八章 これなるは根の国、死者の国(1)
闇を潜ったのは一瞬の事だった。墨のような濃く粘性の強い、しかし肌に残るものも無い、不思議な感触。
気がつけば二人は薄暗がりの中、巨大な通路の真ん中に立っていた。
道幅は馬車二台が余裕で通り交い出来る街道よりもまだ少し広い。
通路の左右はやたらと凹凸の激しい岩壁に閉ざされている。
天井は、無い。正確には見えない。
周囲は夜の森よりも少し明るい。見上げれば遙か遠くに朧な青白い光が幾つも見える。星の光にも似ているが光点がもっと大きく、放つ光にも柔らかさがあった。
一体光源がどれほどの高みにあるのか、ヘリテの目を以てしても分からなかった。
「ヒヒヒ! ようこそ、【根の国】へ!」
いつの間にか、目の前にはあの巨大な嗤い犬が蹲っていた
ヘリテと視線が合うとすぐに立ち上がり、その場で自らの尾を追うようにくるりと回ってから、二人と向かい合うように腰を下ろした。
「オレの名は……ま、これでも神格持ちだ。簡単には名乗っちゃやれねぇな。一先ず『南の』とでも呼びな。この地の南の一角を管理してるんだ、あながち間違いじゃねぇだろうさ」
嗤い犬――サウザンはふと何かを嗅ぎ取ったように鼻先をもたげた。
「ほれ、さっそくお出迎えだ」
顎をしゃくった先――サウザンの背後を覗き込んで、ヘリテは一瞬全身の毛が逆立つ思いをした。
青白い人影が数体、暗い通路の奥を背にして立っていた。服を着た人の形をしてはいるが、その輪郭はところどころで塗り潰されたようにぼやけている。
幽鬼。肉体を保たない不死者の典型。彼等は思い思いの方向を向いたまましばしその場に佇んだ後、滑るように奥の暗がりへと消えていった。
「連中も歓迎するってよ。さて、こんなとこじゃあ大したお構いもできないが、それでも清浄な水と土には事欠かねぇ。一先ず水場に案内するから、休むにしろそっちで休みな」
そう言ってサウザンは立ち上がる。そして二人に尻尾を向けると、通路の奥――幽霊達の消えていった先へと歩き出した。
黒い犬の遠ざかる背中に、果てない闇へと落ちていくような錯覚を覚えて、ヘリテは反射的に足を踏み出す事を躊躇する。
すると右の手に何かが触れた。隣に立っていたクゥエルが手を取ったのだ。
見慣れたはずの均整の取れた無表情も、地上での奮闘のせいかいくらかやつれて見える。それでも、表情には大分落ち着きと余裕が戻ってきたようだった。
「お嬢様」
クゥエルはただ呼びかけるだけだった。ヘリテに何かを促そうとはしなかった。
ヘリテは思い出す。クゥエルは、何処までも自分の共をすると言ったのだ。
ヘリテもまた、クゥエルに同じ事を求めた。求めたのも同然だ。
――それでも一人で逃げろと言うなら……クゥエル。
――貴方が今ここで、もう一度私を殺しなさい!
自分が進む先こそが、彼の向かう先だった。
ヘリテは軽く手を握り返してクゥエルに頷き返し、出来るだけ大きく一歩目を踏み出した。
と言う訳で新章突入でございます。……今週中には終わらせたいところなんですが、思ってたよりも難物……頑張ります!




