく悲鳴を上げていたかもしれない。
そんなヘリテの状態を知ってか知らずか、何時もの口調でクゥエルは川縁を降る方向に少し移動しながら言葉を続けた。
「吸血鬼が渡河できない理由には諸説あります。有力なのは、吸血鬼も亜不死者である事から地の属性に属し、誕生した土地に強く縛られるためという説です。この場合では、河川は土地の境界としての役割を果たしていると考えられます」
淡々と説明する声は講義の際にいつも聞くものだ。とはいえ、ヘリテもこれほど近い距離で聞いた事は無い。酷い倦怠感と疲労感が無ければ、もう少し緊張していたかもしれない。
「実際、生まれた土地の土を一定量所持した状態であれば影響を受けなかった、という例はあるそうです」
「……本で読んだ事があります。けれど、棺桶一杯分の土を運ぶ必要がある時点で、実質的には制限を受けているのではないでしょうか……」
「その辺には色々と抜け道はございますが、確かに一理あるとも申せましょう」
そういえばクゥエルは移動のための準備をしてきたと言っていたが、特に荷物は増えていない。ヘリテを容易く背負えたのも手ぶらだからだ。だが何処かに荷物を持っているのは確かである。実際、今着ているヘリテの服はクゥエルが運んできた物だ。
強い脱力感に苛まれながら、これも後で聞いてみようと心に留めるヘリテであった。
「他には、流水が吸血鬼にとって致命的なものである、あるいはあったという説です。吸血鬼は確かに水に落ちると著しく運動能力が下がりますが、即座に滅びはしません。よって可能性があるのは後者の可能性が高い。魔族も異賊も、その特徴は新しく変わり続けておりますので」
「あるいは、流水に似た別の致命的な現象がある、という説もありましたね……」
「はい。ただ、そちらについては該当する現象には現状候補がございませんので、目下のところ検証ができません」
「そもそも、普通の人間にとっての方が流水って致命的ですよね……私とか以前ならこの川でも余裕で溺れかねません……」
「確かに。吸血鬼の方が窒息で死なない分危険性は低いと言えます」
そこまで言って、不意にクゥエルが立ち止まった。ぐったりとしたまま背中越しに見れば、川底に引っかかったのか、大きな流木がどっしりと流れの中に鎮座している。
川沿いを移動していた理由は分かった。が、橋にするには大分短い。どうするのか、と聞く前にクゥエルから真面目くさった注意が飛んでくる。
「お嬢様、しばしお口を開かれませぬよう」
「……お手柔らかにお願いします」
観念して口を閉じ、ヘリテは額をクゥエルの肩口に押しつける。次の瞬間ふわっという浮遊感が着た。同時に倦怠感と恐怖が頂点に達し、気持ち悪さに思わずヘリテの意識が遠のきかける。
耳元を走り抜ける空気、ぎしぃ、と木の軋む音、続いて硬い物が割れた破砕音と二度目の浮遊感。悪寒の波に遠ざかりかけた意識が引き戻される。ここまでしてなお殆ど揺れは感じない。胸の圧迫感はもはや吐き気に進化しつつあったが、呼吸ごと飲み込んで耐えきった。
そうこうしている間に浮遊感が終わっていた。顔を上げると、再び鬱蒼と茂る森の風景が視界一杯に広がっている。まだ身体はだるいが、川を跳び渡る間を思えば大分マシになっていた。
そう、クゥエルはヘリテを背負ったまま、流木を飛び石代わりにして川を跳び渡ったのだ。一歩間違えば足を滑らせそうなものだが、クゥエルがその手段を選んだ以上、十二分の勝算があっての事だろう。衰弱した主を背負った状態であればなおさらである。
二人は下生えが低くなった進みやすい場所を探してまた川沿いを移動する。未だクゥエルの背に在るまま、ヘリテはぼそりと呟いた。
「……今、分かりました。両方です……」
「お嬢様?」
「両方です。河川が吸血鬼の移動を妨げる結界になっている事と、流水が吸血鬼にとって致命的である事……あるいは、二つで一つなのかもしれません」
訝しむクゥエルに一方的に喋る事で、ヘリテは自分の中にある様々なものを思考から押し流そうとした。不安、恐怖、安堵、羞恥、その他名前の付かないものまで、何もかも。
この背中から早く離れるために、諸々の感傷が邪魔だったから。
「私が川に落ちたら、多分それこそ木や石に引っかかるまで流されます。身動きの取れない間に日が昇れば一巻の終わりでしょう。加えて恐らく、私達がまだ知らない流水による死に方も、吸血鬼には用意されているのだと思います。……多分それほど、この世界にとって自由にさせてはならない存在なのです、吸血鬼は」
最期まで逡巡する心を溜息に混ぜて吐き出して、ヘリテは一瞬空を仰ぐ。見えるのは森の切れ目から覗く狭い暗黒と、さらに僅かな光のみ。だがほんの微かに、暗黒に藍が混じり始めている。
今宵はもう、あまり残ってはいないようだった。
「下ろしてください、クゥエル」
背中を軽く叩いて促し、ゆっくりと地に足を下ろしてから、ヘリテは軽くクゥエルの背を押した。
少しだけ未練がましい手つきになった気がしたが、自分に気のせいだと言い聞かせる。
「背中、冷たくなってしまったから……また川にぶつかった時に、お願いします」
そう言って、背中を見つめたままクゥエルが歩き出すのを少し待った。だが動き出す気配がない。
どうしたのかと視線を上げると、こちらを見ているクゥエルと眼が合った。
ただ、顔が見えるのに表情が読めない。何時もの仏頂面、とは少し違う気がしたのだ。
鳩が豆鉄砲を喰らったような、虚を突かれた顔に近い気がしたが、ヘリテはそんな隙だらけのクゥエルの顔を見た事が無いので、確信がつかない。
「どうしました、クゥエル?」
「いえ、失礼しました。想定が少々崩れたため、この先のスケジュールを調整しておりました」
「一体何を想定していたんですか……」
問いには答えずに、クゥエルはヘリテに恭しく手を差し伸べる。
きょとんと首を傾げるヘリテに答える時には、すでにその顔は何時もの仏頂面に戻っていた。
「次の休憩地点まで少々距離がございます。少し歩調を早めますので、お手を預けていただけますか?」
ここでようやくヘリテはクゥエルの表情に合点がいった。
どうもこの執事は、今しばらくヘリテを背負いっぱなしで駆けるつもりだったらしい。
背中が凍えるのも構わずに。
こんな時に浮かびそうになる笑顔を必死に押し止めながら、出来る限りもったいぶってヘリテは差し出された手を取った。
「引き続き、お手柔らかにお願いします……明け方に間に合わなさそうな時は、またお願いしてもいいですか?」
「問題ございません。そのためのスケジュール調整でございます」
どっちの意味ですか、とはヘリテは問わなかった。
そして事実、夜空がはっきりと白むその直前に、二人は次の休憩地点――森の深くに埋もれるように佇む小さな丸太小屋に、手を繋いだまま辿り着いた。