間章二 魔神本尊(2)
アッシャーは大上段の構えを崩さないまま、四本の腕を迎え撃った。
一本目。正面から顔面を抉りに来たところを素早く畳んだ左肘で打ち払う。爪の先端が鼻と唇、右頬を切り裂き鮮血が跳ねる。が、痛みの諸々はこれを無視。
二本目。背後から首を狙う一掻きを、肘を畳む際の勢いを斜め下に向けて姿勢を落とす事で回避。それでも頭皮に爪が引っかかり、同時に髪の毛を幾筋も切り飛ばす。多少衝撃に頭を揺すられたし、皮膚も切れて出血はあるが、大した事は無い。
三本目。アッシャーから右側から脇腹を狙った突きを、姿勢を落として右肩で受ける。肩当てがはじけ飛び、爪が深く肉を抉った。激しい出血と痛み。だが剣を取り落とすほどではない。これも無視。
四本目。顔狙いの一本目をフェイントと目隠しにして、腸を掻き出しにくる振り下ろし。姿勢を落としたために矛先は胸に移っている。アッシャーは回避不能と見て分厚い胸甲と鍛えた肉体による受けを決断。心肺への重いダメージが予想されたが、即死しなければ良しとして息を吸い込み、衝撃を待つ。
直後に絹を裂くような悲鳴が上がった。魔神本尊の無機質な金切り声とは違う、血が逆流するような恐怖の叫び。
悲鳴の主は――もう何処にも居ない。
アッシャーの胸に振り下ろされた四本目の腕は、無論悲鳴などで動揺はしなかった。
だと言うのに、爪は胸甲に酷く浅い角度でぶつかり、力の殆どを無為に散らして終わってしまう。
アッシャーだけは見ていた。一瞬だけ自分の前に現れた青白く透き通った朧な人影が、悲鳴を上げると同時に消える姿を。
〈断末魔の小盾〉。励起した死霊に自らの最期を思い出させ、引き出した死への拒絶反応で致命的な攻撃を逸らす、死霊魔術による防御術式。
当の術者であるガルズが、何処か青ざめた顔でアッシャーへと苦言を放つ。死霊魔術はまともに使えば使うほど術者への負担が大きい。
「無茶も程ほどにお願いします、副団長」
「今に始まったこっちゃないでしょうが――とはいえ、助かった!」
満を持してアッシャーは今の今まで差し上げていた大剣を振り落とした。
半拍遅れて足を払いに来た前足を、大上段からの一撃で叩き切る。完全な切断にこそ至らずとも、明らかにおかしな角度にねじれた前足は全体重を支える機能を失い、つんのめるように全身のバランスを崩した。
だが、不安定な姿勢も長くは続かない。不気味な痙攣と共に、半ば断たれたはずの前足がその位置を正しく戻していく。
生命と無機質のどちらにも寄る辺のない、魔神でありながら不死者でもある魔神本尊。その再生能力と耐久性はでたらめだ。アッシャーの握る人造の聖剣でこれである。並の武具では痛手を与える事すら難しい。
しかし、そんな事はアッシャーが一番知っている。
当然、完全滅殺のために必要とされる破壊力の総量も。
肩の傷から零れた血を地面に跳ね跳ばしながら、金属製の腕甲で鎧われた右腕が十字を切る。殺人的な質量と速度が、ひゅごう、と空気を切り裂いた。
魔神本尊が再び戦闘態勢を整えるまでの僅かな時間に、アッシャーが破壊のための祈祷文をねじ込んだ。
「天に秩序の諸神在りて地に律法の満つるなり。人の集い在る処に創世の摂理の照らすなり。我、始原の一音を以て三体の威と恩を此処に示さん」
アッシャーの十字を切った右腕が、握った拳から人差し指と中指だけを伸ばした印形を形作って魔神本尊を指し示す。
そして吠える。始原の一音、一番最初の力ある音韻を。
「『力よ』っ!」
〈法力弾・十字列法火〉。
五発十文字、点ではなく面を形成した衝撃が魔神本尊の全身を貫き、打撃を加えると共にその動きを一瞬封じる。磔にされたように腕を二本掲げた姿で動きを止めたのを視認して、アッシャーが吠えた。
「今っ!」
『了解!』
硬化銀――人造聖剣を初めとする法武具用に開発された銀の合金――で形成された鎖が四方から投じられ、魔神本尊の一対の手と前足に過たず絡みつく。一日千秋とばかりに合図を待つ騎士達が練り込んだ祝福によって何重にも聖別された鎖は、絡み付いた対象をその場に縫い留めた。一度捕らえてしまえば、〈霧状転身〉どころか〈瞬間移動〉や〈緊急転移〉すらも許しはしない。
複雑に反響する金属音で泣きわめく魔神本尊は、まるで暴れ牛の如く全身を跳ね回らせて拘束に抵抗する。
対して神殿騎士達が、決して自由にさせまいと、渾身の力で鎖を引き絞る。信仰心と治癒法術によって人としての限界に近い鍛錬をこなした肉体が甲冑の中で膨れ上がり、万力のような力を生み出していた。
だがそれでも長くは持ちそうにない。騎士達の足元が滑り、崩れ、鎖を掴む手からは手甲越しに血が滴っていた。鉄をも超える強度の銀鎖が負荷に耐えかねて痛切な悲鳴を上げる。
だが彼等は務めを全うした。
アッシャーの準備が整うには、十分過ぎる時間を稼ぎ終えていたのだ。
正眼に構えていた灰銀の大剣を肩に担ぐように振りかぶり、さらに腰から上を捻り上げる。ただただ全力で振り抜くためだけの、実戦においては非合理的な構え。
アッシャーはその構えに自らの渾身の力を溜め込みながら、噛み締めるような低音で専用の祈祷文を唱え始めた。
「死は安寧、死は沈黙、死は静止、死は完成。死したる者、即ち飢えず満ちたる者、渇かず潤う者、止まりて静かなる者なれば。飢えて渇く者、動き変ずる者に生命の有らずんば在らざるなり」
不死者やそれ以外の超常存在であっても、行動し何かを求める以上は生命活動であると見做す宣告。
この宣告によって対象を生者と仮定し、故に殺せば死ぬものとして扱う。
既に死したる者を再び殺すための、剣術にして法術たる戦場儀式。
術者単独の戦闘用式剣儀式法術、法剣儀。
「生くる者須く死より逃れる事能わず、世に還らざるを許されず。歪にして仮初めなる生命よ、浅ましく疚しき妄執よ。正しき死を以て全ての負債を清算せよ。遍く律法の如く在れ!」
大剣とその周囲が、ぎしりと軋む。ぎぃぃと啼く。
内部に蓄積された反魔力の性質を持つ魔力――法力が空間をたわめている音だ。
魔法が存在する世界では、森羅万象もまた『魔』の影響から逃れる事は適わない。
故に、魔を打ち消す力もまた、世界に対して純然たる力としての一面を持つ。
「威ぃぃぃぃぃぃ鋭ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ在ぁぁぁぁぁぁ!」
そしてアッシャーは裂帛の気合いと共に、世界すら震わせる力の焦点を目の前の大いなる魔――魔神本尊に叩き付けるべく、跳んだ。
硬く舗装された路面が鉄槌で殴られたように陥没する。
全身を一個の砲弾と化したアッシャーが、一本背負いの形で身体ごと大剣を魔神本尊の頭部に叩き付ける。震動し燐光すら放ち始めていた剣身はまるで水を潜るように無抵抗に魔神本尊の頭骨の花を両断。勢い余って胴体部分を半ばまで断ち割った。
降魔系法剣儀、〈環魂剣〉。
ただの鉄の塊で実体の無い幽鬼を祓い、既に死んでいるが故に死なない屍鬼に痛撃を与える――本来はその程度の効果に留まる法剣儀も、使い手の練度によっては混沌の化身たる悪魔すら断ち割り滅する神威の剣と化す。
跳躍の勢いのまま、空中で一転してアッシャーが着地。剣を振り抜いたままの姿勢で、数歩地面を滑って止まる。
その背中で、魔神本尊が純白の光を放ち爆散した。
【昇光現象】。巨大な『魔』の塊に同じく高密度の法力が注がれた結果、急激過ぎる『魔』の分解還元が爆発の様相を呈したもの。
つまるところ、現界した悪魔ないし魔神が完全破壊された事の証明である。